ゴッホとピカソの話題が多い芸術的な理由
2017-05-29 Mon 01:35
本書に、ゴッホとピカソの話題が多くあります。近代画家である二人の出番が多い割には、最近の現代画家の話が少なめである理由に、二人の知名度があります。ネットで「わからない」「価値が理解できない」の意見は、この二人に集中しているのです。第三位以下を引き離して。

二人の作風は独立峰で、典型的な創造作品として芸術の説明にのせやすい点もあります。二人の画期的な作品は、当時はサイテー評価でした。美術誌が推薦したり、日刊新聞がほめあげたりもせず。無視のゴッホと違い、ピカソへの悪口はすさまじかった。権威あるアカデミズムの立場でなく、在野のアヴァンギャルドアート出身も共通。

名前を聞けば、たいていの人は絵を思い浮かべられます。わざわざ知られない画家の紹介から始めて、それを題材に美術のツボの話を始めるのでは、読む方はおもしろくないでしょう。

ゴッホもピカソも、オークションの最高額を競いました。二人より古いルネサンスなどの作品はもっと高いものの、オークションに出ないから話題にあまりならないのが難点。二人は新しい割に非常に高額で知名度抜群だから、世間の話題にもあがりやすい。

そしてまた、二人の作品に決定的な違いがあって、その違いが西洋美術史の大きい変革を説明する題材になります。つまり二人の時間が、実の詰まった前衛芸術の時代だったわけです。今日のように、事前に資本を用意して投機計画を立て、国際スターアーティストを故意につくり出す陰謀まがいの方式は、二人よりも後の時代に始まったものです。

本書では、現代はデザインの時代かと仮説を立てました。一人が許容できる芸術作品は、昔より範囲が狭いと推測しています。何でも知りながら、ほとんどピンとこない現代人。かくして、芸術が現代人の手に余るようになった人類の運命にこそ、謎解きの字数を多く当てたのです。
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現代画家の悩みは多品種になりやすいこと
2017-05-26 Fri 02:01
現代日本の画家の作品を扱っていると、過去にはなかったある問題が広がっていることがわかります。多品種化です。マルチ作風がとても多いのです。一人のやりたいことが多く、気が多い。

作風というものは一人に一つだけあるのが従来は普通で、人の顔でも森の風景でも、描けば雰囲気が共通するものです。デッサンのゆがみや、色彩の選び方、塗る筆タッチなどに個人のクセが出ます。しゃべり方みたいなもの。だから新作を見るとあの作者だとわかり、その特徴が個人ブランドにもなるわけです。

ゴッホもそうです。ミケランジェロのようなゴッホ作品はありません。絵を始めた当初は別にして、ゴッホらしさから遠くない範囲に全作品が収まっています。意外にわかりやすいのはピカソで、趣向が大変化してもピカソらしさが一貫します。生涯、自分ふうを外していません。どこで切ってもピカソ風なのが、ピカソ作品の最大の特徴。

日本の新しい現代画家は、作風系列が2種から5種もあったりします。しかも互いに共通する雰囲気がないほどで。具象と抽象を両方作る場合も、別人に思えるほど根底から違うことも多い。なぜそうなるのかは、世に既成品が多くそろっているからでしょう。作風見本がいっぱい。

作品のお手本や成功例に囲まれた恵まれた条件で、焦点が定まりにくい現象です。あれもいいな、これもいいなと感化され渡り歩きやすい。印象派以降のヨーロッパは、「今の時代はこれ」のメインストリームがなく、一人の中でも複数様式が同時並立できるし、やりたくなります。

そうしたマルチ画家を売り出すには、同一性を出すために顔となる作風を決めます。しかし才が発揮できている作風と、今やりたい作風が一致しないと、絞り込みは難航します。だからこそ美術にもプロデュースが必要だと考えたのですが、欧米でもチーム戦略が増えています。
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カレンダーフォトなら芸術を逆体感しやすい
2017-05-23 Tue 01:00
音楽でこんな経験はありませんか。「とてもきれいな曲だけど、ぐっと来ないんだなあ」。芸術の秘密を示す重要ポイントです。きれいであることが、まんま芸術性なのかという根源的な問題だから。明らかに違っても、違いの説明は難しいのです。

実は昔から「きれいなことと美しいことは違う」という言い方で、先人たちが提示してきました。とはいえ普通の国民の感覚としては、きれいイコール美しいイコール芸術性と、簡単に割り切りやすいところはあるでしょう。きれいは誰でもわかりやすいし。

たとえば油彩の具象画では、きれいさの程度に比例して目を引き心を打つものです。だから、この絵はきれいだけれど芸術性は低いのさという理解のしかたは、へそ曲がり的でやりにくかったでしょう。

ところが写真作品では、きれいなだけの空虚をよく体験します。代表がカレンダーフォトです。主にプロカメラマンが撮った思いっきりきれいな写真で、ある種のカレンダーでよく見ます。この語はかつて写真界ではよく言われましたが、ネットに情報はありません。

桜やもみじや渓流、気球が浮かぶ空だとか、高層ビルの重なり。たいへんにきれいでありながら、重みや深みがなく表面的なのです。素人には撮れない抜群にきれいな写真が、なぜ心に来ないのか。きれいだからそうなのか、きれいなのにそうなった失敗か。

ところが、芸術は裂け目です。カレンダーフォトには裂け目がありません。平穏無事で健康的だから、芸術的創造性を感じさせないのではと。文学作品も似ています。小説の多くに殺人や濡れ場があり、モラル破りやショッキング描写があるのはなぜか。きれいごとは芸術にあらずという真理は、平面アート以外では定着しています。
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血液型性格占いとモンスター的な言葉の芸術
2017-05-20 Sat 01:59
血液型で性格が決まる説は、大正時代の女性誌の占い付録で広まったそうです。信じるのは世界に二国のみ、大流行した日本と模倣した韓国だそうで、中国では信じていません。東西の欧州や中東、西と南アジア、南北アメリカ、アフリカ諸国、オセアニアでも信じないらしく。

著者が子どもの頃にその占い本が家にあり、性格の分け方に関心を持ちました。A型とO型の違いです。A型はどの解説でも善人が多い話になっており、性格は概して細かいとされます。一方のO型は細かいことを気にせず、むしろ神経が太いような解説になっていました。

当時の著者は、差の設け方で浮かんだのです。A型は「ええ方」からきて、O型は「大型」からきたのではないかと。発音に引っ張られてA型はええ人柄の善人となり、O型は大きくゆったりしたイメージでまとめたのだと推測したのです。タイプエーやオータイプと発音する国では、日本のようには語呂がなじまない道理です。

A型は人がよくて繊細で、O型はよく言えばおおらか、悪く言えば大まか。大様で太っ腹な性格だと割り振ったのではと。O型は何となく体格も大きかったり、多少でも太めに思えませんか。O型よりはA型の方がスリムな感じ。O型の方が体重が重い。ちなみにヒトラーはA型。

著者は似たことを「季節風」でも思いました。英語なら「モンスーン」で、モンスーン気候などと言います。モンスーンは季節風だと聞くと、さわやかなそよ風ではなく、強い風、暴風を思い浮かべる人が多めではありませんか。ビュービュー吹き荒れる激しさを想像して。これは発音が似たモンスターと、脳内でだぶるからではないかと。

発音と意味が合う好例に、昆虫のハエとカがあります。ハエより体が小さいカに、少ない字数を当てるのが日本語です。だからしっくりくる。英語だとフライとモスキートで、文字数も音も規模が逆転してしっくりきません。詩や歌など言葉芸術に通じる音の効用ですが、美術でも音と関連する表現があります。
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日本庭園を抽象絵画に変えるセンス
2017-05-17 Wed 00:09
「抽象絵画はちょっと」と敬遠する日本人も、旅先で日本庭園を目にすると普通に「いいね」「美しい」と感じることでしょう。実物ではない写真だとしても。その日本庭園の造園レイアウトとは別に、それを絵のように見せるビジュアルの工夫が、実は抽象絵画に似ています。

外国の人が驚く日本庭園の見せ方に、旅館やホテルの和室2階に大きくガラス窓をとった借景があります。窓から何メートルか離れた向こうに広葉樹が並び、枝葉を横から眺めます。立面図のように、水平方向の視線で見る仕組みです。庭園の色彩を、室内から絵画的に見せます。

夏には鮮やかな緑色で一面の壁、秋には赤と黄色で一面の壁。樹種により、緑の壁に赤がポツンとあったり、葉のすき間が黒いとか、赤と黄色の壁に白が点々と混じっていたり。

絵のような光景ですが、その絵とは洋画であれ日本画であれ、抽象画の体裁です。色を塗り分けたような構図。窓枠は額縁となり、窓の区切りは屏風の継ぎ目のよう。地面はトリミングされて見えないレイアウト。その絵のような美しさの正体は、抽象絵画の構成美でした。

美術と銘打たない分野では、日本でも大昔から抽象画的なイメージが得意でした。抽象図の美観が、和の伝統として一般化しています。錦鯉の模様の感覚。欧米で20世紀に抽象画が生まれ、ショックで動転したり賛否の騒動が尾を引いたのとは違い、日本ではよくあるし普通。

ところがその日本で本物の抽象絵画に対しては、「抽象はちょっと」となりやすい問題です。美術と銘打った時の条件反射なのか。著者が思ったのは、明治以降に流布した情報が発端で、社会教育効果によって苦手意識が国民に広まった疑いです。最近その線で一話ができました。
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ゴッホは斬新な画家だったという視点は何が問題なのか
2017-05-14 Sun 00:08
これは絶対正しいぞという発想に、こういう考えがあります。「芸術は斬新である」。「先進的」「時代の先取り」。皆の何歩も先を行くと。これは芸術分野で多い誤解釈のひとつです。

19世紀の人々はゴッホの絵を見て、どう思ったか。「この画家は斬新すぎる。20世紀にも通用するほど先進的で、僕らはついて行けない」と思ったわけではありません。そんな理由で買わなかったのではなく、むしろ逆です。「この画家は遅れている」と思ったのです。

「立派な画家たちに追いつく日は、当分来ないだろう」と周囲の人たちは感じました。先進ではなく後進。この部分で、世のゴッホ論は的を外しています。あるいは言葉表現しきれていません。「ゴッホは時代よりも先行し、当時の人の理解を超えた」は、まずい解釈です。

何がまずいかといえば、当時の人にそういう体験の覚えがない点です。人は、ゴッホを天才とも狂気とも思わなかった。だめ凡人。だから今、天から地を見下ろすようにして「当時の人々の先を行くゴッホ」とまとめたのでは、当時の人々の実感とかけ離れて支障になります。

何が支障かといえば、現代人が今の芸術を拾う時の参考になりません。斬新でぶっ飛んでいたゴッホという結論を引用すれば、今見て斬新でぶっ飛んでいる者が現代版ゴッホだという話になります。破天荒アーティストを、現代のゴッホだと誤認するでしょう。

当時の人はゴッホを逆に古くさいとも感じず、素直につまらないと感じました。理解不能の宇宙人ではなく、ミエミエのへたくそ画家。突飛ではなく、低いと。わかりきった駄作に見えた。その他大勢の一人。対価を払うような絵ではないと。だから払ったのは一人、知人の家族だけ。現代の非凡な中からゴッホを探すのは、いきなり支障です。
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棟方志功の版画とすり替わったカラーコピーは実は本物?
2017-05-11 Thu 00:06
棟方志功の版画がカラーコピーにすり替わって、3年以上前の盗難だとされる件。どうでもよいことではなく、業務上横領が広まっている兆候かもと疑う余地があるでしょう。過去にも、博物館入りの郷土出土品が自宅展示されていたケースがあったし。

1972年に初登場したカラーコピー機の最大サイズA3よりも大きいから、いわゆるゼロックスカラーコピーサービスを使った疑いがあります。ならば外注。その機械は棟方志功の生前にはありません。ニュース写真の後壁が白いのにコピーが黄色いのはそのせいかと思わせますが、元から黄色い絵かも知れません。周辺情報が少ないようです。

今のオフィスでカラープリンターを使う人なら、コピー紙であることに早めに気づくでしょう。版画の紙とは違うツヤとテカり。淡い部分や鉛筆の字はまだら状にかすれるなど、転写式コピーは低画質です。

話は横へそれますが、あのカラーコピーはただのゴミではありません。真贋でいえば、れっきとした真物の美術作品になります。こっそり取り替えた不正の意味で偽物だとしても、贋作ではないから本物ですと言うことも実はできるのです。

粗いドットプリンターで出しても、真物の美術品です。呼称は、作者が指示した印刷なら「版画」です。版画の定義は、印刷した作品であり、電気やボタン操作は関係ありません。作者の指示がないと「複製画」となり、あのカラーコピーは真物の複製画と定義できます。

ジクレーでの複写なら、高い再現性で永久にばれなかったかも知れません。6原色以上のジクレープリンターは1997年以降で、この時から水彩画を複製すると目視の判別は困難になりました。外からのドロボウ以外に、対内的な収蔵品セキュリティーの見直しが迫られたのです。
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日本は流れをひっくり返すことができる珍しい国
2017-05-08 Mon 00:19
日本に、昔から続いてきたがんこな常識があります。変革なんてとうてい無理そうで、今後も永遠に続くからと、あきらめの声が多いもの。しかし、後年にひっくり返ったものがあります。今とは逆だった当時を、今は想像しにくくなった例を二つあげます。

ひとつは洋式トイレです。1960年代に洋式トイレが広まり始めた最大の理由は、市営や県営などのコンクリート造4、5階アパート、いわゆる公営団地で採用したからです。床を大きくくり抜いたり二重にする作業が不要で、施工コストが安いから。

当時の一戸建てや木賃アパートは、ほぼ全てが和式トイレでした。洋式なんてわけわからん、どう使うかもわからんし、嫌だから使いませんと言う人がたいへん多かったのです。誰も彼もが、敬遠して避けた過去。40年過ぎた21世紀に、完全に逆転しています。和式こそ嫌だと。

もうひとつはAT車です。1970年代からのマイカーブームと免許取得ブームの頃、日本はMT車が9割ほどで、アメリカはAT車が8割ほどでした。自動車評論家たちは、日本はMTばかりでアメリカはATばかりだと指摘し、両極端に分かれた二国は異常だと論じました。

今の日本は世界一のAT国になっていて、新型の小型乗用車の95から98パーセントがATだそうです。「ミッション」も「ノークラ」も死語。世界で日本だけがあまりに極端にひっくり返って、一色に染まって怖いほど。ドイツのAT車はまだ3割だそうで、フランスもそのあたりで、アメリカはやはり8割あたり。日本だけが極端すぎ。

「芸術は難しい、現代美術はわからない、抽象はちょっと」と固定している芸術観も、将来ひっくり返るかも知れません。美術留学なら日本へ行くべきだと、欧米の常識になったりして。思い出したら、フィギュアスケート男子も過去と正反対です。今は国際競技で優勝争いの連続で、隔世の感あり。逆転するまでの年月が短いのも日本らしさでしょう。
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廃墟の美は失楽園への郷愁なのか
2017-05-05 Fri 01:15
長崎県の『軍艦島』も世界遺産となりました。今は廃墟の顔役ですが、稼働時はモダンで暮らし向きのよいコンパクト都市でした。新しい廃墟ブームは、70年代末のポストモダンで始まった記憶があります。荒れて朽ちゆく身近な廃屋から、解体中のビルへと関心が広がり、ゴーストタウンを探検する楽しみも加わりました。

廃墟の美は過去にもよく論じられました。「バラの花」や「裸婦」などのアカデミックな美ではなく、アヴァンギャルドな美です。学問として習得する高尚な美とは逆の、くだけてかっこよくて、迫力とスリルを含むハプニング系。新鮮さと解放感もあって。

人がなぜ廃墟に美を感じるかは、「栄華と没落の対比」がよく言われます。失楽園の、諸行無常の響き。しかしどちらかといえば、ぶっ壊れた状態が絶対的な美だという気がします。過ぎし年月への郷愁は文学的な読み方で、普通はそんな詩人の目では見ないような気が。

ちょっとわきへそれますが、「絶対的に美しい」と「絶対に美しい」は意味が全く違います。前者は普遍性を込めた評価であり、後者は当人の実感です。廃墟は普遍的な、民族を超えた美であろうと考えます。その普遍性とは、故意性のないリアル感でしょうか。

奇岩景勝は廃墟とは違います。廃墟は元が人工物です。故意の造形が、自然崩壊した偶発的なアレンジです。容赦ないダーティーぶりが廃墟の特質。整理とは逆の複雑化したカオスで、視覚情報量が増えています。教科書で教えにくい、ルールのない美です。

廃墟には気づかいやさじ加減の跡がないから、迫真的でおもしろいのでしょう。人がブレーキをかけないから、アート作品によく見るグズグズ感が一掃され、きっぱりして鋭い。ヤラセでなくガチ。人の手が入ると丸まっていき、人の手を離れるととんがっていく。作ると死んで、壊すと生きる。こうした芸術の普遍性です。
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ジャズ音楽の明るい暗いを絵画に当てはめてみる
2017-05-02 Tue 01:35
「ジャズといえば暗い音楽だと思われやすいのですが、このアルバムは暗さが全くない明るいジャズです」。こういう言い方が、ラジオ番組で聞こえてきました。この区切り方は、わかりにくいと感じています。

音楽の明るい曲は、要するに和音が長調です。逆に暗い曲は短調です。コードがメジャーかマイナーか。滝廉太郎でいえば、「春のうららの」と歌う『春』が長調で、「春こうろうの」と歌う『荒城の月』が短調です。しかし前者は明るく後者は暗いという分け方では、ジャズの曲はうまく切り分けられません。

なぜなら、ジャズの特徴は影差す和音だからです。明るくてしかも暗いのがジャズなので、明るいか暗いかで分けるのは無理です。そこで明るい暗いではなく、楽しげか悲しげかで分けます。長調は楽しげ、短調は悲しげと分けた方がうまくいきます。

番組のアルバムもやはり、ところどころ暗くかげる曲調にちゃんとなっていました。カラリと晴れ渡った、こうこうと明るい童謡みたいなジャズは世に存在しません。短調から長調に転調する意味ではなく、和音に含む音階成分です。しかも実はクラシック音楽も、共通する構造です。明暗の一方だけならイージーリスニング。

音楽のこの構造を美術にも当てはめて、芸術表現の妙を説明する一章を用意しました。明るい絵が好きで、暗い絵が嫌いという、実際に一般に多く行われている割り切り方では、芸術の核心にまでは届かないという話題です。日本で流行ったネアカとネクラの区別は簡略すぎて、芸術とは相性が悪いのです。

「ジャズは大人の音楽」の理由は、長調とも短調ともいえない割り切れない和音です。セブンス・コードに始まり、ナインス・オーグメンテッド・イレブンス・コードなど。美術の絵画で明るい暗いで割り切れない例として、意外な隠れ名画をあげています。
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