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「気の向くまま、好きなように、力まず絵をかいています」と一言添える画家が日本に多くみられます。作為的でない、等身大の自分を表現したとのアピールでしょう。これは一面、自然体を尊ぶ日本の伝統かも知れません。禅の無為自然とも関係するかも知れず。

「印象派その後」のゴッホ時代に、人々が感動した絵は印象派ではありません。それより前の写実具象の焼き直しが好まれました。人々の愛好対象は常に前時代的です。印象派をリアルタイムに支持しても、当時は上流のステイタスにならず、もっと古い絵が教養の証しだったのです。

そんなゴッホの頃に、しかし一足飛びにポロックふうの絵は出現しませんでした。誰もそこまでは飛べなかった理由は、模倣で手を広げる人類の限界でしょう。画家は目に入る既存作品を参考に、バリエーションを加えます。著者の絵も1970年代に生まれるものではなく。

木製の自動車『T型フォード』が大売れした1910年代に、プリウスふうのスタイリングはやはりありません。思うがまま気の向くまま自由に発想し、どこまでも飛翔してみても、周囲にすでにある前例に似て、時代に縛られてしまうのです。

「自分の内から自然にわいてくるもの」は、それほど自由でも独自でもなく、時代の平均値だったりします。自由イコール創造とは、とてもいえるものではなく。等身大で時代の殻を破るのは不可能であり、作為的に力んで無理してやっと独創性が出るものです。

芸術創造とは何かといえば、要するに前例から離れることです。何も見ずには作れませんが、何かを見れば似ていく。そこを似ないよう、わざと故意に人為的に、力んで絵をかくのが正解になります。自然体でゆるく構えていては、その辺のありきたりの作風に似て終わります。
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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
Posted by現代美術はインチキの詐欺ってホント?