売れる画家と売れない画家はどこで分かれるのか
2017-02-16 Thu 01:09
作品が売れている画家と、さっぱり売れない画家がなぜ生じるのかは、昔と今では理由が違います。昔は、技量の高低でした。上手で手慣れた画家が、「よく描けている」とほめられて売れました。今は、買い手にわかる作品が売れます。わからないと売れない。

昔と今、たとえば18世紀と20世紀以降で何が一番違うかといえば、今は一人一人のやっていることが異なっています。ピカソとミロがそうであるように、作品が似ていません。こちらの企画美術展でも、全員の作風が拡散します。昔は皆がまんじゅうを作っていて、似た作風同士で上手さをくらべました。味見すれば上下が決まる。

今は、まんじゅうを作る画家がいれば、傘を作る画家もいる。自転車や下駄を作る画家も。その時まんじゅう作りと下駄作りをくらべて、どちらが上手かは言えなくなっています。ピカソとミロのどちらが絵がうまいかが決まらないのと同じ。だから、趣味の問題に落ち着きます。そのせいで、今の方が創造性の原意を理解しやすいはず。

誰もがほめる絵は、誰もが思い当たる絵です。誰もほめない絵は、誰も思い当たらない絵です。全然、全く完全に、誰一人として心当たりのない作風だと、ひとつも売れません。人は自分がわかる上限の作品が一番好きだからです。創造者は売れる定石を蹴って、他人の念頭にない方向へ走るから売れない理屈です。

今新しく創造したものが、みんなの価値観になじむことは、あり得ない話です。芸術大学が奇人変人を集めようとするのは、これが根拠です。全人類が永久に理解できない作品、美術だと認める人間が最後まで一人も現れない何かを作って欲しいからです。これは音楽や落語にはみられない、美術だけが突出したオーソドックスな価値観です。

この芸術の論理に、非常に多くがついて行けないわけです。理解できないものこそが本芸術だなんて・・・。案の定、芸術敬遠がどっと増え、もどきが栄えます。今どきの芸術家は、ゴッホのような死に方をしたくてやっているのではなく、オーソドックスな道理に沿っています。ひと昔前に盛んだった、ぺインター対アーティスト論もそれです。
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