本当の本当は、誰もが最初からわかっている抽象造形
2017-03-18 Sat 01:20
日本に伝統的な絵画の型が色々とあります。「梅にウグイス」「竹林」「鯉の滝のぼり」など。日本画の団体展でも見かけて、カタログショッピングにもそうした伝統スタイルの絵画や版画が用意され、外国向けのみやげ品にもなって人気です。

そんな定番のひとつに「富士山」があります。「赤富士」「雪の富士」「夏富士と鶴」をはじめ、膨大なパターンが普及していて。江戸や明治の浮世絵にも登場し、古典的な題材としても定着済みです。そこに大きい謎があります。

富士山を描くと具象画に分類されます。具象画だから誰にもわかるし、味わうのも楽勝。しかし、山自体は抽象的な形状です。要するに円すい台。元の幾何学図形のカクカクを、有機曲線に調整した立体作品みたいなものであり、造形作家の抽象オブジェと差がありません。富士山自体は、言うなれば巨大な抽象彫刻です。

なのに、それを描くと具象画と呼んでいます。具象画の正体は、抽象物を写した絵だった。描かれたモチーフは抽象彫刻相当なのに、皆がよくわかって悩みなし。「抽象はちょっと」「抽象がわかるやつは狂っている!」となっていません。山も抽象、その絵も抽象。なのにわかる。

富士山を自動車に置き替えます。フェラーリとか。車もやはり抽象造形です。車は、車以外に似ていませんし。しかし、「抽象車はわからないから、僕らにもわかる具象車が欲しい」という要望はまずありません。こうして世の中を見回せば、抽象的な物体ばかりです。万物みな抽象。梅もウグイスも竹も鯉も滝も、バラも裸婦も抽象的な形。

すると、抽象画や抽象彫刻がわからない声は何なのか。逆に、具象的な形は本当にあるのか?。どうも人が美術に向かう時に限って、心が固く緊張している疑いがあります。鑑賞のプレッシャーで平常心を失うなどして、コチコチの心理的ガードができてしまう。心因性のトラウマなのか、条件反射なのかは、脳科学の出番かも。
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