建築パースに現代美術を感じないのはなぜか
2016-11-06 Sun 00:55
建築パースがちゃんとしたまともな絵で、かなりのハイテクニックであっても、芸術とは感じない話の続きです。建築パースは現代美術にも認識されず、現代アート展に投入されることもなさそうです。

現代アートは「何でもあり」の「自由奔放」がふれ込みです。開かれていて、範囲が無限大のリベラルなイメージ。展示室に砂利を敷き詰め、ゴミを積み上げるのもよくて、便器を置いたりバケツ200個もあり。1000個なら大作。現代アートは、好き勝手やり放題に思えます。

それなら最新の建築パースも、現代アートの列に並んでいいはずです。「パース200個は世界初」とうたいながら。でもそんな事例はなかったような。現代アートは何でもありだとは、実はウソかも知れません。

現代アートにも指向性があり、作風仕様が絞られているといえます。人類は、万物の全てをアートとして許してはいなかった。現代アートらしい範囲がちゃんとあって、自由の宝庫でないどころか、型さえ定着しているのです。既成の概念の超え方に、既成の概念があったり。

たとえば、カーデザインも自由ではありません。道路運送車両法の制約ではなくて、時代の顔が厳然とあります。ライトをキツネ目に作れば、今日ふうに見えるとか。丸いライトが4個あると、ものすごい違和感。現代美術もこれに似て、今日的に見える表現がちゃんとあって、逆らうと落選や売れない憂き目にあうことでしょう。

そうすると現代美術を見る時に、自由奔放を根本から疑った視点に立つ方法もあり得ます。現代っぽさから浮いた作品ウォッチャー。現代美術をわかろう、なじんで好きになろうとしないで、これは許せない、バカも休み休み言え的作品を探して笑う新レジャーです。ちなみに、19世紀のゴッホはその対象でした。
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