現代アートがわからない責任は誰にあるのか
2016-09-18 Sun 01:08
ネットのニュースや意見交換の場で見かけるコメントに、「文章が長すぎる、3行にまとめてくれ」というのがあります。200行ぐらいある評論記事への苦情ですが、これが現代美術を鑑賞する時にひそむ問題と似ています。

苦情を書いた人は、いわゆる読解力(どっかいりょく)が乏しい可能性があります。長文だと頭に入らず、うんと短く要約してようやく頭に入るタイプだとか。

しかし逆の問題も考えられ、文章のまとまりが悪く内容が散らかっていて、成果品の体をなさない悪文になっている可能性もあるのです。だから、受け手と送り手の、どちらにも嫌疑はかかります。

美術で「作品が難しすぎる、わかるように作ってくれ」が出た場合も、同様にどちらの可能性もあるのです。そして実際の責任配分が、半々だったらどうすればよいのか。鑑賞者と作者の、両方ともに難点がある場合・・・

鑑賞者がダメなんだという主張も、作者がダメなんだという主張も、どちらも的中しないわけです。こうした「話のわからない一方的な説教」ばかりが目に入ってくれば、白けちゃって美術をわかる気もしぼむでしょう。適切な批評が出にくい環境は、意外に致命的です。

鑑賞者と作者の落ち度が10対0なのか、0対10なのかを単純化して片寄せた話だと、国民はピンときません。しかしまた5対5なら、見る人と作品が和解できないでしょう。さて、どうするか。
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