現代アートは自由主義か排他主義か
2017-02-01 Wed 01:43
リベラルが本物なら、リベラルの否定も容認されるべき。哲学書の一節ではなく、今思いついただけです。これが自由主義の矛盾となってきます。リベラルとは寛容を意味し、本来は何でもありのこと。現代アートもリベラル主義の体現者といえるでしょう。

2015年にパリでテロ事件が起きた直後に、「表現の自由を守る」のスローガンがフランスとEU国で強く叫ばれました。しかしイスラムをからかう漫画は自由と言う一方で、キリストをからかう漫画は取り締まるべきの声に変わったり、キリスト叩きが違法の場合もあります。

表現の自由はまんべんなく許されてはおらず、「僕が許す範囲だけ」という恣意性含みの条件付きがその実体でした。ネットにも多い指摘は、「自由なら、なぜヒトラーの本はフランスで長く発禁なのか」「ナチスふうコートと帽子をコスプレ採用した日本のアニメプロモートは、なぜ中止させられるのか」。

中止は当然でしょと納得し合うのは取り引きであり、表現の自由は守られずに破られています。「この自由はマル、あの自由はバツ」と対応が分かれるなら、リベラルにあらず。高い理想を唱える人が、立場が逆になると基準を変えるパターンかも。自由主義は方便となっています。

現代アートはしばしばカタログで自由を標榜し、好きに羽ばたき奔放に飛び回っている印象があります。しかし類型化すれば、意外にフォーマットが片寄っていて、作風は全方位に広がっていないし、許容範囲は狭い。たとえば、現代アートっぽく見えない現代作品は、現代アートの仲間に入れないものですよね。「らしさ」というしるしが大事で。

「唱えた自由は守りたまえ」「守れないなら唱えるなかれ」の教訓は、原理主義の理屈としては一応成り立つでしょう。しかしそれよりも気になるのは、歴史的な作品は自由を唱えていないことです。本物の創造は自由を主張せず、早く消えるものほど主張している。それはおそらく、創造しないで芸術を名乗る自由が裏目に出ています。
関連記事
スポンサーサイト
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
この記事のトラックバック
トラックバックURL