現代アートのアカデミズム化とカルト化
2017-07-31 Mon 01:06
本書は美術の見方を習得する教科書ではなく、美術がわからない原因を解き明かすミステリー本です。焦点のひとつは、現代美術が日本で特殊化している事態です。現代美術が一般化せず、敬遠の敬意を受ける点。一般化していないから、一般には売れない作品たち。

現代美術の見方を教える本や説明記事は、次のような論調です。「現代美術がわからない人は、頭が古くて固くて価値観が後向きなのである」「だから新しい現代感覚について行けずにいる」「新しいものの見方や現代的センスを身につけさせて、わかる人へと変身させてあげる」。

それらは、現代アートを「正」として中心に置いています。わからない人は「誤」にとどまる遅れた人、劣った人の扱い。時代遅れの古くさい劣った人に手を焼く雰囲気が、「現代アートをわかろう」サイトにただよっています。

本書はその考えとは違い、現代アート作品への懐疑派です。「中味のない表現がやたら増えた時代」の視点がミソで、現代アートの欠点もたくさん書いています。ブラックボックス展は芸術とは別ものと示唆したのも、おそらく世界で唯一。現代アート万歳でない点が、現代アート愛好本との違い。アートエリート層にとって、挑戦的な話題も多い本書。

「正」の顔をし始めた現代アート側に、アカデミズム化の面が出始めています。アカデミズムの特徴は、権威性、正統性、保守性、閉鎖性。だがしかし、実際の日本で現代アートは特殊化、サブアート化しているのだから、何かが無理しているのです。

舞台の幕間(まくあい)の色物芸的な役割に、日本の現代アートが置かれている自覚も必要かも知れません。「わからん」という者に、「それはあなたが古い人間だからです」と改心を促すばかりでは、一般化には向かわず逆にカルト化するでしょう。
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売り絵という名のちょっとおもしろい世界
2017-07-28 Fri 00:15
美術ギャラリーの展示の合間や空きスペースで、キャンバス画の小品を在庫販売していることがあります。そこで見た同じ絵が、よそのギャラリーにも置いてあることがあります。同じ絵があちこちにある。

画家が同じ絵を2枚以上まとめてかいて、複数のギャラリーで委託販売しています。これがいわゆる「売り絵」です。『ヨットが浮かぶ海』や『草原に立つ小屋と大木』など、日本人好みの風景画が多いようです。手作業なので、同じ絵でも少しずつ違うのですが。

手慣れた人力版画のようなものですが、量を売るために使い古された作風がほとんどで、入魂の創造性はないものとみなされています。きちんとした仕事ですが、アーティスティックな面でいえばチープでもあり、飾り物のインテリア小物にとどまるでしょう。

著者は銀行の内装工務店の作業経験があり、銀行ロビーに飾る大きい絵を、美術学生バイトを集めてかいてもらったことがありました。埋め草的な役目なので、型にはまった絵です。店舗の雰囲気づくり用の装飾物として、絵画類の需要は意外にあるのです。

その需要で要求されるのは、脇役俳優です。場の主役に躍り出るとアウトで、気になる特異性や事件性、心に引っかかる裂け目があってはまずいはず。引っかからず印象に残らない、芸術性のない作品が求められます。これも売り絵の論理のひとつです。

売り絵は欧米にもあるみたいで、現地通販でも低価格なプリントアートが多くあります。画学生ふうスケッチ画が目立つ日本とは違い、全てが現代アートで抽象も多い。売り絵は当地の平均的な作風になっていると想像できます。その地でどんなアートが一般化しているかを、売り絵で知ることができます。
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ブラックボックス展批判とアート無罪批判が失敗する理由
2017-07-25 Tue 00:36
キーワードは、「ブラックボックス展」「アート無罪」「自由主義」。ブラックボックス展とは、真っ暗な密室のお化け屋敷型イベント。中で起きた出来事がアートだという主張です。女性客が暗い室内に入ると、中で男性らしきに体に触られるなどした事件だそう。

オピニオンリーダーたちはブラックボックス展を批判し、アートなら何をやっても許される「アート無罪」も批判しました。しかし批判論は、ほとんどが不発。その原因は、表現の自由奔放ぶりを危険視し、過剰を戒めた点です。それだと、人の表現はアートだとした自由主義の尊さにかき消され、何度やっても後知恵です。常識人の負け。

事件の下地は、三大画家タイプとダダ運動タイプを混ぜて語る、非芸術的脱線にあります。芸術抜きのアート論は、ロジックが散乱します。善人が安全策を持ち出しても、「芸術は危険な冒険である」式の三大画家タイプの特徴を盾にして、首謀者は逆に胸を張れる空気あり。

特に日本では、国民は芸術が苦手のまま放置されています。一般化せずに特殊化している。だから何者かが「これも現代アートだ」と言えば、国民は「それはアートとは違う」と言い返す力がありません。

近く、抽象ヘイトとSTAP細胞ファイナルと、ブラックボックス展の各章を追加予定です(第8集購入客は増分無料)。ブラックボックス展をうまく叩けない現代アートの構造を解いた内容で、ブラックボックス展批判とは全く違う話です。大勢が魅了され集まった大ヒットがカギ。美術と自由の強迫メカニズムは、世界初の解説です。

ブラックボックス展は、三大画家タイプではなく、ダダ運動タイプの表現物です。ピカソ系ではなくトラクター系。そこを分けないまま、現代アートに、自由の抑制、節度、モラルを説教しても、無駄な抵抗です。「非常識なトンデモこそが最高の芸術」式のピカソの成果を盾にして、首謀者は逆に胸を張れる空気あり。常識人の負け。
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具象と抽象のどちらともいえてしまう素材質感絵画
2017-07-22 Sat 01:15
前に「具象画の正体は、実は抽象画でした」という、達観したような結論を出しました。話を一般常識に戻すと、具象画と抽象画の両方にまたがる絵もあります。具象ともいえて、抽象ともいえる、両論が成り立つ絵が現実に存在します。

代表例は、素材質感絵画です。これは土壁みたいな絵。たとえば古い家があるとします。その家の外壁が風雨で傷んで、ガサガサ荒れて崩れ始めている、その質感や肌触り感を再現したような絵です。画材は絵具だけで、壁土は別に使われていませんが。

元はといえば、土壁を模写したスケッチ画ではなく、抽象画として描かれています。絵具をいじっていて、風化した壁に似ていると途中で気づいたわけで、スケッチ作業とは逆の順序で進んでいます。

架空の具象画とは、たとえばマンガの顔がそうですね。モデルがなくても一応は人物画です。同様に、素材質感絵画も静物画に一応できます。ただし、成り立ちは新感覚の抽象図案なので、「具象画の正体は、実は抽象画でした」という真理にやはり適合はします。

ところで日本で、素材質感絵画は支持を得やすいようです。マチエール(絵具を盛った肌触り感)は、昔から油彩画のチャームポイントです。質感や風合いには容易になじめる。そうしたテクスチャー情緒のひとつに、陶芸の素焼き作品がありました。素材感は、日本では最も感情移入しやすい鑑賞のツボになっています。

ところが、ドイツでは苦戦しました。一因は空き家プロジェクトです。古建築は日本ではリフォーム(仕上げ直し)され、ドイツではリユース(再利用)されます。ドイツでは、ガサガサ荒れた素材質感が壁全体に残っています。壁自体がまるでアート。そのホンモノの素材質感壁に、日本から送った素材質感絵画を飾ると埋没して引き立ちません。
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仮想通貨ビットコインと仮想アート作品のネズミ講エフェクト
2017-07-19 Wed 00:14
ビットコインは矛盾した存在です。誰もが自由に送金できるなら、テロ組織やテロ国家へも自由に送金できるから。ゲームや放送番組のガード解除プログラムと似たような反社会性があります。爆弾テロなどと闘う各国政府は、慎重になり制限もかけます。

そのビットコインがユーザーへの信用で決め手を欠くのは、ある焦点が常にぼけるからです。それは理論値の性能と、実質の性能の差です。たとえば、現金に戻す手続きの情報がなぜか少ない。戻させまいとするかのように。社長が横領したとされるマウントゴックス事件でも、関係者の説明はこうでした。「個人の悪事は、全体の安全とは別問題」。

しかし、マウントゴックスなる取引所は「いらない子」だったのか。その役目が全体の維持に貢献していたのなら、別問題に切り離せません。盗賊が取引係になれる制度は欠陥です。社長一人の持ち逃げが大手銀行一行の消滅に等しく、弁済は完全にゼロ。それを安全な仕組みとは呼ばないのが、普通の感覚でしょう。

実測値をたずねても理論値が回答され前に進まないやりとりとくれば、アートを連想します。机上の理想や願望のお題目は、アートに多い。ゴッホとポロックとも芸術だと言ったそばから、「芸術はデッサン」とは何のこっちゃと。話のわからない分野の横綱がアート。

アートもビットコインも、大きく値上がりするとニュースになります。ここで、仮想美術のビットアートを考えてみます。パソコンやスマートフォンで電子美術を鑑賞するヴァーチャルな世界。各端末のウォレットが不正防止装置で、一ビットアートの価値が変動する仕組み。

ビットコインと同様に、ビットアート購入者は他人にもすすめるはず。コイン数や作品数の上限があり、早期購入者は待てばネズミ講の効果があるからです。実はリアル絵画にもその構造があるので、絵の所有者が世に宣伝して資産増を図ってよいはず。そうしないのは、美術の価値は市民が決めず天が決めるつもりだからか。
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ピカソの絵のここがこうすごいと言葉で説明するとどうなるか
2017-07-16 Sun 00:40
「子どもの絵に見えるピカソの絵の、どこがどうすごいかを僕に教えてください」という問いに、きちんと答えて説明したとします。でも質問者自身は、特に変化しない可能性も高いのです。

たとえば、このブログには、本書にはないフレーズがいくつも出てきます。そのひとつが「芸術は裂け目である」です。そこで「子どもの絵にない裂け目が、ピカソの絵にはある」と説明し、児戯と区別する根拠にあげたとしましょう。

ところが、裂け目の存在は国会で決めた法律や、裁判所の判決ではないし、授業で習う哲人の名言でもありません。世界で一人だけが言っています。他に言う人はいません。各人が支持するかだけの話。子どもがピカソの『泣く女』みたいに描けるかは、国民が感じ取る部分です。実際にそう感じる、という体験がないと進みません。

詩的といえるセンシティヴな部分で、現代人がいかに感受し得るかは、やはりばらつくでしょう。価値の多様化以上に、文明の進歩で文化面が後退する流れもある前提で。子どもとピカソの差を感じられない人の輪は、年々大きくなるでしょう。

大きい刺激が許容に収まりきらない変化とは別に、小さい刺激を感じない変化です。たとえばコピー食品をめぐって、本物と偽物を食べて区別できない悲しい事態が話題になります。「何だってかまわないよ」という一見リベラルな太っ腹の裏に、感覚の鈍化が隠れていることも。

芸術は裂け目だ、裂け目だと大勢で言い続けたら、ピンとくる人も増えるかも知れません。しかし日本で芸術の本質は、「デッサンの確かさ」「手の器用さ」「人徳」が通念です。三つともない太古の作品は今の人は苦手。理屈と体感の壁を、どう越えるかという課題があります。
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公募コンテスト展覧会が主流なのは議論が苦手な国民性?
2017-07-13 Thu 00:13
日本人は議論がへただという指摘は、昔からありました。あげくの果てが、1970年前後の連続企業爆破や、社会革命闘争テロ事件だったのかも。正義は正しいとする当時の世直し行動。最近また容疑者が摘発されたニュースに、昔を思い出した方もいるでしょう。

国際社会で期待される行動は、グローバルへの同化ではなく、ローカルの主張です。この「主張」をめぐり、「議論を知らない日本人」という指摘が昔から根強いのです。欧米では討論の技術を義務教育の授業で学ぶのに、日本には何もないから議論が苦手な人に育つと言う声です。

結果の一面なのか、国内の有名コメンテーターたちも非議論的です。例として、テレビの討論番組がよく言われます。一方がとことん主張し、もう一方もとことん主張し、最後に司会者が両論を対比させ、後で視聴者が考えるという、当然の流れが生まれにくいのです。

放送局からみた味方と敵が、最初に決めてあります。敵が発言すると、味方が途中で割り込んだり大声をあげ、放送局側の司会者が話をずらしたり、打ち切ります。フェイントでCMを入れたりとか。敵に発言させないよう圧迫して流れからはじき出し、圧勝するいじめ方式が普通。

これを茶番と嘆く世間の声は少なく、国民も納得しているフシがあります。根底にあるのは、正邪が固定している前提です。正が邪を切り捨ててくれたら、リスナーは頭を使わずに済む。何が正しいかは上に決めてもらい、正しい結論だけを国民が知りたがる風潮というか。

正しい意見を通し、間違った意見をさえぎる手法は、政府もとります。マスコミの偏向実態を国民に説明すれば拍手なのに、マスコミに言わせない制限を選んでしまう。ならば日本に多い美術公募コンテスト展も、やはり同じ国内だからなのか。作品の正邪を上に決めてもらい、正しい作品だけを国民が知りたがる風潮というか。
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どこからどこまでを現代美術と呼ぶかは範囲が二つある
2017-07-10 Mon 01:12
現代美術という語は、範囲が二とおりあります。日本ではモダンアートは近代美術、コンテンポラリーアートは現代美術です。1960年前後のポップアート以降を、現代カテゴリーとするのが日本での一般論。

ところが、英語でモダンアートは現代美術、コンテンポラリーアートは今の美術です。整理すると、モダンは日本で近代、英語では現代。コンテンポラリーは日本では現代、英語で現今。完全一致しないから、日英の翻訳で調整が必要になります。

日英を合計すれば、1900年代のピカソも現代美術に含まれるから、「現代美術はわからない」という国内事情にうまく合います。それと符合するように、難解で理解及ばぬ特性まで含めるのが日本的な「現代」感覚です。わけがわからんから気をつけろという、警戒マーキングまで込めた言葉が「現代」。

この用法とよく似ているのは、クラシック音楽界の「現代音楽」です。「ギギギー」と弦楽器のきしみ音。静まったとたんに、「ガンガラ・ガッチャーン」と打楽器が鳴り響いて、「バーン・バーン・ババーン」とピアノの鍵盤を足で踏む音。唐突で衝動的で観念的で、近寄りがたいのが現代音楽というイメージ。現代美術と似た使い方です。

現代音楽とアナウンスがあれば、急いでラジオのチャンネルを変えたくなる。が、アメリカではオーケストラ公演ポスターに曲名を書かず、演奏が始まって現代曲と知ってもお客は平気だそう。アメリカで現代音楽は、ずいぶん前から一般化済みとされます。ならば現代美術も同様?。

日本ではコンテンポラリーバレエも含めて、理解不能なのが「現代」。そういうレッテル。だから具象画壇や油絵サークルの画家は、奇抜だと思われるのがいやで現代を名乗らないお約束です。そして、アニメ系のイラストふう人物画などジャパンコンテンポラリーは、古典系と現代系のはざまで居場所がゆらぎます。外国ではそのゾーンが売れるのに。
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1970年代の日本車にみるカースタイリングと芸術
2017-07-07 Fri 00:08
昔の車を今見ると、時代の変化を強く感じます。たとえば1960年代末からの日本車。ベレG、セリカリフトバック、ハコスカ、ケンメリ、117クーペ、GTO、SSS。過去のカー雑誌では花形扱いで、最近アメリカで人気のジャパニーズ・ヴィンテージ・カーもこの時代です。

実はそれらと似たスタイリングのクーペ車が先にアメリカにあったのですが、コンパクトにまとめられた日本のスタイリングが好評です。双方の目立つ特徴はヘッドライトで、高級型は丸型4個でした。ファニーやキュートという雰囲気がまだ残っていた顔つきの車です。

やがてマイナーチェンジし、ヘッドライトが角形4個に変わりました。丸形4個より角形4個ライトの方が、冷めた顔つきです。固く無表情になったよそよそしい時代の空気に、見た目を一致させたかのように。

次に起きた変化は、角形4個を合体させた角形2個ライトです。一体化したライトは横長になり、車の顔つきはいっそう無表情になりました。その次は高さを縮めた細目で、一段と無機質で機能的。ヒューマニズムがいよいよ消えて、非人間的な雰囲気が強調されました。

次のフロント角を丸めたエルゴノミクスボディの時代には、三角形2個ライトが急増しました。キツネ目の時代の到来です。世界中のあらゆる乗用車がキツネ顔。2010年代には目がもっと細く吊り上がり、無表情どころか不機嫌や憤怒をも感じさせる顔。ヒステリックな新自由主義世界のブラックムードに引っかけたかのように。

デザインは時代を映す鏡です。車では国際的な同調と相互模倣が起き、集団行動的です。一方のアートにも集団化する面はありますが、実際の制作現場は個人のマイブームで動いています。だからデザインでは審査が有意義ですが、アートでは審査員のマイブーム披露になっていて意義が薄れています。
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現代アートの巨大彫刻にキャンプ場の夜を連想した
2017-07-04 Tue 01:07
美術は難しいと国民に言われたり敬遠される境遇に、現代美術家も悩んでいたり、打開しようと頭を使っています。現代アート敬遠対策をがんばってほどこした、ある彫刻群があります。

クワガタムシ、ショウリョウバッタ、エンマコウロギなど、昆虫の姿をした彫刻です。鑑賞者はびっくり。何にびっくりかといえば、大きさ。長さ10メートルなど巨大で、どーんとそびえて目立つ。「芸術だけにスケールが大きいですね」と報道記者たち。子どもも大喜び。

しかし以前から羅列作品と巨大作品は、現代アート批判にさらされてきました。羅列作品は、肥桶も千個並べりゃ美しい式のいにしえの皮肉。巨大作品は、奈良東大寺の大仏のように信心を高める手法。アメリカンサイズのステーキ肉のように、ビッグな規模で感動させる近道。

作る側の言い分があります。造形にこっても反響がなく、オリジナルは虚しい。そこで皆が知る物を巨大化する。思い起こすのは、キャンプの夜にテント内で始まる怪談話です。物語を聞かせても誰も怖がらない。脚本ではもう通用しない。そこでふいに「ギャアッ」と大声で叫んで、「ぞっとするお話でした」と締めくくる持って行き方。

どんなものも、極端に大きくすると刺激が強まります。サイズがデカいは七難隠す。宗教などで、百メートルを超える巨大立像もありますね。ギネスブック。一方で手ごろな作品規模で、こった物語を静かに聞かせる脚本重視の彫刻家もまだ多いのです。造形をわかる人がいるはずだというロマンなのか、少数相手のライフワーク。

作品コンセプトといえば、高遠で深長なものを想像しますが、どの層をターゲットに狙うか、誰にわかって欲しいかもコンセプトの一種です。羅列作品と巨大作品が多く出てくるイベントは、俗な言い方で大衆向けといえるでしょう。
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児戯のごときピカソ絵画を僕は理解できないと訴える質問
2017-07-01 Sat 00:07
過去にネットでみた質問です。「まるで子どもの絵みたいなピカソは、何がすごいのか僕に教えてください」。この質問に親切な有志が次々と回答を寄せますが、質問者は納得しません。「それは話がずれている」「それは知りたい核心とは違う」と。

そのネット質問は、本書の切り口と似ていました。しかもその頃こちらは、「ピカソはここがこう違うから世界一だ」の章を書いていました。だからその直球勝負の質問に、親近感を持ちました。そういえば、本書は美術の評論とはかなり違い、「なぜ」の質問に答えた本です。

そのネット質問に寄せられたいくつもの回答は、現代美術がわかる美術本によくあることで、すれ違いを始めていました。ピカソの少年時代のデッサン力、『青の時代』の抒情性と繊細、『アヴィニョンの娘たち』で抽象の先駆け、『キュービズム』の多次元的な構成力。『ゲルニカ』での祖国を思う反戦と反ナチスの気概。

そうしたピカソの美学的価値や存在意義、業界に与えた多大な影響や、注目点などが回答に並んでいました。それに対して質問者は、「自分が知りたいのは書類上の裏づけ根拠ではなく、先人がピカソ絵画をどうすごいと感じて支持したのかだ」と。でも、答える人は現れません。

本書はその答も書いていました。だから宣伝文句に「世界唯一」を入れたほど。ではなぜそこを述べる人が現れないかは、現代人の美術への接し方どおりです。体感より周辺情報で測り、知識レベルで巨匠の価値に合点する。現代人の鑑賞法がそうだからです。だから瞬間風速がピカソを超えた作品も、無名とあらば相手にしない。できない。

人は自分の体感があって、核心を語るものです。ところで・・・、そもそも「子どもの絵のごとき」という疑問の発端もまた、知識レベルの分析です。やはり体感とは違う理屈上の比較。双方とも「僕はしびれた」「複製画を買いに走った」の情熱はなし。
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