プロのアーティストたちはピカソをわかっているのだろうか?
2017-08-24 Thu 03:46
こんなふうに想像しませんか。プロはピカソなどわかりきっていると。現代アートを作る美術家たちは、みんなピカソなんて初歩として心得て楽勝だと。ピカソは素人には難解だけど、プロたちには何でもなくて、とっくに卒業済みだろうと。

それはたぶん甘い見込みで、ピカソは想像以上に現代人の壁です。実際にピカソわからんという人は、美術家と鑑賞者で近い割合ではないかと感じます。その判定にたどりつくヒントは、たとえば日本で広まっている「芸術の本質はデッサンなり」です。

音楽にデッサン技術はないと、簡単に突っ込めますね。映画にも落語にもデッサンは存在せず。美術だけが成り立つ法則は、こじつけを疑うべきでしょう。著者は長年の結論として、表現の裂け目を芸術性だと指摘しました。これは、音楽にも映画にも、落語にも生け花にも通じます。自己矛盾もダブルスタンダードも起きずに、すっきり。

ピカソをわかるとは、表現の裂け目を感じ取ることです。それができるかは、美術大学の入学前にチェックしないはず。だから美術大学の学生は、国民とそこは同じスタートになる計算です。入学した後で、本書のような授業を受けるわけもないし。

美術大学は変人ばかりのイメージが先行しますが、中に入れば普通の人と同様だと強く感じるものです。橋の課題に、ぶっ飛んだ橋を出すのはやはり皆さん苦手です。普通の端を出せる変人は多くても、奇抜な橋を出せる変人は少ない。これ豆知識。

裂け目と親しい作者は、もちろんすぐわかります。しかし、もはや現代的表現の自由とは、非芸術へ外れる自由を意味するも同然。現にリーダーが脇役に徹するブラックボックス展は、動員客数もニュース性も絵画展をかすませるほどで、精根込めた芸術品を軽々と駆逐しています。
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