抽象画がつまらないと感じる無理もない理由
2017-02-28 Tue 02:17
現代美術がわからない問題の核心は、三大画家タイプの7億ピカソと、ダダ運動タイプの7億トラクターを分別しない混沌もありました。一応は美術界の失敗でした。

それとは全く別の問題に、抽象アートがあります。この本の中で、抽象は何度も何度も切り口を変えて説明しています。なぜそこに重点を置くかは、具象と抽象の違いはそれ自体が抽象思考だからです。「抽象」の語も抽象語だし。これは脳のはたらきの問題ともいえて、今世紀最大のテーマ「ブレイン」の世界です。

問題をいったん現実的にします。抽象画にピンとこないその時、具象画にピンとこない時よりも事情は複雑です。というのも、抽象画は傑作になりにくいから。100点作って傑作は、具象なら5点、抽象なら1点程度。テキトーな数字ですが、抽象画を極める方が難しいのです。具象画家より抽象画家の方が、いばらの道。

だから抽象画がつまらないと鑑賞者が感じても、原因が当人の抽象アレルギーか、作者の制作能力かは、一段と特定困難です。特定できる場合があるとすれば「具象はわかり抽象はわからない」と、はっきり分かれる人がそうでしょう。わかる抽象が一個もない人なら、そりゃ抽象アレルギーだなという、その程度。

ある抽象画にピンとこない時、その感覚が正しいかも知れないのです。その抽象画がスカの作品だった時がそうで、しかも抽象画の方がスカ率が圧倒的に高い。つまり、人々が抽象画の方に幻滅しやすくなる確率の片寄りがあります。見せ場をつくる難易度からして違うから。

作り手は濃い内容の抽象作品づくりが苦手で、受け手は抽象作品から濃い内容を受け取るのが苦手と、送信と受信のそれぞれがともにしくじる率が高い。抽象のこの特性も含めて、「抽象はちょっと」の世論ができています。日本で目立ちますが、世界的にその傾向はあります。ちなみに『曜変天目茶碗』は抽象美術です。
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科学への反感はなぜ生まれやすいのか、夢占いのケース
2017-02-25 Sat 01:12
芸術と反対の分野は科学ですが、こちらも誤解や曲解にさらされます。たとえば夢。「何かが見つからなくて焦っている夢をみるのは、将来不安や自分探しの意味」などの、夢解釈や夢占いがよくありますね。二つとも人類の全員が常時必ず持っている深層心理である点、つまりフリーサイズ言葉なのは今は無視しましょう。

実際にこんな夢がありました。夢の中の自分が「鉄の爪」の話を出します。相手は目を丸くして「そんな物があるのですか」と驚く。実物を見せてやろうと引き出しを開けると、いくら探しても見つからずカッターナイフがあるだけ。仕方なしにカッターナイフを見せて、鉄の爪なる工具をどう説明するか考え始める自分(2017年2月8日の夢)。

「見つからない夢は自分探しです」と夢占い師が言っても、そうである裏づけはありません。解釈しようと思えば、「活躍できていない焦り」「準備が悪くスベッた後悔」「人間の引き出しが小さい悩み」「旧友と再会したい思い」「最愛の人との離別の予感」「武器を取れとの神のお告げ」など、様々に解釈できます。

占う側は「そんなのウソだよ、だってこうじゃん」と突っ込まれないよう、誰も証明できない領域で話を広げて破綻を防ぎます。肯定できない代わりに否定もされないように、論理の壁の向こうへ脱出してグレーに持ち込む。この反証不能な領域へ出る行動を指して、「科学ではない」「科学の態度と違う」「オカルト」と言うわけです。

だから科学を悪く言って否定する人が、世界中にたいへん多いのです。たとえば「病気が直る水」が商法違反で警告された時、「全世界の誰も一人も絶対に直らないことを、科学で証明できているのですか」と独特の理屈で反発が出てきたりします。科学は欲望や人情とぶつかるから、目のカタキにする人が絶えません。

怪現象や大規模陰謀も反証不能の領域で、「この説は完全否定できないから、真実と考えてもよい」の信念で回っています。たとえばSTAP細胞では、バイオ学会からの科学的な発言に対して、「宇宙の全てを知り尽くしていない者に何がわかる」「日本人を肯定しない者は日本人ではない」と知識人は批判し、科学への反感の輪が広がりました。
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美術に贋作が多いのは、美術がわからないのも一因か
2017-02-22 Wed 01:42
高級腕時計やカバンを偽造して、本物より安く売る闇市場があります。これを美術でやるのが贋作(がんさく)で、完全コピーでなく有名画家の未知の作品を装います。売る相手は美術館やアートコレクター。

贋作は音楽では起きない気がします。ホロヴィッツやイーグルスの贋作レコードや安室奈美恵の贋作CDは珍しく、ブートレグ(海賊盤)と呼ぶ違法コピー盤がやっと。それとて本人が演奏した、販売権のないダビング製品です。音楽大学の学生が真似て歌い、安室のライブ版と偽った音楽ソフトはまずないのではないかと。

それでも戦後の昭和時代、地方にニセの歌手が現れました。比較的年輩のミュージシャンが時々話に出す「みそらひはり」もそれで。ポスターに濁点はなく、チケットを買うと地元の知らない歌手が出演したという話。「エノケソ」も、日本が貧しくなった時代の便乗商法として語り草です。名前が違うだけ良心的かも。

音楽ではまれな贋作も、美術では多いのです。時々あるどころか、ありすぎてどうにもならない場合も。たとえばエコール・ド・パリでも特にゆるい作風のあの大物画家は、見たら贋作と思えとささやかれるほど。贋作率9割以上だから「それはニセモノだ」ととりあえず言い放てば、神がかって十中八九が的中する計算です。

贋作問題を書いた本は昔から多く、しかし真贋と芸術性の高低がからむと書きにくい様子です。歴史名作にも贋作は多く、鑑定結果もグレーが多いから、一般人の自己責任みたいになっています。真物と知れば感動しろしろと背中を押され、贋物と知れば感動するなと急ブレーキ。この心理は美術家や評論家にもやはり起きていて、人間の限界なのです。

みそらひはりが抜群だったり、個性的ならどうなるかは、音楽なら東京へ送り興行に乗せれば新たな展開ですが、美術ではそうはなりません。普段から不透明な価値で回転している弱点で、ネームとバリューを分離して扱うことは、現実に誰にできるかとなって出口が見えないのです。能力主義に徹しにくい美術の特殊事情が、贋作者には追い風です。
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曜変天目茶碗の玉虫色の鑑定、作品を見るだけでわかるのか
2017-02-19 Sun 02:25
「作品を見れば、良さがきっとわかります」という言い方は、アートの色々な場面で出てきます。でも物を見る時に、何が目に入りどこに着目するかは、人によって異なる問題があります。

骨董品を鑑定して価格を決めるテレビ番組で、『曜変天目茶碗』が新たに発掘認定されました(ようへんてんもく、耀の字も)。中世時代に現中国の福建省の窯でつくった、偶発的な焼成釉の茶碗。逸品は、世界にある3個全てが日本の国宝だそう。4個めが個人宅から出た国宝級発見の朗報でしたが、放送後にニセモノだと疑われています。

番組どおり本物なら、オークションで推定20~100億円でしょう。制作や研究の第一人者たちの主張どおり偽物なら、1万円で2~11個買える現代の品です。本釉の窯変ではなく、色釉の混合説も。中国側の専門家は贋物とはせず、推定した現地みやげ販売業者名をあげました。

ここで注目したいのは、真贋以前に物をくらべる目のあやふやさです。何が目に映っているかが、人によって違いすぎる不安定さです。今回も「見ても僕にはわからない」「実物でない映像だけで何がわかるのか」と、見分けがつかない告白がすぐにネットに続々と書かれました。

たとえばの話ですが、映像で「犬と猫はほら違うでしょ」と言っても、「僕には同じに見える」とか「どこが違うのかさっぱり」「違うと思い込めば違って見えるのでしょ」「実物を見ないとね」と言われたような感じ。そこまで慎重になるほど、微妙な違いの話ではないのでは。

優劣以前にルックスの差も感じないのは、高尚さに緊張して気持ちが固くなったせいかも知れません。古美術の一切を嫌う声の多さは、それも関係があるのかも。近年の贋作は科学検査への対策をこらすから、目視比較する優先度は下がっていません。まあ確かに冷静に考えると、犬と猫にも決定的な差はなく、ほぼ同じなほど似ていますが・・・
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売れる画家と売れない画家はどこで分かれるのか
2017-02-16 Thu 01:09
作品が売れている画家と、さっぱり売れない画家がなぜ生じるのかは、昔と今では理由が違います。昔は、技量の高低でした。上手で手慣れた画家が、「よく描けている」とほめられて売れました。今は、買い手にわかる作品が売れます。わからないと売れない。

昔と今、たとえば18世紀と20世紀以降で何が一番違うかといえば、今は一人一人のやっていることが異なっています。ピカソとミロがそうであるように、作品が似ていません。こちらの企画美術展でも、全員の作風が拡散します。昔は皆がまんじゅうを作っていて、似た作風同士で上手さをくらべました。味見すれば上下が決まる。

今は、まんじゅうを作る画家がいれば、傘を作る画家もいる。自転車や下駄を作る画家も。その時まんじゅう作りと下駄作りをくらべて、どちらが上手かは言えなくなっています。ピカソとミロのどちらが絵がうまいかが決まらないのと同じ。だから、趣味の問題に落ち着きます。そのせいで、今の方が創造性の原意を理解しやすいはず。

誰もがほめる絵は、誰もが思い当たる絵です。誰もほめない絵は、誰も思い当たらない絵です。全然、全く完全に、誰一人として心当たりのない作風だと、ひとつも売れません。人は自分がわかる上限の作品が一番好きだからです。創造者は売れる定石を蹴って、他人の念頭にない方向へ走るから売れない理屈です。

今新しく創造したものが、みんなの価値観になじむことは、あり得ない話です。芸術大学が奇人変人を集めようとするのは、これが根拠です。全人類が永久に理解できない作品、美術だと認める人間が最後まで一人も現れない何かを作って欲しいからです。これは音楽や落語にはみられない、美術だけが突出したオーソドックスな価値観です。

この芸術の論理に、非常に多くがついて行けないわけです。理解できないものこそが本芸術だなんて・・・。案の定、芸術敬遠がどっと増え、もどきが栄えます。今どきの芸術家は、ゴッホのような死に方をしたくてやっているのではなく、オーソドックスな道理に沿っています。ひと昔前に盛んだった、ぺインター対アーティスト論もそれです。
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日本人の物づくり哲学とは
2017-02-13 Mon 01:35
日本の文明と文化を他国とくらべ、ほめそやす話題が何年も前から増えました。新幹線がすごいとか、コンビニのパンが最高だとか。テレビのコメンテーターは、これらは日本人が閉鎖的なナショナリズムに向かう悪い兆候だと警告しました。一方ネットでよく言われるのは、自虐史観の反動で起きた日本ヨイショだと。

素直に考えれば、不景気の日本を応援しただけのような。「景気は気」という群集心理を打開しようと、明るい話題になる日本の美点を並べてみたのでしょう。不景気は賃下げで冷えた気持ちが最大原因だし、日本は内需主導型の国だし。失われた20年の平成大不況を、話題から外して解説する評論家が多いのがむしろ問題です。

その新幹線もパンも、日本人が作る物にはある哲学が加わります。お金より大事とする理想追求です。使役で新幹線を設計し、ノルマでパンを製造するのとは少し違って、何ごとも職人ふうに。採算を考慮しながらも、より良い物をつくろうと自動的に向かう趣味みたいなもの。

富を追って、仕事を足場や踏み台に利用して上に出ようとする人生は、日本人には希薄です。ごく普通の人も仕事の中で理想を追い求め、没頭していく傾向がみられます。おそらく江戸時代からそうで、自然風土にも合った国民性でしょう。

「うどんにノーベル賞はないのでしょうか」というCMが昔ありましたが、お笑いギャグには思えません。オーバースペックが彼岸にある前提があるのです。割り切りや妥協で使い捨てて利益優先のグローバリストとは、逆の価値観でしょう。新幹線もパンも、パンを入れる袋も良くしようと。凡を安く売り抜けるのは苦手で。

身近なものを優れものに作るから、外国の人は日本に行き届いた製品が多いと感じるのでしょう。世界の上限がたくさん見つかる日本の日常。ならば身近ではない美術は世界の上限なのか、日本全体から隠れた新興の芸術作品を探しているところです。歴史名作の探訪よりも、明日生まれる新作に期待しています。
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抽象は死んだのか、純粋抽象アートの場合
2017-02-10 Fri 05:39
抽象アートの中で、純粋抽象はほぼ死んでいるでしょう。死んでいるという意味は、作る側にとっても見る側にとっても、もう芸術体験にならないこと。創造の糧にもならないことです。謎も含みもなく割り切れていて、過去形となった状態。俗に言うアカデミズム化というやつ。

純粋抽象のわかりやすい例は彫刻で、たとえば直方体や球体を巨大化したオブジェは、ステンレスであろうと木彫であろうと、純粋抽象に入るでしょう。絵画なら代表は近代画家のモンドリアンで、画面を直線で仕切って塗り分けたタイプがわかりやすい一例。

そうした純粋抽象の反対になる、純粋でない抽象はピカソが典型です。ピカソのほとんどの絵が、人物、風景、静物の具象三点セットのどれかに当たります。初期のポロックのような純粋抽象に近い絵とくらべて、ピカソは実は具象画だという珍説もあるほど。ピカソは抽象の原点にもなっていて、初級者に優しい。

それに対して純粋抽象がほぼ死んだとにらんだのは、現代日本アートを海外で展示した結果でした。一般に展示作品の効力は二つあり、好かれる方向と嫌われる方向です。今や純粋抽象はどちらにもならず、見物客から好感も反感も引き出せない状態です。売れないなりの刺激も特に発揮せず、空気に近かったような。

だからこちらでやる制作マネージメントも、純粋抽象系はエレメントに付加価値を足す話になります。模様のおもしろさあたりを見せ場とした作品は、現実の事物につながる作品へアレンジする方向で。これは近代抽象画がモンドリアンで完成して折り返した、西洋絵画史の流れと一致します。

では具象画は死なないのかといえば、カメラが普及した時に写実主義が死んでいます。印象派の絵が写真的でなく絵画的なのは、カメラと競合したからです。先進国のうち日本で「写真は芸術でない」の意識が特に強いのは、写実絵画の時代を存分に満喫しないうちに、写真術の台頭で過去形にされた美術側の未練もあるかも知れません。
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芸術をほめる言葉が貧困になっている文学界
2017-02-07 Tue 01:39
「素晴らしい」「感動した」と作品をたたえ、感慨の大きさで芸術性の大きさを裏づける場面がよくあります。「絵の高い芸術性を見届けた」体験をわかりやすく表現するために、アートファンはしばしば自身の心の高まりを強調します。でも、そうした言い方は無意味なんですよ。

たとえば振り込め詐欺の犯人グループは、高齢者から巧みに300万円をだまし取るのに成功したら、「素晴らしい」「感動した」と言い合ってわくかも知れません。こぼれる笑顔でガッツポーズ。人の心に生じるナイスな気分、共感と高揚で心にぐっときたとしても、創造性の証明にはならないでしょう。善行か悪行かさえ、どっちもいえるわけで。

それらはフリーサイズの言葉であり、具体性もない。「すごかった」と言っているだけで、何がどうすごいかは空白。ショックの規模をもって「この作品は究極の芸術作品である」「人類の至高の創造とわかった」と、実証できたみたいに語られては、ちょっとまあ困ったものです。

美術作品をほめる言葉は、芸術体験の広さ深さの反映と考えられます。よく絵画展の直後にお客に聞くと、「暗いですね」「明るいですね」だけだったりして。抽象画では「色がきれいでした」。現代美術特集では「作品が大きくて驚きました」。

「ピカソはすごいですよね、ピカソのデッサン画は本当にきちっとしています」という称賛もアレです。「僕はピカソの抽象絵画がわかりません」「ゲルニカの国際評価はピンときません」のカミングアウトになっていますよね。無理にほめようとせず、正直にけなしてもよいのでしょう。流行語大賞にならって「わけがわからん抽象は死ね」と。

ほめ言葉の貧困は、日本でアートが特殊領域に隔離され、毎日の暮らしの中にないことに起因するでしょう。日本国民はアートと疎遠だから、言葉が出てきにくい。美術を語る言葉が発達していないのです。これは文学界でもいえます。小説家やエッセイストまでが美術の芸術性をほとんど語れていないのは、ちょっとまあ困ったものです。
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自由と自由感が比例しない表現物はなんでだろー
2017-02-04 Sat 00:13
作者が自由な気持ちで飛翔し、その飛翔作品を見た人は不自由な気持ちになる。この問題を考えてみます。

過去にクラシック系の「現代音楽」や、ジャズ系の「フリージャズ」が流行して、すぐに陥った悩みがありました。簡単に言えば、作るルールを取り払った自由奔放な表現物は、鑑賞者には逆にストレスがたまって肩がこる問題でした。高揚するテンションや刺激は意外に感じられず、何も入ってこなくて眠くなったりして。

たとえばチック・コリアは、フリージャズ演奏が不評すぎたあげくに、ツアーの途中でゆくえ不明となってグループが崩壊したほど。当時のお蔵入りだった曲がCD化された時に買いましたが、締まりのない印象があったような。単調でイマジネーションも広がりにくい。

演奏家の自由が、聴衆の自由感につながらない問題です。そりゃ当然でしょと言いかけたとしても、ちょっとした謎です。作り手が自由を演じているのだから、受け手にその自由な気分が伝わってもよいのに、逆に身が固くなってがまん大会みたい。音楽でフリー何とかと呼ばれるものは、フリー度が高いほど内容が希薄にとどまる傾向です。

この現象は、自由が無秩序に向かいやすいと考えれば、簡単な話です。好きにやるとダレる、スポーツの自主トレみたいに。芸術がある種の混濁から生まれるのは、それはそれで真理でしょう。街の電柱と電線のごちゃごちゃが極端だと、時にはアートに見える実例もそれです。

しかし、無秩序の混沌そのものは芸術ではなかった。混沌状態で完成させたら、出来損ないになります。電線も偶然のまま純粋抽象にとどめては、他者に魅力に映らないはず。混沌自体は芸術でないから、主張になりにくい。そこに秩序を見つけて切り出し、再構築する腕で内容がふくらんでいくことは、悩むまでもない簡単な仕組みです。
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現代アートは自由主義か排他主義か
2017-02-01 Wed 01:43
リベラルが本物なら、リベラルの否定も容認されるべき。哲学書の一節ではなく、今思いついただけです。これが自由主義の矛盾となってきます。リベラルとは寛容を意味し、本来は何でもありのこと。現代アートもリベラル主義の体現者といえるでしょう。

2015年にパリでテロ事件が起きた直後に、「表現の自由を守る」のスローガンがフランスとEU国で強く叫ばれました。しかしイスラムをからかう漫画は自由と言う一方で、キリストをからかう漫画は取り締まるべきの声に変わったり、キリスト叩きが違法の場合もあります。

表現の自由はまんべんなく許されてはおらず、「僕が許す範囲だけ」という恣意性含みの条件付きがその実体でした。ネットにも多い指摘は、「自由なら、なぜヒトラーの本はフランスで長く発禁なのか」「ナチスふうコートと帽子をコスプレ採用した日本のアニメプロモートは、なぜ中止させられるのか」。

中止は当然でしょと納得し合うのは取り引きであり、表現の自由は守られずに破られています。「この自由はマル、あの自由はバツ」と対応が分かれるなら、リベラルにあらず。高い理想を唱える人が、立場が逆になると基準を変えるパターンかも。自由主義は方便となっています。

現代アートはしばしばカタログで自由を標榜し、好きに羽ばたき奔放に飛び回っている印象があります。しかし類型化すれば、意外にフォーマットが片寄っていて、作風は全方位に広がっていないし、許容範囲は狭い。たとえば、現代アートっぽく見えない現代作品は、現代アートの仲間に入れないものですよね。「らしさ」というしるしが大事で。

「唱えた自由は守りたまえ」「守れないなら唱えるなかれ」の教訓は、原理主義の理屈としては一応成り立つでしょう。しかしそれよりも気になるのは、歴史的な作品は自由を唱えていないことです。本物の創造は自由を主張せず、早く消えるものほど主張している。それはおそらく、創造しないで芸術を名乗る自由が裏目に出ています。
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