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英語で「最後に理解する人」なんて言い方がありました。これは努力してついに理解に達する人の感動的な物語ではなく、永久に理解しない人の話です。救いようのない無理解な人間に、さじを投げた言葉。

こうした反語的な言い方は、日本人は苦手です。どうも活字を字面で追いかけ、額面にべったり沿って受け取る傾向があります。「理解すると言ってるから、理解する話だな」と。ネット時代にこの手の誤解釈が明るみに出やすくなり、意見交換の場でもすれ違いがよくみられます。

ネット掲示板で、Aがこう書きます。「この知事は、ウソを絶対言わない人格者としてぜひ表彰したい」と。すると、Bが反論するのです。「待て、その知事は前にウソを言ったから、人格者なわけないだろ」「賞するに値しないのに何持ち上げてるの」「わかってない」と。

事前に知事自身が、「私はウソを絶対に言わない人間です」と記者会見で豪語していたわけです。後で古いウソがばれたので、Aは知事の言葉を引用して反語的に皮肉っています。「待て」と書いたBは、Aが書いた反語表現を解さず、額面どおりに受け取ったという。

「あんたは最高の弁護士さんだよな」という言い方に、「いや、その弁護士はせいぜい中堅だろ」「世界は広いから、もっと立派な弁護士は大勢いると思うぞ」と活字どおりに返したらどうでしょう。反語や皮肉がわからない人だと、レッテル貼りされてしまいます。

アートに反語的な表現が増えたのは1910年代のダダ運動が発端で、37年のシュールレアリスム運動では応用が板につきます。もしレッテルを貼られる側のタイプが、美術の分野で指導的役割を発揮するなら、現代よりも古い近代美術さえ解せない作品の山となって、かなり具合が悪いでしょう。
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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
Posted by現代美術はインチキの詐欺ってホント?