公募コンテスト展覧会が主流なのは議論が苦手な国民性?
2017-07-13 Thu 00:13
日本人は議論がへただという指摘は、昔からありました。あげくの果てが、1970年前後の連続企業爆破や、社会革命闘争テロ事件だったのかも。正義は正しいとする当時の世直し行動。最近また容疑者が摘発されたニュースに、昔を思い出した方もいるでしょう。

国際社会で期待される行動は、グローバルへの同化ではなく、ローカルの主張です。この「主張」をめぐり、「議論を知らない日本人」という指摘が昔から根強いのです。欧米では討論の技術を義務教育の授業で学ぶのに、日本には何もないから議論が苦手な人に育つと言う声です。

結果の一面なのか、国内の有名コメンテーターたちも非議論的です。例として、テレビの討論番組がよく言われます。一方がとことん主張し、もう一方もとことん主張し、最後に司会者が両論を対比させ、後で視聴者が考えるという、当然の流れが生まれにくいのです。

放送局からみた味方と敵が、最初に決めてあります。敵が発言すると、味方が途中で割り込んだり大声をあげ、放送局側の司会者が話をずらしたり、打ち切ります。フェイントでCMを入れたりとか。敵に発言させないよう圧迫して流れからはじき出し、圧勝するいじめ方式が普通。

これを茶番と嘆く世間の声は少なく、国民も納得しているフシがあります。根底にあるのは、正邪が固定している前提です。正が邪を切り捨ててくれたら、リスナーは頭を使わずに済む。何が正しいかは上に決めてもらい、正しい結論だけを国民が知りたがる風潮というか。

正しい意見を通し、間違った意見をさえぎる手法は、政府もとります。マスコミの偏向実態を国民に説明すれば拍手なのに、マスコミに言わせない制限を選んでしまう。ならば日本に多い美術公募コンテスト展も、やはり同じ国内だからなのか。作品の正邪を上に決めてもらい、正しい作品だけを国民が知りたがる風潮というか。
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