ゴッホはゴッホを本当に認めていたのだろうかという問題
2017-09-29 Fri 01:11
日本語の乱れでよくあがる語。悪いと知りつつわざとやる犯行を、過失と区別して確信犯と呼ぶあれ。正しくは故意犯であり、政治家の領収書詐欺は確信犯ではなく故意犯です。確信犯とは信仰などに基づく一途な犯行を指し、養護施設のナイフ襲撃が確信犯でした。正義だと本人が信じているのが特徴で、概して黙秘しない。ドリルで証拠を消さない。

19世紀にゴッホが全く認められなかったのは、人々の過失や故意ではなく確信によるものでした。ゴッホ否定は正義だった。絵とはこういうものだとする信仰から、かけ離れた絵だったから。今も現代アートはこういうものだとする信仰はあるから、終わった話ではなくて。

ゴッホの死後、周囲の親しかった人たちも遺品の絵を欲しがらず、ゴミ扱いしました。当時、確信に満ちた視野が広かった画商ヴォラールは、何と19世紀中にゴッホ展を開催しました。先見の明。が、人々や業界から相手にされず。

ゴッホ事件で注目すべき点は、ゴッホが自分の絵を認めていた点です。そんなの作者だから当たり前だと思われるでしょうが、けっこう危なかったと著者は推測しています。根拠は、現代アートを作る者にしばしば起きる自分カットの実態と似ている、ゴッホの行動。

昨今の画家とて制作中にゴッホ並みに、未だ見ぬ領域に届く瞬間はあります。つまり筆が滑ったり勢い余って、特別なテンションの絵ができるわけです。心境のはずみなど偶発が重なって。故意でも確信でもなく、過失で芸術に届く。「これだ、これこそまれな創造だ」と、誰かが気づく絵ができてしまう。

しかしかいた本人が、奇抜な異次元の迫力に違和感を覚え、削り取って凡画へかき直す対処が起きやすいのです。別に凡が目的ではなく、当人としては感じよく整えているだけ。著者は結論しました。「芸術の芽をつむ犯人は作者だ」と。実はゴッホにも、自分のある突出を削った例が実際にあったと、本書でも触れています。
スポンサーサイト
関連記事
別窓 | ココが大事な焦点 | トラックバック:0 |
「で?」のリアクションは、美術公募コンクールでも起きる?
2017-09-26 Tue 00:55
ネット記事への反応によくある、「で?」という一言。記事に対して、「だから何?」「それがどうしたの?」という不満の投稿です。内訳は「長い記事だが、かんじんの結論がないぞ」「僕らに何をやれと言いたいかが、どこにも書かれていないぞ」。

記事の欠点を僕は見破ったぞと、やや得意そうな「で?」というリアクション。しかしよく考えてみれば、よく考えてみる習慣がない立場からの一言とも言えてしまうのです。

というのは記事の機能は、結論を出したり読者を指導するとも限らないからです。たとえば国家間の戦争は、背景も込み入って不条理や矛盾も多い。事情の複雑さを列記したまとめニュースもあり得ます。「こうあるべき」「あなたはこうしなさい」と結論を出さずに終わる、ト書き型の資料記事も多いでしょう。

「で?」という反発の裏に、「結論だけを僕に伝えよ」「僕がすべきことをはっきりさせよ」という、他力本願が隠れているのです。この心理を美術の分野に無理に当てはめてこじつけると、やはり公募コンクールがその気分に合わせた仕様ではないかと。

美術の大規模展覧会は二つに大別でき、欧米の主流はアートフェアという商談の場です。対して日本の主流は、コンクールという合格発表の場です。欧米では市民が自主判断して買う目的、日本では優秀作を偉い人から教わる目的。教わるだけで買わない前提ですが。

アートフェアを日本にも導入し、作品がト書きのように並べば、観客に「で?」が起きるかも知れません。内訳は「優秀作だけを僕に伝えよ」「僕が見るべき絵をはっきりさせよ」。しかし実際に開催すると、骨董市ふうになったケースがあったそう。欧米のアートフェアは全てが現代美術なので、方式以外にも日欧のギャップがあります。
関連記事
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
自由であることがマイナスにも作用するアートの不思議
2017-09-23 Sat 00:43
一般に芸術性とは、具象画ではデッサンの腕前とされます。抽象画では自由な造形。まるで逆です。インスターレーションは既成の概念超え、ボックス系なら事件性。表現物ごとに芸術の意味はバラバラで、これは多様化なのか芸術を見失った状態なのか。

現代アートのウリのひとつに、自由があります。芸術の本質は自由奔放だとするもの。しかし著者は芸術の本質は自由ではなく、表現の裂け目だと考えました。表現の裂け目なら具象でも抽象でも当てはまるから、具象画の不自由さをみて芸術の意味を変えたりは不要です。

現代アートの自由至上主義は、害も生みました。多い指摘はアートの使い捨てです。一発話題づくりしたら捨てて、はい次、はい次と回していくアイデア競争。自転車操業は人々に虚無感も起こすでしょう。7億円のトラクター展示から受ける感銘は、思ったより小さいし。

軽く使う言葉「自由」は、それ自体が解釈の自由でふらつきます。アートは自由なのだと言う時、作者の振る舞いの自由度なのか、作品を見た人が自由な気分になる話なのか。二つを分けずに、「自由万歳」で終わっているような。

美術で言う自由は、たぶん現代人の間で共有できていません。社会学で言うフリーとリベラル、フリーダムとリバティーの意味違いよりも、もっと混沌としていて。共通認識が失われている言葉のひとつです。

哲学的な話はやめて、そもそも太古のアート類が自由奔放でない点は重要です。むしろ逆に、厳格な秩序(オーダー)に従った物作りが多い。できることが限られた不自由な時代の方が、表現が伸びやかになる結果がみられます。とはいえ制作条件の自由度と、成果がもたらせる自由感が反比例するかも、簡単にはいえないのですが。
関連記事
別窓 | ココが大事な焦点 | トラックバック:0 |
音楽よりも美術の方がファンが少なすぎる意外な理由
2017-09-20 Wed 00:42
音楽ファンの層の厚さは、CDアルバム評を書いたアフィリエイト販売ページでもわかり、論じられる内容も高度です。一方、美術を売るアフィリエイトはまずなく、美術論は概して固い。ネット空間でも、美術はやはり一般化していないみたい。

音楽と美術のこの違いで、著者は最近珍説を考えました。音楽は共同作業で、美術は単独作業で、その違いが魅力の差になっているのではと。要は、音楽にプロデューサーあり、美術にプロデューサーなし。

結果、音楽は商品価値が高く、美術は趣味の世界。人々は音楽作品は本当によくできていると感じ、美術作品は不完全燃焼や生焼けに感じるのかも知れない。音楽は完成品が並び、美術は試作相当が並ぶ違い。最後まで詰めきれていない美術。きれいにていねいに仕上げる話とは違う、作品の充実度の問題。

著者は、美術作品の完成度が下がる原因を、一人で作る限界と考えました。一人の力は知れています。気の迷いでゆらぐし、才人でもアイデアが広がりにくく、チェックも入らず、駄目出しする別の目がない。しかも、チャレンジを無意識に避けているかも知れず。

制度も違います。音楽には印税制度があり、関わった担当者で山分けするルール。映画にもあって、でも美術にはありません。画家Aさんを画家Bさんが手伝って作品を向上させ、より高く売って二人で配分する契約が、美術には存在しません。システムがない。

美術は協力し合わない前提になっています。好きにできる自由と引き換えに、成果は低め。自主トレーニングに変えたスポーツアスリートが、とたんに記録が伸び悩むパターンと同様かも。鬼コーチではなくとも、協力者がいればもっとずっと魅力が出るはず。横のつながりもないこの慣習を破ろうと、著者は行動に移しています。
関連記事
別窓 | 美術つまらな話 | トラックバック:0 |
白人が和服を着た写真が、日本を差別した事件になった理由
2017-09-17 Sun 00:23
前はヴォーグ誌の表紙で、和服のモデル嬢が日本人差別だとして、アメリカ国内で糾弾されました。最近は誕生祝いで、日本の舞子さんに似たコスチュームの子どもが、同様にアメリカで糾弾されて、また日本人差別が理由。日本ではさっぱり理解できない事件でした。

いずれも、差別の文脈だと理解が難しく、著作権の文脈だと簡単です。唯一の超大国アメリカには、少数民族の伝統文化や風俗を模倣して消費するどん欲さがあります。我がもの顔で振る舞うコマーシャリズムとジャーナリズムの国民動員力は世界最大。

たとえばグァテマラなどの意匠を、欧米ファッションに利用する流行は昔からありました。しかし使われたマイナー民族側から、何度か苦情もあったのです。「我々の伝統文化を手軽に使い捨てされては困る」と。意匠権、著作権、専売特許と似た問題です。

アメリカ側は反省し、マイナー文化を白人がパクッて利益にするのはやめようと決めました。マイノリティーの異文化をヒョイと借りる気持ちに、マイナー軽視の差別意識があるのだという理屈で。白人が和服を着て表紙に写れば、日本国を軽視したとみなすアメリカ流の解釈です。

ではなぜ日本側は差別されたと感じないのか。日本で言う差別と意味が違うからでしょう。他文化を愛でると差別だと、その視点は日本になかった。模倣が侵害になるかが、国の強弱で動く発想がなく。

もっとも、和服の起源は古墳時代より新しく、唐時代に伝わった呉服が起源とされるし。アメリカ起源のTシャツ並みにすでにポピュラーで、保護を要するほど和装はマイナーでもないし。伝統保護の意識が国内に強くないし、縮小している国内市場もあるし。つまり日本からすると、和服はもう一般化済みの感覚でしょう。
関連記事
別窓 | 日本のここがクール | トラックバック:0 |
美術作品をつくった作者の気持ちをわかる必要はあるのか
2017-09-14 Thu 01:23
そう改めて問われたら、ノーの回答も多くなりそうです。「作者の気持ちと、僕らの芸術の感動は別だろう」という考え方が国民に広がれば、よい傾向でしょう。著者もいくつかの理由で、制作した時の動機をたどる意味はさしてないと判断しています。

理由のひとつは、たどっても当たらないからです。他人の気持ちは推理がつながらない部分が多くなり、ウソが多くなるから。ピンク・フロイドの名からフロイト博士の名を連想し、誤解釈を広めてしまった音楽誌の事例と同じで。

たとえば友人を亡くした知人がいるとして、その心境を別の人が体感することは困難です。そこで、自分の友人が亡くなった過去を思い出し、置き換えるわけです。関係を当てはめて推理し、自分との距離を調節して近似体験を想像してみる。

「おもてなし」を始め、日本人はこの置き換えの推理に長けていると外国から言われます。そうなった下地は、江戸からの長い社会教育と、学校道徳教育でしょう。日本国は地理や言語が孤立しているから、内部で共同体意識が発達した説も有力です。色々な理由で、他人の気持ちを想像するのが得意であろう日本。

ところがその日本人にも、抽象絵画の制作意図はまず読み取れません。作品がどうしてその造形に至ったかは、抽象どころか具象でさえ不明です。立場の似た美術家が、かろうじて憶測できる程度でしょう。

結論として、作者が何を思って作ったかは、読めないものです。それどころか作者本人も説明できず、だから世に出回る作品解説は実は他人がつくり広めたものがほとんど。制作コンセプトなるものは、娯楽ネタ程度にとどまっています。それはしかし悪くない現象です。
関連記事
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
映画『モンパルナスの灯』の悪徳画商は本当にいるのか?
2017-09-11 Mon 00:46
モンパルナスとモンマルトルは、よく間違います。著者も、あれ、どっちだったっけと、迷うことしょっちゅう。何しろどちらもパリにあり、どちらも芸術家が集まっている地区だったから。『モンパルナスの灯』という、モディリアニの伝記映画のお話です。

映画に出てくるキーマンは、リノ・ヴァンチュラ演じる超悪徳な画商でした。モディリアニの才能を見抜いて、しかし彼の絵を安く仕入れて転売益を高める策略を考えます。飲みすぎで死にかかったモディリアニを病院へ運び、死亡を確認してからモディリアニの妻の元へ。

死亡をまだ伏せておき、アトリエにたまっていた絵を安く買おうとします。妻は夫に支持者がいることを喜び、しかし値打ちがない前提の安価で渡すことに。画商は絵を次々とめくって確認。あの首の長い人物画が次々とスクリーンに浮かぶラストシーン。

ネットでは、あれがモディリアニの最後と心得る人が多いようです。映画評論サイトも、モディリアニの悲惨な事件として執筆されます。画商はしょせんあんな悪質な人種だと、訳知りに語る人も大勢。美術業界に幻滅して批判的に。歴史の記憶として、共有する史実として。

『モンパルナスの灯』は作り話です。モディリアニの最後はああではなく、絵を奪った画商は架空の創作キャラ。あんな人はいない。そもそも絵は安くすれば売れました。ところが日本であの映画を証拠にあげて、現実の画商は悪い奴らだと結論する人が多い。罪な映画です。後世の戦争エンタメ映画を歴史の証言とした、日本ヘイトみたいな感じ。

国内の悪徳画商といえば、贋作を銀座ギャラリーに売り歩くタイプや、契約画家に売れた金額を低く虚偽申告して差額の歩合を着服するタイプがよく言われます。それらもひどいから、フェイク映画を信頼する空気ができているのかも知れませんが。
関連記事
別窓 | 美術おもしろ話 | トラックバック:0 |
音楽のオブリガートの効果を絵画で読み取る
2017-09-08 Fri 01:45
音楽のオブリガートとは何か、ネットでよく質問に出ました。助奏と訳される技術です。ジャズ、ロック、ポピュラーでは簡単な話で、マイケル・ジャクソンの曲でも多用。が、回答は頭が痛くなる固い説明で、質問者が疑問を解消できていない様子です。

実例をあげた方が早い。宮川泰(みやがわひろし)作曲、阿久悠(あくゆう)作詞の『宇宙戦艦ヤマト』のこの部分。「うちゅうーーうせんかん」「ジャジャジャジャジャ」「やーーまーー」「ジャンジャジャーーアーン」「ジャジャジャ」「ジャンジャジャーーアーン」というあれ。「ジャ」で始まる金管楽器の演奏がオブリガートです。

スペースクラフトに生まれ変わった戦艦ヤマトの威容に、乗組員たちの高い志をつけ足します。行く手の困難と危険も予感させ、犠牲多き悲劇の旅を暗示する演奏。このラッパ演奏がないとマヌケに聴こえるから、飲み会で歌えば気の利いた人が大声で加えるほどです。

メロディーに加勢したり同調するに限らず、異なる方向へ広げる効果もあります。世界の映画音楽のオブリガートもトランペットなどが多く、高揚するメロディーに、やるせない気分や残酷な一面を加える小ワザがあります。これもまた、表現の裂け目の技術です。

同じ効果は、美術にも当然あるでしょう。絵画の背景は伴奏に当たるから該当せず、準主役的な描き込みが助奏役です。主役の近くにある引き立て役のパーツや、人物画の周囲の塗り分けなど。絵画のオブリガートも、裂け目の表現技術になるはず。できるはず。

ところが画家は、裂けるのを避ける傾向があります。主役をきれいに保ち、複雑な混濁をなくす意識が強めで。少なめ少なめの筆になりがち。「ジャンジャジャーン」の金管が聴こえない、歌だけの絵にとどまりやすい傾向を感じます。これを何とかする作戦は後で出てきます。
関連記事
別窓 | 美術おもしろ話 | トラックバック:0 |
芸術がわかる人を見分けられるかという一般質問
2017-09-05 Tue 00:39
えぐい質問も来ます。「芸術がわかる人を判別できますか?」の単刀直入とか。質問の意図は、誰の言うことが本当なのかという迷いもあるでしょう。何しろ取ってつけた俗説が幅をきかせ、利害対立の批判合戦が目立つ分野なので。

実は美術業界の人でも、芸術への関心があまりないことも多いのです。芸術性にこだわる人のみ、集まった業界でもなくて。芸術って何なんすか?と、意外な方向からの質問も来るから。雰囲気やカッコが先行する業界という面もあります。「アートって何かカッコいいじゃん」。

で、今の課題は「芸術がわかる人は外から見分けられるか」。わかりやすいのは、作品を見たがらない人はやはり芸術が苦手なタイプです。当たり前といえば、当たり前ですが。そこでカッコをつけきれずに、本心が出てしまう。

芸術論の執筆もやっていると、そちらの関係ができます。活字の打ち合わせの中で、美術をつくる者と相手が知れば、「どんな作品か見せてくれ」となるのが普通で、実際にけっこうそうなります。言い出さないのは、見ても判断できない告白サインと受け取れるのです。

自分にとってどれも同じでよくわからないなら、好奇心は生まれないものです。音楽も料理も違いがわかる人だけが、積極的に聴き回って食べ回りたくなります。コーヒーや紅茶もそうですね。違いを知ると関心は高まります。違いがわからないうちは、どうでもいい。優劣がわかるよりも、違いがわかるかが分岐点です。

美術が一般化した国では、違いを楽しみます。では特殊化した国はといえば、価値情報で盛り上がっていくところがあるような。美術が特殊化しているほど、作品を見る気は相対的に落ちて、値打ちの話題に関心が向かうと推測できます。当たり前すぎて、オチはなし。
関連記事
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
現代アートの主流に今なっている作品は、どちらのタイプ?
2017-09-02 Sat 00:17
ホームセンターで買った砂利を展示して、既成の概念を超えたと訴え、釣られた美術館に数千万円で納入するアートビジネスモデルが流行りました。日本に限らない話。「暗闇の展示室で客に何かが起きたら、それが僕のアート表現です」という方法論もその類例です。

現代アートはその手のとんちばかりだと、軽蔑する人もいるでしょう。あれで現代アートが嫌いになった人たち。しかし今も新作の中心は、とんちではなく物づくりです。キャンバス画や水彩や版画。人物画に抽象画。人数も才覚も、三大画家タイプに集まっていることを再発見。

多数派は創作タイプであり、創作放棄タイプではない。しかもその創作タイプ同士の作風は似ておらず、画一化や行き詰まりは深刻ではありません。とりわけ日本ではイラスト系がアートに進出し、新しいタイプの日本画が生まれています。要するにサブカル似の日本画。

鑑賞者の反応も、昔とあまり変わりません。「橋などやめて、端をつくれ」という一時期の潮流は、21世紀には下火です。今も続く制約は、具象のダリはわかるが、抽象のピカソはわからない傾向でしょう。生身の人間の能力が昔とそれほど違わないことに、逆に納得します。

戦後言われた「絵ではない絵」というのは、絵のことです。「絵ではないのが本物の芸術と聞いて、稲を刈って展示しました」式のダダ運動タイプのとんちは、むしろ昭和の感性です。平成時代終盤の昨今、古来型のリアル作品の巻き返しに、へえー時代はゆり戻すものだと。

暗いホールで体を触られる音楽会は、今では流行らないでしょう。似た流行は昔あったものの、集中実験して卒業しています。とんち競争が今もすたれない美術でさえ、作る楽しさと見る楽しさへの回帰は始まっています。原因は、保守化よりも飽食化でしょう。
関連記事
別窓 | 三大画家vsダダ運動 | トラックバック:0 |