曜変天目茶碗の事件は今どうなっているのか
2017-03-30 Thu 01:50
テレビ番組で第4の国宝級『曜変天目茶碗』と鑑定された茶碗は、今も宙に浮いています。このウヤムヤは、アート全般のぼやけた雰囲気と同じものです。ここで、事件を元にした脚本を考えました。映画化決定。

『モナリザ』は、実は2枚が実在します。レオナルド・ダ・ヴィンチは2枚描いていました。ところがテレビ番組が、『モナリザ』をもう1枚見つけました。3枚目の大発見です。評価額は2500万円。「んっ、ずいぶん安いぞ」と専門家たちは首をかしげます。ルーヴル美術館の『モナリザ』は推定1兆円なのに。4万分の1。

直後に『モナリザ』研究家で、『モナリザ』復刻づくりをライフワークとする画家が現れ、訴えます。番組の絵は『モナリザ』には見えない。チャチすぎるし、本物の2枚と顔が大きく違うから別女性の肖像にしか思えないと。番組の絵は、近年のアクリル絵具で描いた偽物ではないだろうかと。だとすれば、フィレンツェで3千円で買えると。

一方で国宝級発見のニュースが新聞雑誌に出たから、文科省筋から本格鑑定を誘われます。が、絵の所有者は断ります。疑惑も出されたから、今後は絵を表に出さないと宣言します。ところが所有者は縁のある化学研究者にケミカル検査させ、アクリル絵具の成分がほとんど発見されなかったと公表します。フィレンツェ産のみやげ品ではなかったと。

「真贋は真で決着した」「やはり本物のモナリザだった」「番組が全て正しかった」「反論した画家こそが偽物でした」「本物と信じた自分はうれしい」「3枚目の国宝級に大感動」「一目で美しくて本物だと僕は最初からわかっていた」「顔が似ない失敗作だからルーヴルよりは安い簡単な話さ」「国に見せないのは国宝認定を回避する税金対策さ」。

この映画で伝えたかったのは、話のわかる人がいない業界の悲哀です。権威者や識者も出てこず、国民の雑言がそのまま国民に浸透するだけの展開。ミステリーに心ときめかせたのに、絵の世界はどうなっているのかとやるせない思いになる結末。世評にて、クソ映画決定。
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ゴッホは本当に統合失調症だったのか
2017-03-27 Mon 01:10
あの美術家は頭がおかしい、この画家は狂っているという話題は、昔からありました。一番多く言われたのは、おそらくピカソでしょう。一方で日本で最近、「ゴッホは統合失調症だ」とする説が多くみられます。この説はもっともらしいデマです。通りのよいデマです。

そもそも「統合失調症」という近年よく聞く精神病には、周囲が気づく陽性症状があります。関係妄想や思考障害、テレパシーやさとられ系の脳内乗っ取りを体感し訴えるのです。隠せない病気。罹患初期に最多の症状は、自分の周囲の人々がグルになって自分を見張り、悪口を言ったり信号を送ってきて、じわじわ弱らせ殺そうとする被害妄想です。

今ではゴッホの人生はすっかり丸はだか状態で、何といっても弟テオに宛てた膨大な手紙(書簡集)が証拠として残っています。本一冊などの規模ではない、巨大な遺品です。書簡集で、ゴッホに統合失調症の症状がみられないとわかっています。当時のゴッホは、日常の出来事や思いを細かく書いていました。遠回しの仕送り継続願いがほとんど。

ならば、ゴッホを統合失調症とする説は、誰が何の目的で書いたのか。書く動機が脳科学の研究対象にできます。このテーマ「芸術は難しい、現代美術はわからない、抽象はちょっと」と深く関係するのかも知れません。たとえば、わからない者による逆襲です。

すなわち、ゴッホ絵画がわからない者が、自己弁護でデマを流した疑いです。当時の周囲はゴッホを天才や狂人ではなく、持っていない画家と認識しました。今になって面識のない、遠い時代の遠い人のみゴッホを狂人と言い出すのは、ゴッホ絵画にはじかれた傷心の挽回かも。

芸術がわからない中にも意識高い系がいても当然で、ピカソは精神病と宣告した人は、ピカソと面識のない医者でした。上流階級の高い地位。自分がわからない絵の作者を「あっちの人」へと切り離すことで、創造に理解及ばぬ自分を正当化するステマ的な印象操作でしょう。「ゴッホは統合失調症」も、この線で疑ってみることができるかも知れません。
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楽焼き茶碗は日本式のピカソ
2017-03-24 Fri 01:06
『曜変天目茶碗』をきっかけに、陶芸分野への不信感や、骨董趣味への嫌悪がネットに噴出しました。前に触れた話は現代アートが同人オタク化し、国民に新興宗教的に映る懸念でした。その手の信仰世界を陶芸に感じる人が多いことが、今回ある程度わかりました。

陶芸への不信は、違いのない作品に大きい価格差がついたり、見た目と逆転している場合に高まるでしょう。そういえば落語に、庶民と目利きの価値意識がすれ違うネタがありました。粗末な器がとんでもなく高価だったりして、庶民は価値の不透明やインチキさえ感じるわけです。

陶芸でインチキ呼ばわりされる筆頭は『楽焼き』です。ろくろを使わない手製の茶碗で、多くは形がゆがんでいます。真円でなく、ふちが同一面になく。全体が傾いたり、部分的にふくれたりくぼんだり。本体の亀裂や、釉薬にも厚みのムラやひび割れが入って。普通なら失敗作です。『楽焼き茶碗』の骨董趣味をからかう声は、今回も出てきました。

楽焼きは意味がわからないと外国からも言われており、良く受け取ってもまるでピカソの絵みたい。実はあの歪んだ茶碗は、日本の伝統的な美意識どおりです。不均等と非対称。自然で素朴な滅びの美学。要するに無為自然とわびさびの表現であり、茶道の精神に沿っています。

日本の庭園も楽焼きに似ています。枝葉を整然と刈り込まず、伸びるにまかせつつ微調整する。人が支配した幾何学ではなく、さりげない不定形。人工くささを消した自然志向です。富士山にも似た感覚。楽焼きの逸品は、幾多のいびつな茶碗たちが長い目で見くらべられ、勝ち抜きで選ばれたバランスのとれた品です。楽焼きは陶芸界のピカソ。

疑惑になる「家元」「情実」「箱書」は陶芸だけの問題ではなく、日本の伝統とはまた別でしょう。たとえば歌謡曲やアメリカ映画も似た裏事情は言われるもので、しかし庶民は全否定まではやらず、気を取り直して各自の価値で鑑賞するものです。ピカソはわからないと言いながら、わからない楽焼きで張り合う日本文化。その不思議に注目できます。
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芸術の話題が必ず難しい話になるのはなぜか
2017-03-21 Tue 01:13
このブログは、難しいと感じる方が多いかも知れず。意味がよくわからない回もあったことでしょう。それは説明のし損ねも含めて、芸術分野に難題が多い反映もあったでしょう。厳密度もそうで、円周率は3より3.14と詳しくした方が難しいこともあろうし。

その昔、現代美術展へ行った人から、「全然わからなかった」と不満を耳に入れたことがあります。こちらは、どうリアクションすべきか迷いました。一口では答えられなかったからです。その人をかばえばよいのか、それとも作品の方をかばえばよいのかも、即断できません。結局は年月経て、本書の47万字で応じる結果となりましたが。

美術館にピカソ絵画が飾られた場合と、市販トラクターが飾られた場合とでは、どちらも「全然わかりません」という同じ感想が出てきます。その字面は完全に一致しますが、しかし理科問題といじわるクイズほどに別次元です。感想の単語は同一でも、作品の次元は違っています。

その次元の違いを分別しないまま「わからない作品への不満」に急いで回答しても、雲と蜘蛛がごちゃ混ぜの説明となり相手に伝わりません。かといって、ごちゃ混ぜをほぐせば話は長くなるし。現代の芸術が難しいのは錯覚や思い過ごしではなく、現に問題は入り組んでいます。

それとは全く別の本質論もあります。「創造は未知の領域だから、すぐにわかる作品は芸術失格だ」がそう。従来なかった新案を見て、「あり得ない」と違和感や嫌悪を感じてこそ正常だという意味です。「芸術は本来わからないのが当たり前」。この本質論は、現代人がついて行きにくい部分ですが、それでも理屈だけなら納得できることでしょう。

そして制作者は皆この本質論に保護されるから、わからない作品であっても正義を張れます。しかし市販トラクター展示は、橋と端のつながり的なトンチで処理した負い目で、相手にしない側にも正義が生じます。こうして鑑賞者と作者双方の被害意識が空転して、美術界のストレスになっています。いつからかといえば、1910年代からです。
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本当の本当は、誰もが最初からわかっている抽象造形
2017-03-18 Sat 01:20
日本に伝統的な絵画の型が色々とあります。「梅にウグイス」「竹林」「鯉の滝のぼり」など。日本画の団体展でも見かけて、カタログショッピングにもそうした伝統スタイルの絵画や版画が用意され、外国向けのみやげ品にもなって人気です。

そんな定番のひとつに「富士山」があります。「赤富士」「雪の富士」「夏富士と鶴」をはじめ、膨大なパターンが普及していて。江戸や明治の浮世絵にも登場し、古典的な題材としても定着済みです。そこに大きい謎があります。

富士山を描くと具象画に分類されます。具象画だから誰にもわかるし、味わうのも楽勝。しかし、山自体は抽象的な形状です。要するに円すい台。元の幾何学図形のカクカクを、有機曲線に調整した立体作品みたいなものであり、造形作家の抽象オブジェと差がありません。富士山自体は、言うなれば巨大な抽象彫刻です。

なのに、それを描くと具象画と呼んでいます。具象画の正体は、抽象物を写した絵だった。描かれたモチーフは抽象彫刻相当なのに、皆がよくわかって悩みなし。「抽象はちょっと」「抽象がわかるやつは狂っている!」となっていません。山も抽象、その絵も抽象。なのにわかる。

富士山を自動車に置き替えます。フェラーリとか。車もやはり抽象造形です。車は、車以外に似ていませんし。しかし、「抽象車はわからないから、僕らにもわかる具象車が欲しい」という要望はまずありません。こうして世の中を見回せば、抽象的な物体ばかりです。万物みな抽象。梅もウグイスも竹も鯉も滝も、バラも裸婦も抽象的な形。

すると、抽象画や抽象彫刻がわからない声は何なのか。逆に、具象的な形は本当にあるのか?。どうも人が美術に向かう時に限って、心が固く緊張している疑いがあります。鑑賞のプレッシャーで平常心を失うなどして、コチコチの心理的ガードができてしまう。心因性のトラウマなのか、条件反射なのかは、脳科学の出番かも。
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三大画家タイプとダダ運動タイプの違いは自由度の高さなのか
2017-03-15 Wed 03:40
現代美術への批判で多い言い方が、「自由過ぎるのはよくない」です。「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」だとして。要は「程度の問題」です。控えめな自由は好ましく、行き過ぎた自由は好ましくない意味。自由過ぎた作品で美術界が荒れて、庶民と切れてしまったのだと。

そうならば、ピカソの抽象画は自由過ぎてまずかったと言いたげです。ピカソがもう少し不自由で型にはまった絵にとどめていたら、現代アートのわけわからん状態も防げて、重いため息気分もなかった話になりそうです。ピカソが『青の時代』『新古典主義』で止めていれば・・・

そんな自由主義批判の考えを、この本では全くとっていません。自由の量的な大小は関係ないという視点です。造形のメチャクチャぶりを全く制限しない立場。代わりに、人類のアートをたった二つに分けました。自由の分量ではなく、存在の次元で二つに。

すなわち、表現の手法がどこかで一休さんのトンチに替わった時から、美術の崩壊現象が始まったと解釈します。この要領で現代美術を二つに分けると、急に見通しがきくようになります。ピカソ作品を「三大画家タイプ」、市販トラクターを「ダダ運動タイプ」と定義しました。

土木建設で「橋」を造る時、世間がびっくりするような橋の計画が持ち上がったとします。形がへんてこりんだとか、あぜんとする色だとか。連続しない飛び石型でもよいでしょう。この時、どんなに奇妙キテレツな橋でも、ピカソの絵と同じ次元です。ところが誰かが次の案を出したとします。「端をつくろう」。橋ではなく端を。端を繕う。

美術館のトラクター展示がそれです。ピカソとトラクターとも、人々はトンデモにぶっ飛び、不思議で理解できず混乱したり、狂っていると感じるなど、反応の言葉表現が全く同じです。しかしいくら同じトークで両方ともカバーできても、「橋でない端には中味がないよ」「創造する自由はそういう話じゃないよ」と、お茶を濁さず解説すべきでしょう。
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脳科学からみた日本のサッカーとアート
2017-03-12 Sun 01:50
20世紀の終盤によく言われたのは、「21世紀は脳の時代になる」でした。機械工学と電子工学に続き、AI、人工知能が主役となる予想。並行して、人の脳のはたらきも本格的に解明する時代。脳医学や脳神経医学より、さらにソフト面を研究する脳科学もそれです。

脳科学者の中野信子の指摘はたいへん興味深く、日本男子のサッカーが国際試合で勝てない理由は遺伝子だそうです。日本人はDNAのレベルで、失敗を減らすために冒険を避ける設計になっていて、ここぞという打開場面で脳がチャレンジを選びにくい宿命だという指摘です。

そこまでなら、ワールドカップの試合を見ればわかります。冒険のチャンスで、冒険を回避する選手たちの挙動が目に入ります。しかし中野の指摘は、日本選手に「チャレンジせよ」と強いても逆効果だというのです。「攻撃的なサッカー」は成果が逆に悪化すると。無駄になる努力であり、非効率な教えだと。

連想したのは、日本の絵画の傾向です。作る画家も見る観客も、売る画商も購入客も、冒険的な絵画よりも、安息的な絵画を愛する実態です。奮起系は低い評価で、いやし系が高い評価。チャレンジ絵画がマイナーに追いやられる国内と、メジャーとして君臨できる国外とで、芸術の価値が逆転している内外差です。

サッカーの「芸術的なシュート」は、攻撃的プレーです。堅実なプレーとは違う。芸術的プレーの選手は、場で浮いて突出します。その成果にあこがれる日本選手も、浮く行動にはやっぱり慎重で。同様に国産現代アートも、浮いた突出は意外になくて、時流トレンドに沿って団体行動している面が強いのです。ほどよく騒ぎ合う印象。

仮にサッカーとアートが共通するなら、「もっと創造的に個性的に」のアドバイスは合わないのかも知れません。アートは国際戦をあまりやらないから、芸術の意味を変更して遺伝子の差を吸収はできます。しかし内外差が二重基準となり、何を指して芸術なのかに見当がつかない人が増える構造ができます。
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現代アートが新興宗教みたいに言われないために
2017-03-09 Thu 02:20
現代アートを普及させる活動が国内にいくらかあります。制作ではなく紹介する役目。こちらの味方になる親しさも感じますが、何に苦心しているかで「うーんちょっと」となる点があります。

それは、現代アートを愛護している点です。現代アートは良品の前提。現代アートの良さをわかってもらう意識で、もっともっと多く広く市民に紹介して、大勢に触れてもらって楽しんでもらう方向です。その際に演出される、善玉扱いの部分が引っかかります。

というのも、現代アートにはゲテモノやハッタリも多く、アホらしさや情けなさ、安易さも目立つから。まとめて美化しては、かえってうさんくさい。「現代美術はなぜつまらないのか」の論説に、現代アートのイメージダウンを心配するなど。「そこでびびるか?」「いつから良い子になったの?」「自己批判も御法度?」。

トラクターのネタで触れましたが、現代アート側は同人オタク化に警戒不足でしょう。こんなにおもしろい現代アートがわからない人は駄目、固い、古い、遅れてる、とするだけでは、そのうち新興宗教的と言われもするでしょう。「三大画家タイプ」と「ダダ運動タイプ」を分けずに進めた混迷の、とばっちりでもあるのですが。

音楽でいえば、ピアノを屋上から地面に落として、現代のピアノ曲ですと話を進めるのは、無理な飛躍です。斬新で過激な革新性、未来的な進歩主義が、人類の創作の歴史から切れて脱線しやすい問題です。ピカソのサプライズに勝とうとして、やることがずれてしまった構造問題。

ピアノを破壊した音を、現代版モーツァルトの調べだと納得しない市民を、同調圧力で改心させるのがベターなのか。この本では、現代アートの特異性が、創造の普遍的な特異性と等しいかを重視します。自分では気づけない「時代の乗り」と距離をとれるよう、古代のアートを基準に置いているわけです。現代感覚だけでアートを語っても短命だから。
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現代アートの合成の誤謬
2017-03-06 Mon 02:19
テレビやラジオの評論家が時々はさむ言葉に、合成の誤謬(ごびゅう)があります。誤謬とは間違っているという意味です。合成の誤謬を簡単に言うなら、「それをみんなが言い出せばどうなる?」「全員が同時にやれば悪い結果をまねく」という意味の慣用句です。

合成の誤謬の代表例は「節約」です。一人が節約すれば、その人の暮らしは好転する場合があるでしょう。しかし全員が節約すれば、物が売れなくなって店や企業は倒産し、シャッター通りが増えます。各地の財政は傾き、国は弱体化し国際発言力も低下。節約のすすめは、不買運動を扇動するのと同じことだから。

極論に思えても、2017年の今日本で続く長い不況と、消費マインドの低下によるGDPの伸び悩みは、節約の合成の誤謬です。元の原因は賃下げ。人口の割に資源は多くない日本は、全員が無駄にあれこれ買い込み、無駄に高級品が流通して国を保てる先進文明型だからです。この型の国は意外に少ないのです。

家に、あまり使わない電気製品や台所用品やおもしろグッズがゴロゴロ多い状態で、日本全体は正常に維持できます。無駄な物を買わないシンプルライフが増えれば、国は衰えるばかりで、あげくに戦争を仕掛けられるほど非力に陥るでしょう。

合成の誤謬は、少人数がやれば正しいのに、大人数がやれば間違っている現象です。似たことが美術でも起きます。突飛で奇抜な新興作品は、マイナーなうちは芸術の創造に当たり、大勢がやるようになると非芸術的な非創造に当たるという、よく知られた現象です。流行りの作風は、創造の立場から外れるという。

たとえば「既成の概念を壊す」は、現代アートの主柱となるコンセプトです。しかし「現代アート展」の看板を出す顔役になった頃には、既成に沿った団体行動で保守側に転じています。これは後追い参入は創造性が下がる当然のロジックであり、合成の誤謬とは違うものですが。
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抽象画がわかる人は何を考えているのか
2017-03-03 Fri 02:18
「具象画のみわかる」という人はいても、「抽象画のみわかる」という人はいませんよね。抽象画がわかれば、具象画もわかるから。抽は具をカバーし、具は抽を必ずしもカバーしない。

つまり抽象画がわかれば、全ての絵がわかり、芸術の全体像が読める。これがどういう話になるかといえば、具象のみわかる状態は、脳の一部が機能停止している疑いです。こんな話は、美術界で誰もやりません。脳科学界なら平気でも、美術界では苦手な話なのでしょう。

「抽象なんて全然わからん」という人は、「それならわかる人は、抽象画をどう見ているのか?」と疑問を持つのもよいでしょう。実は一番多いのは、音楽を聴くように絵を見ているという回答です。わかる人たちは、絵を分析していませんでした。「これは何?」と分析しない。

大脳の左脳と右脳の機能分担はあるそうです。が、どちらを優先するかで、タイプが分かれる説はウソと近年わかっています。ただ、脳の思考がスイッチみたいに切り替わる瞬間は、普通に体験します。誰でも日常的に抽象思考を使っています。『曜変天目茶碗』も、「抽象だからわからない」という話題には向かっていません。

脳の思考が大変化する体験のひとつが、いじわるクイズです。答を知る人と知らない人の落差がすごい。クイズが解けずに答を聞くと、「そんな発想もあるのか」と別世界が認知範囲の外に開けていることに気づきます。「それだけのことだったのか」と拍子抜けが起きることも。

謎かけの極致は超能力で、種明かしを知った人はしばしば混乱します。答の方が信じられなかったり、認知のずれが解消しにくい。が、抽象画がわかった時には、このような混乱も拍子抜けも起きません。具象を抽象に含めて認識し、スイッチショックが小さいと考えられます。
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