日本のハロウィン論争にみる商業嫌いな潔癖症
2017-10-17 Tue 00:34
日本で毎年輪が大きくなっていくハロウィン祭ですが、この季節の論争のお決まりが、ハロウィン祭の是非論です。騒ぎやゴミちらかしとは別の、由緒など根底的な問題。北欧ケルト文化なんぞを極東の温帯地域の国に持ってきて、何なのだ?という反対意見が多いのです。

これはクリスマスやバレンタインデーなどが摩擦を受けた過去が、再来したといえるものです。よその宗教由来の文化を模倣して、原意と違う趣向に改変し、商業主義に乗せることへの否定感情があります。

批判対象になっている四つの項目、異文化、模倣、改変、商業はいずれも、日本で洋画と呼んできた絵画たちがたどった道に一致します。日本の印象派とか、日本の野獣派とか、日本のポップアートとかが、日本のハロウィン祭に相当しています。

四つで気になるのは商業です。「みんなついて行くな、宣伝に乗せられるな」「巧妙な商売だ」「菓子もカボチャも買うな」「祭のイベント化をやめさせろ」「業者のワナだ」「儲けるやつを止めろ」「日本を金で汚させるな」。不潔な商業を排除する気持ちでいっぱい。特に若い世代は、商業主義への生理的な拒絶反応が真っ先に噴出。

しかし日本古来の神事のおまつりや伝統的な村祭りや収穫祭も、とっくに商業に組み込まれています。ハッピに商工会議所の刺繍があったり、みこしやだんじりに企業名が書き込まれています。金で興行した祭りで金を回収する経済回転は、日本固有の祭りの数々が現にやっている。

「文化を商業に乗せるのは許さない」の部分。これが日本の芸術活動にもみられます。売る目的のアートフェアはまるで未発達です。圧倒的に多い公募審査コンテスト展は、会場で売らない規則がほとんど。美術展覧会の形式が、ハロウィン反対派の意向と一致します。美術品や写真類を換金させまいとした、国民の潔癖症が根にあるようで。
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鑑賞する時に作品のどこにまず注目すべきか
2017-10-14 Sat 00:10
どこかと問われるなら、作品ですと答えます。作品のどこなのかに対して変な答ですが、要は作品以外に注目しての鑑賞は失敗になるという、最大の注意点です。たとえば作品近くに金賞ラベルがあると、自由に見ることは人間には不可能です。人は情報にいちいち左右されるから。

ならば金賞ラベルはじゃまだからなくせという意見は、音楽や映画ではよくあります。優れた作品かどうかは視聴者の僕らが決めるから、称賛を並べて飾ってあると逆に目ざわりだという。音楽や映画では。

ところが美術だと、金賞ラベルは引っ込めの声はあまり出ません。たぶん大勢が頼るからでしょう。手がかりが何もないと鑑賞しにくいのが、美術の事情だから。ネットにアート作品評サイトが少ないのは、優れた作品かどうかを僕らが決めきれない、美術鑑賞の事情でしょう。価値がわからないから上が貼ったラベルを頼ることになって。

このように美術に生じやすい特殊化は、日本で目立つ現象です。ヨーロッパでは、絵に金賞ラベルをつける必要性はずっと下がります。自分で直接作品を見れば早く、美術鑑賞も音楽鑑賞や映画鑑賞に近いという。

では作品以外の評価情報カンニングをやめたとして、次に絵のどの部分に注目すべきか。もちろん全体です。重要なのは作品との距離です。作品の全体像を把握できる距離は、そう近くではないからです。目の視野角の生理的な限界があり、パッと全部見えるのはやや遠め。

試しにパソコン画面いっぱいに画像を映すと、目を画面から十分に離すことで全体がつかめます。一メートル以上とか。逆に顔を近づけて画面をのぞき込むと、職人芸モードの観察に転じ、勉学に近づきもします。遠くから見る方が、芸術性の把握は容易になります。意外なことに。
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アート作品はいつになれば完成するのか
2017-10-11 Wed 00:43
手塚治虫の漫画は、生前からレジェンド扱いでした。漫画雑誌に連載された後で、別の雑誌にまた連載されることがたびたび。特徴的なのは、掲載するたびに中味が改変されたことでした。手塚治虫自身がひんぱんに作り変えたからです。

なぜ漫画家が発表後の作品に手を入れるのかは、たぶん週間連載の締め切りに追われたバタバタの大忙しで、初版に不備が多いからでしょう。別の漫画家ですが、ネーム間違いや意味が通らないコマや、似た髪型の人物を描き間違えたアシスタントのミスもみました。

1980年代からか、不適切なセリフを改めるいわゆる言葉狩りが盛んになり、コミック単行本化で書き直すケースが続発しました。秋本治の『こち亀』で、中川の「天皇陛下バンザーイ」が早めに絶版になったのも、情報化時代に警戒したリスク管理だったのでしょう。

しかし手塚治虫の場合、絵やストーリーの変更も多いのです。手直しでなく改変。似た改変は画家にもあります。よく知られるのがピカソで、完成から時間がたって描き足すなどはざらだったと、側近たちの自伝に書かれています。ピカソは、実は一枚に時間をかけていた事実。

完成後に描き足したくなることと、芸術作品の実現が難しいことは、根が同じです。描いている最中の画家は、画面から押し返されます。時間がたって絵を見直せば、押しの弱い部分を容易に見つけ出せます。萎縮ぎみに引いた作品に、ほとぼりが冷めて気づきます。

しかし逆は起きにくいのです。後で見直して、絵の押しを弱く変えたくなる確率は低い。不足は感じても、過剰を感じることはまれ。ただし皆無ではありません。作品の力を下げる改変に、著者はたびたび遭遇しています。その心理の微妙なゆれを止めるには他人の助言が必要です。
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芸術は若いと有利なのか不利なのか
2017-10-08 Sun 01:42
若さの最大の武器が体力なのは、サッカー試合で痛感します。世界的なビッグスター選手が、徐々にレギュラーから外れサブに回り、久々の話題は下位リーグへの移籍。衰えたなあと人は言いますが、歳に勝てないのは万人共通の自然現象。

若い頃に戻りたい願いも多いから、医学も若返りを一大テーマとして進歩しています。しかしもし若返ることができても、脳の中味は今のまま変えないのが、多くの第一志望ではないでしょうか。脳まで若い頃に戻るのはちょっと、というのが本心では。

自分の若い時を振り返ると、照れくさくて恥ずかしいものです。当時の未熟な知識と思考に戻りたくない人も多いでしょう。若い心と体はアンバランスです。その若者によくみられる思考に、「絶対的に正しい永遠の正解はある」という信念があります。

「正しいものを残し、間違ったものを除去すれば、世の中は良くなる」式の思いは、年輩に少なく若者に多い。主観にまさる客観があるとの思いも。絶対的正義への一途な信心。相対的思考と逆の硬質で筋を通し、自ら正義の側にいる前提で。この自然現象的な高い意識がゆるみ始めた時、もう若くはないということでしょうか。

恒久的に正しいものは実はないのですが、どこかにきっとあると信じる間が青春でしょう。世界を相対的にながめ始めると、そんな青春の思考に戻りたくないと感じるものなのでしょう。若返りは体だけにとどめ、頭脳は昔に戻したくない気持ち。あの日に帰りたくない。

絶対的一択の猪突猛進は創造の突破力ですが、創造を抜擢する立場に回れば支障です。だから若者が創造して、年輩が拾う役割分担が、文化創造育成の成功方程式になる理屈です。この役割分担は音楽界では一般化済みで、美術界では今後の課題というところ。意外にできていない。
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政府が芸術活動を指導したジダーノフ批判を批判しにくい理由
2017-10-05 Thu 00:40
『ジダーノフ批判』なる語を聞きます。ソヴィエト連邦政府が1948年に始めた、芸術の検閲と指導です。国内アーティストたちの20世紀アヴァンギャルド芸術をやめさせ、社会主義リアリズムへ転向させたプロパガンダ。このジダーノフ批判への批判が珍しいのはなぜか。

クラシック音楽界のいきさつが記録され、ショスタコーヴィチの作風をソ連政府がヘイトしたプラウダ批判の、続編と考えられます。民族的で伝統的な作風へ戻させ、改心しないアーティストに国が悪のレッテルを貼り、食えなくするわけです。当然、西側国へ亡命する作曲家が続出しました。フランスやアメリカへ。

これとよく似たのが、ナチスドイツが開催した『退廃芸術展』でした。作風が腐敗した絵画を国内で一堂に集めて公開展示し、皆で馬鹿にして最後に焼却して社会を浄化するイベントでした。カンディンスキーやシャガール、ゴッホの絵も含まれたそうで。世界に害毒をまき散らす狂人たちの絵をなくして、美しい社会へと昇華させるために。

ジダーノフ批判は表現の自由をつぶした国家権力の黒歴史ですが、この恐怖政治を批判する声は少なくとも日本ではあまり聞こえません。なぜか。当時バツだった曲とマルの曲を聴きくらべるとわかります。

ソ連のスターリンは「芸術は難しい、現代音楽はわからない、抽象曲はちょっと」の人であり、簡単でわかりやすく親近感のある、明るく楽しい音楽を愛好しました。日本でも大勢の趣味はスターリンと合い、同じ曲に心奪われるでしょう。クリエイトよりノスタルジーに魅了されるのも、世の普遍性のひとつ。

「ヒトラーもスターリンも、アートでポピュリズム行政を実行した」と理解は簡単です。しかし二人が嫌った作品が、今の自分が苦手な作品と一致すれば、ポピュリズム批判もトーンダウン必至。かといって賛同もできず。ちなみに、日本でも総理大臣賞や文化勲章でマルはつけます。マルがつかない作風は一応冷遇の意味です。
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ピカソの抽象がわからないポジショントーク
2017-10-02 Mon 00:13
テレビの討論番組で、視聴者が「この発言には意味がない」と見切る、そのよくあるパターンはポジショントークです。立場に由来する発言。利害関係者の世論工作にすぎず、単なる私見と違い利益誘導だから。

ポジショントークが多くて討論の意味が薄い例に、「中東の紛争の根本原因」「旧日本軍の世界史的意義」「少子化はなぜ起きたか」「死刑の是非」「ダーウィンの進化論の正否」などがあるでしょう。最近よく聞く世界のフェイクニュース問題は、突き詰めれば正論を装ったポジショントークがネタばれした混乱です。

「意見の差は考えの差でなく立場の差だ」を美術に当てはめると、アート作品のわかるわからないが、あたかも立場のような作用を持ちます。個人の人生観まで拘束する、わかる範囲というもの。

アート分野で比較的よく耳にする言い方に、「ピカソの若い頃のデッサンはすごいよ、感動したよ」があります。ちなみに、ピカソの上を行くデッサン達人の若者は、日本の美術大学にも多いのです。日本の美大のレベルは低くないから、ぜひそちらにも感動していただくとして。

若きピカソのデッサンへの称賛は、後日の抽象画はわからない意味?。ピカソの抽象画がわかる人は、あの言い方は絶対にやらないでしょう。具象止まりだと他人から思われたら損だし。自分がわかる限界ぎりぎりを、人は語りたがるものだし。

最新テーマは、写実デッサンが芸術の本質でないなら、何がそれなのか核心に答える内容です。人それぞれなんて肩透かしでなく、いつもどおり突っ込みます。デッサンを芸術性と誤認し、美術と人の関係がまずくなったフェイク芸術問題です。ただし核心があらわでも、新たに損するポジションは意外に生じません。
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