絵の向きが間違っている-展覧会の壁の場合
2017-04-29 Sat 01:49
展示壁に平面作品をかける時、作者以外は作品の天地逆や横倒しに置くミスを時々やります。著者も両方とも失敗したことがあります。受難は抽象画がほとんどで、人物、静物、風景の具象画三点セットではまれです。ただし略画だったり、全面に芝生を描いた具象画ならあり得ます。木目の写真なども間違いやすい様式です。

作者側は事前に、向きがわかるよう工夫します。額やキャンバスを吊るひもの付け根を上側に寄せるとか、ペーパー作品の裏に矢印を書き、表には明瞭にサインを入れるなど。それでも他人が展示作業すると根絶できず、美術館でも何日も気づかないミスが実際に起きています。

抽象画を天地逆にすると何が起きるかは、人物像だとシミュラクラ現象が消え、人物に見えなくなります。シミュラクラ現象は、逆三角形状に置いた3点が人の顔に見える脳のはたらきで、その手の心霊写真の基本原理です。正三角形状だと目と口をパターン認識できず、心霊写真だと信じさせるのは難しいでしょう。

人物でなく模様だと、ひっくり返しても通用するだろうとは想像がつきます。ところが天地逆に置くと、一転して絵の迫力が増す場合もあるのです。作者だけが感じる場合と、他人も感じる場合があって。

記憶イメージと異なるせいで、作者は主に違和感を感じます。しかし、同時に迫力も感じるのはなぜか。仮に、作者が作品をマイルドに整えていた場合、向きを変えるとバランスとりがゆるみ、絵が暴れ出すと考えられます。この現象は、研究課題にできそうです。

画家が絵をまとめ上げる作業の内訳は、刺激を減らし主張を薄める方向に行きやすい。これは、他の画家と同室で制作していると気づきます。相手の絵は、制作途中でいったん妙に迫力を出すのです。「おっ負けそう」と。ところが仕上がるにつれ、おとなしい並み品へと沈んでいく、その一部始終を体験します。
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絵の向きが間違っている-作品カタログの場合
2017-04-26 Wed 00:47
かつて著者が公的な学生展に出品した時のこと。カタログ図版が届き、ページをめくって自分の絵を見つけた瞬間、強い違和感がありました。数秒間は、何が何だかわからない状態。よくよく見ると、作品が左右逆に反転して掲載されていました。想像以上の違和感です。おもろい。

現在の書店に並ぶ本も雑誌も美術カタログも、全てがDTPと呼ぶデジタル編集で版がつくられ印刷されています。パソコンソフト上でレイアウトし、活字と画像を置き並べていく方式です。そのひとつ前の方式が「電算写植」で、新聞の第一面がカラーになった頃がこれでした。

さらにさかのぼると電算でない「写植」方式になり、全てがアナログです。ミシンを思わせる写真植字機で、ガチャンガチャンと原稿どおりに字を打ちます。黒いドラム内にセットした薄手印画紙に、活字の陽画像を感光させます。長文を打つ時間もかかり、年季も必要でした。

その印画紙を液にひたして現像し、乾かしカッターナイフで切り、レイアウト台紙なる版下に特殊なノリで貼ります。写真やさし絵などの画像も同様に、撮影フィルムを現像し引き伸ばし、乾くと切って台紙に貼り付けます。手元の狂いで傾けば、傾いたまま出版されます。ノリ貼り版下は出版後に捨てるから、当時の雑誌の復刻は難しい。

そんなアナログ時代に時々あった図版のミスは、写真の裏焼きでした。取材写真を印画紙に焼き付ける工程で、ネガフィルムを引き伸ばし機のキャリアにセットする時、表裏を間違って置いた失敗です。当時反転が多かったのは、おそらく人の顔写真だったと想像しています。

美術カタログにも、こうして左右逆の写真がたまに生じます。その時の強い違和感が、ある真実を示しています。絵をかいた者以外には違和感がない場合も多いからです。それはなぜか。
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日本のサブカルイラスト対ピュアアート
2017-04-23 Sun 01:45
日本現代創作表現を海外からみると、サブカルチャーのイメージが強くなっています。中でも漫画コミックと漫画アニメが筆頭で、1963年の『鉄腕アトム』(アストロボーイ)以降のアニメ作品群が世界各国で放映されたので、今も海外にオールドファンの基盤ができています。

パリの「ジャパン・エキスポ」や各国の「ジャパン・フェスティバル」「ジャパン何とか」など日本物産見本市でも、サブカル商品が関心を先導するかたちです。サブカル系のキャラをデザインした雑貨が、茶道、華道、書道などの伝統系と対比的に会場を飾って活躍しています。新旧伝統のうち「新」がサブカル。

では美術系のピュアアートはといえば、流れに出遅れました。長く純粋美術は、パリとNY以外の外国にはそれほど出て行かなかったのです。しかし、東日本大震災をきっかけに外国側も思い出したように、日本のコンテンポラリーアートに関心を寄せています。何回目かの波が今また来ています。

ところで近年の日本の若い画家は、人物画を洋画の伝統的なデッサン調ではなく、サブカルイラスト寄りに描くことが多いようです。イラストレーション出身による具象画は、写実主義や印象派ふうではなく、漫画的な絵に近くなっていて、それが外国では好評です。

従来、日本国内で美術らしく見える絵は洋画でした。が、洋風だから欧米人の関心は下がります。そこがイラスト寄りの絵ならば日本画っぽく見えるからか、欧米コレクターの関心も高めです。くだけた親近感だけでなく、和風テイストも出やすいから、外国の目には新鮮です。

アニメ画と浮世絵の近似性は、過去にも指摘されていたことでしょう。日本画は元々写真的ではなく、イラスト的でした。著者が企画する展示会でも、日本画を原画として刷った版画は、外国で通りがよいのは確かです。商業イラストとは異なる画調なので、別のファンがいます。
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棟方志功の絵を買った人は複製画をつくってもよいのか
2017-04-20 Thu 01:27
絵画を買うなどして作品の実物を手に入れたら、複製画を作ったり、絵はがきやカレンダーに使うことは容易です。しかし個人や団体に所有を移した絵を、果たして自由に複写してよいのか。ここには、ベルヌ条約という国際的な規約を元にした法律があります。

ベルヌ条約の本部はスイスにあり、文明国はもちろん加盟しています。日本は何と19世紀の1899年(明治32年)に加盟し、創造保護国として欧米文明クラブに所属してきました。そこでは、無形の表現物を守ることに力が入っています。無形なのがミソ。

買った絵画を展示して、鑑賞客から料金をとることは合法です。ところが、絵画を写真に撮ったプリント物を展示して料金をとると違法です。「こんなふうな絵」という目に入るイメージの意匠権は、つくった画家が持ち続けるからです。別人は自由な複写ができないのです。

絵を譲っても、図柄は譲っていない。買った人はブツのみ所有でき、コンテンツは所有できない。ハードウェアは移管でき、ソフトウェアは移管しない。当然ながら、誰が作ったかの名義も動きません。買った人が作者に成り代わって、新しい作者を名乗る権利はないのです。

音楽で考えると簡単で、レコード、テープ、CDを買っても、曲の著作権は入手できません。ダウンロード購入客は聴くだけ。複写したり自分が歌って売る時は別の支払いが必要です。録音テープやマスターテープや音源データを入手してさえ、音を売ったらいけない。音楽も美術も、活用契約を作者や相続者と結ばないといけません。

著作権には時効があり、日本は作者没50年、欧米は70年。ピカソ作品の著作権は、日本ではあと5年の2022年末に失効し、絵の所有者は複製画や絵はがきを作れます(一部の戦勝国に財産権がない場合)。しかし買ったのがジクレーなら、撮影者とデジタル編集者にも著作権があり、そちらとの交渉が別途必要です。
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陰謀説がなぜかアートの説明に出てくる理由
2017-04-17 Mon 01:33
大規模陰謀説がネットで目につきます。一例は、1985年にジェット旅客機が群馬県の山中に墜落した事故。524人中520人が亡くなる惨事でしたが、ネットには在日米軍がミサイルで撃ち落としたのが真相だと、繰り返し出てきます。自衛隊犯行説もあります。政府は今も本当のことを語らずに黙っている、と結んであって。何を感じますか。

そんな話は荒唐無稽だと国民がスルーしたら、むしろ信者は増えます。現代人の行動は、ネットにある記述に身を寄せる以外に幅がない面があるからです。何度も目にするからこれが正解だなと、人生経験の少ない者ほど考える傾向。目にした回数で素直に信頼して染まりやすい。

これは取り越し苦労ではなく、著者は企業の社員から質問されました。「1969年のアメリカの快挙は、自演の陰謀かどっちですか?」と。中学二年生ではなく、30代半ばの社会人も判断がつかないとは。全世界にある宇宙関連事業の数を、一考してみる想像力もないとは。

たとえば、22年を経た東京地下鉄サリン事件。重刑判決が出た犯人の多くは、その30代社員と特徴が似ています。有名大学理科系出身で、頭はよくても見識がない。地下鉄サリンのテロでは、犯人は学力と見識の落差が大きい者の集まりという顕著な特徴があったのです。

サリンの教祖は宙を飛べ、大手新聞コラムはこう書きました。「本当に空を飛べるかはともかくとして」と。この書き方は最悪で、明確に否定せずにぼかすと、肯定と解釈するのが見識なき者の脳内処理です。大人が暗に認めたと受け取る。世間がスルーした空中浮遊術に若年層は感心し、広く人材と寄付金が集まりサリンをまく準備が整いました。

「修行の成果で宙に浮ける人がいても僕はおかしくないと思いますよ」と真剣に言う若い部外者が、当時増えていたのです。同じ流れは、元々不思議が多い芸術分野で起きやすいと考えます。本書は新聞とは逆で、「ジャンプして高速シャッター」「トランポリン」「ピアノ線で吊る」「身体の後に鉄骨」「台を画像ソフトで消去」と書く主義です。
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時代が進むほど自由が小さくなる?芸術の逆進性
2017-04-14 Fri 01:35
人がなかなか測りにくいものに、時代の自由度があります。昔にくらべ今はすっかり自由になった実感がじゃまします。難解なゴッホやピカソもすでに認められる現代は、古い時代より度量が大きいはずだと。

美術作品は年々許される範囲が拡大し、新作品もより自由になっている体感です。今の僕らは最高の物に触れるのも自由、知識もどんどん蓄積し、ほぼ全知全能を達成できている自信が、現代人の正直な文化感覚でしょう。歴史上のほぼ最上位へ到達できた僕ら、という自己採点。

「逆に僕らは不自由さ」「僕らは度量が狭く、やることも小さい」と本気で考える人はいないでしょう。そんな主張があれば、「現代人に何か恨みでもあるの?」「自虐的」と糾弾されそう。嫌われるタイプ。そんな本は出せないこと自体が時代の制約だとは、誰も気づかないという。

前に動画サイトに、古いテレビコマーシャル映像集がありました。昔は放映できて今はできない例として、殺虫剤スプレーのCMがあげられていました。当時まだ若い有名タレントたちがシューッと一吹きすると、ハエ、カ、ゴキブリが床に落ちたり、ひっくり返って死ぬ宣伝です。

今のタブーは死ぬことではなく、害虫が映ることです。虫は怖くて気持ち悪いから出しにくい。市販学習ノートで、アゲハチョウやカブトムシの表紙写真の廃止は2012年でした。昔の方がおおらかで、今の方が神経質。昔は多くが許され、今は少しが許される。昔は大胆で、今は臆病。その動く証拠として、昔のCM録画が釘を刺しています。

着目すべきはふたつ。ひとつは、前は許可で後に不許可になった表現物が多い。もうひとつは、後世の人は昔より自由なつもり。つまり、現実と意識の落差が徐々に開いています。古い漫画アニメも筋書きやセリフが引っかかり、今は発売禁止の巻があります。美術も似た傾向で、芸術を精神障害とする解釈が日本で増えたのも、許せないからでしょう。
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ゴッホの絵は生前に本当は何枚売れたのか
2017-04-11 Tue 00:20
ゴッホは生涯絵が一枚も売れなかった説があります。売れ数ゼロ説は、後世の画家の発言に比較的よくみられました。高階秀爾編集の小型画集『ゴッホ』では、一枚だけ売れたとありました。本書は一枚説をとっていますが、もっと売れていた俗説もあります。ただし・・・

ゴッホは実は売れっ子だったという説は、認知の不整合を埋める目的でよく出てきます。当時は売れず今は最大級の巨匠である。その食い違いの違和感を消そうとして、実は当時から大物だったのだという話へ書き換えたくなる人情です。後世の美化というもの。

不整合をつじつま合わせする弁舌で多いのが、「ゴッホは自分の優秀さを知っていて、絵を売らなかったので、だから売れなかった」というもの。この売り惜しみ説は当然ながら書簡集と合わず、同業の画家からも出ない解釈であり、ネットの電波説垂れ流しの一面でしょう。

補足したい情報もあります。ゴッホが周囲に絵を進呈していた点です。無料配布の行動。金品の見返りがあったり、引き換えに何かを世話してもらっていたら、売ったのと同じ意味になるかも知れませんね。

ゴッホが知人に絵をあげていたのは、死後を託す気もあったと考えられます。公開して不評だった上に、サロンなど業界人や運動仲間にも相手にされず、少しでも世に残そうとの自然な作家心理です。買ってくれないなら、あげるしかない。リアルタイムにゴッホの絵を価値なしと判定した人の中に、セザンヌとゴーギャンも含まれます。

皆いらないから、捨てた絵もあったでしょう。一部は絵心のある人が加筆したそう。ゴッホ絵画で儲けた人は、周囲に皆無とわかっています。くれくれと言い、借りて返さないとか、ひそかに盗んだ人もおらず。ある画商が後に回顧展を開いたら、やはり相手にされず、彼の19世紀は終わりました。書簡集の出版は、ピカソのあの問題作よりも後です。
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超有名作品が別人の作とわかった時、何がどうなる?
2017-04-08 Sat 02:50
交響曲の数は、ベートーベンが9曲、マーラーは10曲、ショスタコーヴィチ15曲。1曲の規模は違うものの100曲以上あるハイドンは、「交響曲の父」と呼ばれます。最大級の人気が、『おもちゃの交響曲』です。キリキリキリ、ピヨピヨピヨと玩具の効果音が印象的なあれ。

しかしとっくに、ハイドンの代表曲ではなくなっています。ある頃に、レオポルト・モーツァルト、つまり超有名なアマデウス・モーツァルトの父親が作曲したと判定されました。その後、エトムント・アンゲラー作曲とわかりました。日本では世代によって、学んだ知識が三つに分かれます。英語サイトには、モーツァルト父作の記述がまだ多くて。

このように名作が別の作者のものだった場合に、地位の変動はあるのかといえば、もちろんあるのです。ただし時間がかかっています。ネームバリューが惰性するからです。写真家ロバート・キャパの場合も。

有名度世界一の『崩れ落ちる兵士』は、これで世界一となったキャパの撮影ではなく、恋人のゲルダ・タローが戦地外で撮ったジョーク写真だろうと、1980年代の雑誌『アサヒカメラ』だかで検証されました。実は2枚あって、コマが連続。ちなみにタローとは、ゲルダの友人だった岡本太郎のファーストネームで、気に入って名乗ったらしい。

美術絵画では、近世のスペイン画家ゴヤの代表作『巨人』が、ゴヤ作でないと少し前に発表されました。『巨人』はでっかい男が町の向こうに立つ、ゴジラ出現のような絵です。ゴヤを特徴づける代表作でもあり、今から210年ほど前にしては奇抜すぎるので、20世紀シュールレアリスム(80年前)の先駆と称賛されました。

その『巨人』は今は、弟子のアセンシオ・フリアの作とされます。それなら、アセンシオ・フリアをすぐに巨匠と呼び、シュールの先駆と称賛すべきが、そうなっていません。歴史名作の選定に費やす時間がいかに長いかを、現在進行形で示す好例といえます。昨日のニュースで東京と神戸で収蔵品を来年展示するという、プラド美術館の話題でした。
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美術の本を読む人の立場
2017-04-05 Wed 01:00
美術の本は、何となくどれも同じに思えます。固い調子でかしこまっているか、美辞麗句を並べて師への敬意もべたべたとか。ところが本書は異質で、よくある疑問に答えるために聖域なき前提でどんどん踏み込んでいくから、既存の出版社からは出せない禁書でした。

たとえば1988年に出版を断られた時には、裸婦の銅像をめぐる高齢男性の性衝動の問題に触れていて、編集者から注意を受けました。やはりタブーでした。今の日本では高齢化社会に合わせて、高齢再婚なども珍しくなくなったので、その話題も出番が薄れたのですが。

アートの自由奔放は意外に表向きの話で、意外に固くて神経質なところがあります。今でも出版に不都合なのは、現代アートの両面を対比させる書き方です。良い面は通って、悪い面が検閲対象になります。たとえば、現代美術が嫌われる実態を話のマクラにした展開では、「嫌い」の語で出版や掲載が止まります。問題に触れさせてもらえない。

しかしそれは、出版社側の過剰な気づかいとは違います。というのは、美術の本を買うのは美術を作る人が大半だから。画家や彫刻家の機嫌を損ねたら、本を買ってくれるお客がいなくなる、忖度(そんたく)以上の切実な問題です。挑戦する体力はないと、編集者から言われました。

欧米市民はアート作品をよく買いますが、日本で美術品を買う人はわずかです。その比較を日本に伝えようとした時、日本が劣っている印象が強いと編集ブレーキがかかります。アートは生活必需品でないから水ものになる弱みで、原発みたいに否定的な単語が忌み嫌われます。絶望から希望へとつなぐ表現は、絶望部分の削除を求められます。

美術を作らない立場に向けた時点で、出版マーケティングは困難です。が、作品がわからないと言う国民を放置すれば、雑言が支配していくだけでトータルは国の損失でしょう。混迷している『曜変天目茶碗』も、陶芸批判の声があっても何も解説せずに放置したツケでしょう。
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日本では主張は歓迎されるか敬遠されるか、さてどっち?
2017-04-02 Sun 01:57
言い出しっぺは不明ですが、次のような全国放送がありました。「日本国民は自己主張しなければと、みんなが思わされているから、みんなが疲れています」「自分は主張しなくてもいいんだと力を抜けば、楽になりますよ」と。日本国民の疲弊原因を分析した人生訓。

たぶんこのアドバイスは、前提が事実と違うでしょう。国民に期待されるあり方として、どういう強制圧力や矯正圧力や共生圧力があるかは、マスコミの論調を追っても無意味です。実社会の風向きを見ないといけません。裏の陰の圧力を見るべき。

日本で普通に暮らせば、「主張せよ」の圧力こそが風前の灯火(ともしび)であり、「主張はよせ」の方が強いのが現実です。「せよ」ではなく「よせ」。大概の企業でも、主張がひかえめなイエスマンタイプが出世し、主張するやつは早く失職する結果論が、社会人の実感でしょう。大流行中のブラックも、個人の意志を殺して成立する世界だし。

アートも然り。ネットは匿名ゆえ内容はラフになり、匿名ゆえ書く動機は正直です。美術ファンのブログは口をそろえて「主張した絵は嫌い」「目立つアートはちょっと」。無意識にカッコつけるアンケート回答とは違い、書く人のペースだから本心がありのまま。

その放送は芸能タレントが語りました。なるほど芸能界の中なら、主張のノルマもあって当然。年輩女性が突然脱ぐのも、何とか目立って返り咲くべく背中を押す業界の風でしょう。だから確かに芸人は疲れているはず。しかし日本の一般国民に、主張して開けてくる未来なんてありません。普通は、何をどう主張しても損が多い。沈黙は金。

全国のコンビニで青年が次々とアイスクリームボックスに閉じこもり、注目を集めた事件。本人は、主張して目立てという世間の圧力に屈して従ったのではないでしょう。主張せず目立つなという空気にさからい、他を出し抜こうとはね上がったと解釈する方が妥当です。就活の面接回答やリクルートファッションでも起きる、若さの葛藤です。
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