ピカソの絵のここがこうすごいと言葉で説明するとどうなるか
2017-07-16 Sun 00:40
「子どもの絵に見えるピカソの絵の、どこがどうすごいかを僕に教えてください」という問いに、きちんと答えて説明したとします。でも質問者自身は、特に変化しない可能性も高いのです。

たとえば、このブログには、本書にはないフレーズがいくつも出てきます。そのひとつが「芸術は裂け目である」です。そこで「子どもの絵にない裂け目が、ピカソの絵にはある」と説明し、児戯と区別する根拠にあげたとしましょう。

ところが、裂け目の存在は国会で決めた法律や、裁判所の判決ではないし、授業で習う哲人の名言でもありません。世界で一人だけが言っています。他に言う人はいません。各人が支持するかだけの話。子どもがピカソの『泣く女』みたいに描けるかは、国民が感じ取る部分です。実際にそう感じる、という体験がないと進みません。

詩的といえるセンシティヴな部分で、現代人がいかに感受し得るかは、やはりばらつくでしょう。価値の多様化以上に、文明の進歩で文化面が後退する流れもある前提で。子どもとピカソの差を感じられない人の輪は、年々大きくなるでしょう。

大きい刺激が許容に収まりきらない変化とは別に、小さい刺激を感じない変化です。たとえばコピー食品をめぐって、本物と偽物を食べて区別できない悲しい事態が話題になります。「何だってかまわないよ」という一見リベラルな太っ腹の裏に、感覚の鈍化が隠れていることも。

芸術は裂け目だ、裂け目だと大勢で言い続けたら、ピンとくる人も増えるかも知れません。しかし日本で芸術の本質は、「デッサンの確かさ」「手の器用さ」「人徳」が通念です。三つともない太古の作品は今の人は苦手。理屈と体感の壁を、どう越えるかという課題があります。
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