芸術は人類のロストテクノロジーといえそうな状態
2017-06-28 Wed 00:24
本書は「現代美術がわかる」系に多い「視野を広げなさい」という説教をやりません。理由は文明の大進歩と並行して、文化がやせ衰えていく背景を感じているからです。芸術の衰弱が、ヒトという種に起きている疑いです。誰も免れないし、著者も含まれるであろうから。

時間とともに、よりゆるい作品を作る作者と、よりゆるい作品に好感を持つ鑑賞者が、同時に増えている疑いです。というのは、大昔の作品ほどビシッとキレて彫りが深く、きつい感じがあるから。新しい作品ほど彫りが浅く、ゆるんだ感じ。作業用刃物の、鋭利の差ではなくて。

古代アート展を見て、「すごい、昔はガチなんだ」と多くが驚きます。しかしそのガチな遺物にインスパイアされた現代作品は、甘いいやし系に寄った作風に必ずなります。キレキレ感は、結局は、古代アートだけの専売特許のまま。しかも今、キレた新作があれば敬遠する自分がいるはず。ぬるいものがしっくりくる自分が中心にいるはず。

それを指して「芸術は変わった」とは結論しないで、「衰えた」の視点で考え直しました。自分たちの時代を中心にすえて昔を見下ろすのを、やめてみるわけです。そうして、芸術がロストテクノロジーになりつつある疑いに、本書で繰り返し触れました。

そこに着眼した発端は、ガラクタ集積作品でした。アートの迫力を手で生み出せない現実が、ダブルで読み取れます。調べてみると、古代にはあったキレが中世にはすでに消えていました。造形バリエーションを広げてきた歴史にみえても、実はキレを失う歴史だったのです。薄れゆくガチ感イコール薄れゆく芸術性だとすれば、事態が説明できます。

現代人は芸術の語にはあこがれても、その実体には気おくれしやすい。キレた濃さに目を見張りはしても、新たに作ってみれば鈍く希薄な作風になりがち。切れず、さく裂せず、ゆるい現代。証拠として、後年ほどのっぺらぼうに向かい続けたある伝統アートを解説しています。
スポンサーサイト
関連記事
別窓 | 鑑賞者は悪くない | トラックバック:0 |
アーティストを枯らさないために互いの支えも必要
2017-06-25 Sun 01:23
おそらく世界で誰もやらない分析は、アーティストが行き詰まる過程です。当初は調子がよかった作品が、作り続けるうちにつまらないものが増え、アイデアが枯れていく変化を分析したことがありました。

そのプロセスは音楽でよくわかります。80年代終盤の、あるブラジル人のエレクトリックギター演奏が例。デビューアルバムは、作曲アイデアも演奏もみずみずしいものでした。すき間狙いが多い時代にしては、いかすメロディーの曲が次々と続きます。新しい才能が登場。

音の空間の飛躍にトリッキーなところが多く、和音展開もダイナミックで、楽器はよく歌って気が利く。演奏法も高く飛んだり低空飛行やキリもみしたりと多彩。曲と演奏がよくマッチし、やりたいことがうまく盛り込まれて、引き出しが多い。

ところが、3枚目のアルバムでわずかに衰えのきざしが出たと思えば、4枚目で信じられないほど落ちました。メロディーはメソメソ、歌のない歌謡曲ふう浪花節調に変わり、和音の回し方に飛躍が消え、どの曲もだらだら単調で動きが鈍い。聴きごたえのある仕掛けが出てこない。

かつてキマっていたかっこいいサビが消え、聴かせどころもなく足踏みする曲調。全曲スカばかりで一度も盛り上がらず、何度聴いても取りえがなく、印象に残らず。やはりというか、5枚目が出ない。ネット時代に海外サイトで見ると、4枚目のみ紹介されるかわいそうさ。

演奏力が上がり、創造力が下がるケースも多いのです。そこでグループメンバーやプロデューサーの組み替えでリフレッシュしたり、アルバムリーダーを代えたセッションで支え合います。独りで黙々と続ける限界は才人も同じで、解決策を美術にも応用できます。著者も他の美術家を外国でアシストする珍しい企画の準備中です。
関連記事
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
身近にあるアートを見て回れば、アートは身近な存在になる!
2017-06-22 Thu 01:09
ダリほどの超大物でも、盛大な展覧会で大勢があれれっと拍子抜けすることもある美術の不思議。美術館の不思議。企画の不思議。これは美術のよくある現象です。では、世に知られない作品だとどうなるか。そのおもしろさに気づいた人がいました。

ある高齢者から、現代美術展示巡りの趣味を聞きました。街中で小さな現代美術展を見かけると、必ず入ってみるという。わからないからおもしろい、どういうつもりで作ったかを考えるのが楽しいという話。謎に翻弄されるのが魅力で、古典美術よりも謎が多い現代ものを狙うと。

とりあえず東京や地方都市で、街中の小さい現代アート発表会や片隅のギャラリー展に、片っ端から全部入ってみると・・・。ローラー作戦のように。すると、意表をつくおもしろいものが意外に見られるのです。これはどういうことでしょう。

鑑賞者は普通、名作を原点にすえて考えます。お墨付きを頼り、受け身の鑑賞で済ませがち。最高級の優れモノだけ相手にしたいビギナー心理もあろうし。ところが街のギャラリー数十軒に入ってみると、美術館では起きなかった別の体験が開けます。

「美術館という晴れ舞台に期待しすぎたせいで、心理の落差が生じた」という話とは少し違います。武道館コンサートとくらべようのない小さいクラブのギグにも、人の力量は費やされている点に注目です。小クラブの出演も、内容は特に劣らないこともしょっちゅう。ネームバリューと出来が比例しない、能力分布の実態といえます。

音楽で、教科書の曲だけでは感慨がない状態も似ているかも。たまたま知らない盤を間違って買うと当たりだった、それが美術でも起きます。「現代の代表的画家は誰?」と問われると、とっさに耳なじみの美術家と芸能人が浮かびませんか。受け売りの境遇から出る方法として、近場のミニ美術展を視察するのは安上りの近道です。
関連記事
別窓 | わかる手がかり | トラックバック:0 |
ダリ展がつまらないという声が集まった昔
2017-06-19 Mon 00:16
シュールレアリスムで知られるサルヴァドール・ダリが生きて、大やけどもなく現役の頃、ダリ回顧展が繰り返されました。知人の学生たちも会場に来ていて、感想を聞きました。「意外につまらないと感じた」という声が集まり、皆さん表情がやや曇りぎみ。

何室も使って大量の作品を並べた大回顧展なのに、拍子抜けした印象を持ったという。原因はむろん回顧展にありがちな大量ゆえの薄まりと、また代表的な傑作が出ていなかった点も。しかしもうひとつが大事で、芸術性が低下しつつあった当人の事情もありました。

ダリのコンセプトは、「超現実主義」と「偏執狂的」。彼は学生時代から他人と協調できる幅が狭くて対立しがちな不良性で学校は退学、芸術運動の親分からも破門されたり、仲間との関係もムラがあったのです。インタビューで、「女性に芸術は不可能」と言ったりも。超現実主義的なヒゲと同様に、話題づくりと思えるトーク。

ダリの1930年代の作品は傑出し、明確な敵がある時に濃い作品ができています。が、定評ができ人気が出ると、セルフパロディー化の傾向が出ました。曲がった時計や燃えるキリンなど、型の反復。悪意を迫真性に持って行くタイプで、愛されると作品がゆるむ人でした。

当時のダリ回顧展に、油絵具によるデザインを感じました。この先どうなるのだろうねと言い合っていたら、やがてあの事件です。本書でも触れている、日本でも警察が動いたスキャンダル。

ダリの絵が教えたのは、アイデアは芸術と関係がない点でした。日本人はとかく「この絵は命が宿っている」などと言いますが、その方が核心に近いでしょう。ただし精神論や信仰的説法にそれやすいから、言い方が難しいのですが。ともあれ、モチーフや意匠操作は具現化の処理法であって、一応は芸術から少し離れた話です。
関連記事
別窓 | ココが大事な焦点 | トラックバック:0 |
絵を二度見るとおもしろい物語ができる
2017-06-16 Fri 01:55
昔見た絵を時間をおいてまた見ると、案外おもしろいのです。絵の事情から、自分の事情がつくられるから。自分の物語ができます。過去に見た絵の元へもう一度駆けつけると、きっと何かがわかるはず。

映画で経験はありませんか。映画館で観たずっと後でテレビ放映で改めて見て、印象が違うことが。縦横比の違いで画面の左右は切れますが、たとえば色なども。あるシーンで赤い服だった記憶が、後で見ると黄色だったりなど。こんな映画だったっけと。

ある映画。列車の座席に立てたアタッシェケースを殺し屋が両手で無理にこじあけると、ガスが噴出してひるみ、格闘になるシーン。しかし年月経て著者がDVDを買うと、アタッシェケースは床に平置きで、殺し屋はしゃがみ、片手でロック解除してあけるとガスが噴出。細部が全然違います。別の映画と記憶が混じっていたようです。

絵に再会すると、映画などと同様に細部の記憶違いに気づき、特に反動がよく起きます。つまり最初とは逆のことを、二度目に感じます。最初にガーンと強い絵だったら、次回はずいぶん繊細に感じたり。あたかも歴史的審判を短縮したような、振幅の大きいぶれが生じます。

ある面を初見で強く受け取って、作品は脳に片寄ってストックされるのでしょう。これは公募展の審査が、後世の目とかけ離れる理由といえそうです。審査時間によっては、細かく描き込まれた絵が優位なことも。微細な光景に快が生じる、ヒトの視力の問題もありそう。

そうした初見の印象の凹凸をならすように、多人数が何度もチェックした結果が歴史名作です。一人が一作品を一度だけ見て終わりでは、確かに何もわからなくて当然といえるでしょう。音楽も一度聴いて二度聴かないなら、難しくてピンとこない曲ばかりになります。同一作品を複数回見るだけで、アートにぐっと近づけます。
関連記事
別窓 | わかる手がかり | トラックバック:0 |
特殊化した現代アートを一般化させるために
2017-06-13 Tue 00:47
この本の目的は、日本全体が現代美術に関心を持つことです。目標とする成果は、作品が普段から売れること。「スペシャル」から「カジュアル」へ。欧米がすでにそうなっているように。特殊化から一般化へ。それも全国各地で。

方法は、二とおりあります。ひとつは現代美術の素晴らしさを訴えること。しかしそれは日本では限界で、現代アートは普及の壁に当たっています。1960年代や80年代の方が売れたのだから、前進していません。好景気のたびにニワカ投資が増えただけ。現代アート愛好家向けの活動は、国民の分断を深めただけ。それらを特殊化と言います。

現代アートが関わる街づくりイベントが報道されても、勝利宣言は早計です。そのイベントの主役は街であり、アートではない。アートが主役を張るイベントはアートフェアであり、美術品の流通増大が成功です。動員数の伸びは寄せては返すブームの再来であり、昔もあった特殊化。

日本中の美術画廊やイベントギャラリーで、新旧の美術品が日常的に売れている安定状態まで行かないとだめ。一過性アートバブルではだめ。ワンタイムの複合イベントでは、アートは毎日の糧でなくオマケ。

ネット時代の現代美術ヘイトを解決しようと、本書は再編されました。「巨匠の絵を見ても何も感じない、画商と評論家が価値をねつ造して、国民を洗脳してきたのか?」など、日本人のよくある質問に詳しく答えています。アート界がアートファンだけに優しい顔を向けた結果、むしろ理解し合えない壁が高くなった従来の反省に立って。

しかし答は、人類の芸術力が下がってきた文明の宿命に触れています。「現代アートがわからない人は時代遅れ」と上からな現代アートファンの感覚に対して、現代美術懐疑論を提言して半分は反論しています。
関連記事
別窓 | ココが大事な焦点 | トラックバック:0 |
ゴッホに無理解な19世紀の人々は情けない面々だったのか
2017-06-10 Sat 01:45
ゴッホの絵に感動した人に、よくある声。「これほど美しく素晴らしい絵を、なぜ同時代の人たちが評価しなかったのかが、僕には理解できません」「ゴッホの時代の人たちは情けない」。もっと昔には、「ゴッホと同時代の人を憎みます」と語り出す舞台演劇もありました。

しかし、今はそれほど違うのかという視点もあります。百年以上過ぎた現代にも新作展は盛んで、絵画や彫刻や環境作品が並びます。今の新作をリアルタイムに見る現代人は、ゴッホの頃の人々と似た反応ではと。僕らからみた昔の彼らは、子孫らからみた今の僕ら。

現代でもこう言うでしょう。「斬新なアートが集まった」「現代の新鮮な空気を感じました」。それと同じように、昔の人も斬新で新鮮な当時のトレンド作品に感激したはず。「じきに忘れられる作品ばかり一堂に集めてどうする気かね?」なんて思う人は、昔も今もいないわけで。

昔も良い作品を称賛して、悪い作品を却下しただけでしょう。最先端の優れた審美眼で、適切に公正に、厳正に選んでいたはず。なのに昔と今で名作が入れ替わる、それは「歴史的審判」という現象です。その理解を抜きにしては芸術に迫れない、最重要語句になっています。

歳月が流れると、感覚も価値観も変わります。変わった後を事前に想像できず、変わる前を事後に想像できません。洋式トイレやAT車どころではなくて。だからゴッホやゴーギャンが大物扱いされている今日は、当時の人にすれば全く驚きです。当時の人はもういないから、現代の選択眼を批判できないだけで。

歴史的審判は一人一人の心変わりではなく、世代交代で起きます。歴史名作は未来人が決めます。『モナリザ』や『浮世絵』も、歴史的審判の番狂わせでした。当時の人にすれば、「なぜ今はそんなのが国宝の座にあるの?」「俺たちの時代のカリスマたちの、あれほど美しく素晴らしい絵はどこへ消えたの?」。これはしかし、明日は我が身。
関連記事
別窓 | 美術ワンポイント知識 | トラックバック:0 |
海外へ逃げていく日本美術の今昔
2017-06-07 Wed 01:05
「日本では現代美術に関心が低い」と言うと、すぐに反論が出るでしょう。「現代アートフェスティバルは大入りだぞ」「テレビや新聞で話題だぞ」と。しかしそれは一般化ではなく特殊化です。交流パーティーや飲み会とバーベキューにプラス、都市の喧噪からの一時脱出。日常的に現代アート作品を買い、家に飾る欧米との差は開いています。

一般化したアート市場がないから、美術作品は外国へ脱出しています。実は今は、海外進出志望者が日本に増えていて、しかし思うように出られません。脱出資金がつくれない、国内不況問題があるから。台所事情で、美術からフェイドアウトする美術家がむしろ増えている危機。

昔に目を向けます。その技法をマネやゴッホが学び、印象派が生まれるきっかけになったと虚偽通説があるほど誇らしい日本の浮世絵。筆描きと木版画があり内容もピンキリで、明治の浮世絵は今でも日本の美術館に箱いっぱい保管され、大量在庫があります。

一方で、記念切手の図柄に見るような、写楽、歌麿、北斎、広重などの名作もあります。それらにも版画タイプは多く、原版の版木がどこかにあるはず。版木は「打ち出の小槌」でもあり、たいへん貴重な文化財ですが、それら名作の版木は誰が持っているのでしょうか。

実はアメリカにあったりします。明治の日本で浮世絵は無価値で、どうでもよかった。西洋の写実画より稚拙で粗末な、ガッカリ絵画でした。そのすきを突いて、欧米から来日中のエンジニアや学者が「コノエハグッド」と集めて、本国へ持ち帰りました。決定的な国宝級の版木を、アメリカの美術館が所蔵しているのはそのためです。

エジプトやギリシャや中国の美術品もまた、イギリスやアメリカに収蔵されています。ただ、日本は文明の勢いを持ちながらも、文明開化で洋ものに入れ込み、自国の絵に関心が低かったのです。明治に逃げて行った分と、戦後の名家没落による物納の流出分が主だとされます。
関連記事
別窓 | 日本のここがクール | トラックバック:0 |
血液型の性格占いが当たる理由÷美術が苦手な理由
2017-06-04 Sun 01:27
意外ですが、著者は血液型の占いは日本では当たると説明したことがあります。科学では法則を確かめるために、相関関係と因果関係の両方を証明します。ABO式では相関もなく、デマと結論されています。

一般人は当たり分だけに注目し、法則をすぐ見つけます。科学者は外れ分も統計処理して、法則を見つけません。たとえば、かつての交通事故犠牲者の霊があの世へ引き込んだバス事故などで、一般人が根拠とする怨念的印象論と、科学者が根拠とする数学的確率論が衝突します。

著者は、人間の被暗示性に着目しました。「O型はおおらかな性格」と子ども時代から言われたら、該当者は大ざっぱな行動が許された気になり、細かいことは気にしまいと心がけるでしょう。同様にAA型の人は自分の珍しさを自覚し、言われた特徴を表に出す傾向がありそう。

元々強い片寄りのない常識人は、あなたはこういうタイプだと言われると、それを演じる変化を起こす可能性です。期待を裏切るより、期待に沿う確率の高さ。これは教育心理学や、メンタルトレーニングで応用されます。言われた特徴と逆の人になるよりも、言われた特徴の人になる割合が多いとする推論です。

「抽象画はわけがわからない」が耳タコの人は、元々強い片寄りのない常識人なら、わからない大前提で鑑賞する習慣がつくと考えられます。「抽象がわかったらおかしい」と聞けば、「おかしくはなりたくない」「みんなと同じがいい」と。日本なら同調圧力もやや強め。

ABO式占いの性格配分は、人数が多い型の順に凡人に設定してある点が巧みです。多数派ほど平凡であろうとイメージする、人の心理にうまく引っかかります。国民の実感どおり法則性があるなら、暗示するだけで国民の性格改造に成功した珍しい事例にもなります。
関連記事
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
展覧会にちょうどよい作品の個数は何点か
2017-06-01 Thu 00:24
展覧会の作品は、何個置くのが理想かという問題です。日本の展覧会は特殊で、公募コンテスト展が主流です。先進国の主流はアートフェア方式で、目的はコンテストとは全く異なり作品販売です。欧米は商戦で、日本は賞選。商戦のアートフェアでの売れ方を考えてみます。

展示作品数が多いほど、よりたくさん売れそうな気がします。が、実はそう簡単ではないのです。今こちらでわかっている結論は、適正規模があることと、それが展覧会ごとに異なっていること。

まず展示数と売れた数は比例しません。絵を20枚展示して4枚売れたとします。6倍の120枚展示すれば、6倍の24枚が売れる計算ですが、やってみると同じ4枚だけ売れたりします。総数を増やしても売れ数はあまり増えない結果は、実はよくあるのです。

しかも時には120枚展示で3枚きり、20枚展示よりも逆転したり。質の条件は同じでなく厳密でありませんが、結果的に「あれれ」となります。なぜそうなるのかは、おそらく作品が多いほど鑑賞者の脳の神経がマヒするからでしょう。頭が疲れて一個ずつに集中できない。あまり多いと、どうでもよくなっちゃう。

音楽でもアルバムを1枚聴くうち、だんだん疲れてきて集中力が薄れる体験がよくあります。レコードよりも時間の長いCDで顕著です。だからある時1曲だけを抜き出して聴くと、これはすごいぞと新発見したりします。疲れていない感度のよい脳内に、作品がきれいに入ってくるからでしょう。ビールの最初の一杯みたいに。

だから、鑑賞に適した理想の作品数は1点です。注目が一点に向かう例は、ルーヴル美術館の『モナリザ』の部屋がそんな感じですね。次善は2点で、次が3点。実は高級アートフェアほど作品が少なく、会場写真も簡素です。しかしお客の体験は濃く、全点が売れることもあります。
関連記事
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |