自由と自由感が比例しない表現物はなんでだろー
2017-02-04 Sat 00:13
作者が自由な気持ちで飛翔し、その飛翔作品を見た人は不自由な気持ちになる。この問題を考えてみます。

過去にクラシック系の「現代音楽」や、ジャズ系の「フリージャズ」が流行して、すぐに陥った悩みがありました。簡単に言えば、作るルールを取り払った自由奔放な表現物は、鑑賞者には逆にストレスがたまって肩がこる問題でした。高揚するテンションや刺激は意外に感じられず、何も入ってこなくて眠くなったりして。

たとえばチック・コリアは、フリージャズ演奏が不評すぎたあげくに、ツアーの途中でゆくえ不明となってグループが崩壊したほど。当時のお蔵入りだった曲がCD化された時に買いましたが、締まりのない印象があったような。単調でイマジネーションも広がりにくい。

演奏家の自由が、聴衆の自由感につながらない問題です。そりゃ当然でしょと言いかけたとしても、ちょっとした謎です。作り手が自由を演じているのだから、受け手にその自由な気分が伝わってもよいのに、逆に身が固くなってがまん大会みたい。音楽でフリー何とかと呼ばれるものは、フリー度が高いほど内容が希薄にとどまる傾向です。

この現象は、自由が無秩序に向かいやすいと考えれば、簡単な話です。好きにやるとダレる、スポーツの自主トレみたいに。芸術がある種の混濁から生まれるのは、それはそれで真理でしょう。街の電柱と電線のごちゃごちゃが極端だと、時にはアートに見える実例もそれです。

しかし、無秩序の混沌そのものは芸術ではなかった。混沌状態で完成させたら、出来損ないになります。電線も偶然のまま純粋抽象にとどめては、他者に魅力に映らないはず。混沌自体は芸術でないから、主張になりにくい。そこに秩序を見つけて切り出し、再構築する腕で内容がふくらんでいくことは、悩むまでもない簡単な仕組みです。
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