三大画家タイプとダダ運動タイプの違いは自由度の高さなのか
2017-03-15 Wed 03:40
現代美術への批判で多い言い方が、「自由過ぎるのはよくない」です。「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」だとして。要は「程度の問題」です。控えめな自由は好ましく、行き過ぎた自由は好ましくない意味。自由過ぎた作品で美術界が荒れて、庶民と切れてしまったのだと。

そうならば、ピカソの抽象画は自由過ぎてまずかったと言いたげです。ピカソがもう少し不自由で型にはまった絵にとどめていたら、現代アートのわけわからん状態も防げて、重いため息気分もなかった話になりそうです。ピカソが『青の時代』『新古典主義』で止めていれば・・・

そんな自由主義批判の考えを、この本では全くとっていません。自由の量的な大小は関係ないという視点です。造形のメチャクチャぶりを全く制限しない立場。代わりに、人類のアートをたった二つに分けました。自由の分量ではなく、存在の次元で二つに。

すなわち、表現の手法がどこかで一休さんのトンチに替わった時から、美術の崩壊現象が始まったと解釈します。この要領で現代美術を二つに分けると、急に見通しがきくようになります。ピカソ作品を「三大画家タイプ」、市販トラクターを「ダダ運動タイプ」と定義しました。

土木建設で「橋」を造る時、世間がびっくりするような橋の計画が持ち上がったとします。形がへんてこりんだとか、あぜんとする色だとか。連続しない飛び石型でもよいでしょう。この時、どんなに奇妙キテレツな橋でも、ピカソの絵と同じ次元です。ところが誰かが次の案を出したとします。「端をつくろう」。橋ではなく端を。端を繕う。

美術館のトラクター展示がそれです。ピカソとトラクターとも、人々はトンデモにぶっ飛び、不思議で理解できず混乱したり、狂っていると感じるなど、反応の言葉表現が全く同じです。しかしいくら同じトークで両方ともカバーできても、「橋でない端には中味がないよ」「創造する自由はそういう話じゃないよ」と、お茶を濁さず解説すべきでしょう。
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