楽器のピアノに相当する画材
2017-01-29 Sun 00:22
『トルコ行進曲』といえば、モーツァルトとベートーベンがともに作曲しています。どちらもとても出来がよく、「これ聴いたことある」という人が多い曲です。

不思議な現象があって、ピアノ曲はかなり古い作曲でもモダンに聴こえます。ベートーベンでも、交響曲にくらべピアノ曲は新鮮な響きです。クラシック臭が希薄で。ゴッホより4年早く没したリストのピアノ曲も、響きが現代的です。リストの管弦楽曲は19世紀の香りなのに。

これと似た別の体験もあります。知っているポピュラーでも映画音楽でも、その曲のライブでピアノを弾いている映像。ステージ楽器で間に合わせたのかと調べてみると、スタジオ盤も元々ピアノだったという発見です。「あれは、実はピアノだったのか」。

ピアノの音はピアノらしくないのです。「ピアノだぞうジャーン」という、楽器を主張する鳴り方ではない。チェンバロが入れば古色を感じ、木琴が加わると現代を感じるのに、ピアノは時代色を出さない。幼稚園から小中高校まで必ずあるピアノは、プロの商業音楽でも絶大な効果を上げていながら、楽器の存在が透明です。

ピアノのように古色のないマテリアルを、美術用の画材で探すと、やはり絵具やペンキ類でしょうか。油絵具からアクリル絵具に交替している場合も多いのですが、絵具もまた絵具らしさをフィーチャーしません。

しかし1980年代のインスターレーション全盛の中では、絵具批判が起きました。ギャラリーを借りようにも、「今どき絵具の絵ですか」「筆描きの時代はもう終わった」と否定されたものです。あちこちのギャラリーで。しかし今、絵画おことわりが主義のアートマネージャーは珍しくなっています。
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世のアーティストたちは本当に芸術をわかっているのか
2017-01-26 Thu 01:15
美術入門者の中で深く考えるタイプは、こう感じたのです。「美術界がわからない」と。作品よりも美術界。業界自体がよくわからない世界だなあと。美術界は何を信条として、いったい何屋さんなのかと。

アートの概念とアーティストの定義を広げることへの執着は何か。実はアーティスト自身がピカソがわからなかったせいで、横へ流れているのではないか、という疑惑です。このタブーともいえる疑いが可能になる根拠は、アートの意味をずらしたりねじった作品の多さ、アートでないトンチ領域へ飛翔する作者の多さです。作る放棄の多さ。

市販のトラクターが農家に納品されると、146万円。それを美術館に納品すると、7億円のアート作品になるパターン。このタイプのコンセプチュアルな作品たちは、「ピカソはわからない」へのリアクションが立脚点かも知れない疑いです。時代のタイミングからみても。

「わからないものが芸術さ」という、ピカソで生じた一般通念が初めにありきです。そこを基準に、コンテンポラリーアートはわからないものを求めています。謎の大きさでピカソを上回るために。わからない印象を与える近道で、トラクターを選んだ疑いがあるのです。作品のわけがわからないと皆に言って欲しくて。名目でピカソを超えようと。

「芸術はわからないもの、奇妙、謎」というピカソが原因で出来上がったイメージに、後発の作者たちが引っかけようとした疑いです。造形では勝負にならなかったから、トンチの領域へ場を移して。わからなくすることが主目的になったとも、言い替えられるでしょう。

振り返りますが、「それならピカソがわからないのは何だったのか?」「美術館にトラクターを置くことと、ピカソ絵画を置くことは、同質の不思議をもたらせるのか?」という、その話が実は世の中に抜けていたのです。日本に限らず世界で。雲と蜘蛛を区別せず「くも」でぼかした現代美術論とは、そういう意味のたとえです。難しい話ですが。
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アート作品の理解とはマルをつける意味なのか
2017-01-23 Mon 01:49
「わかる」とはどうなることなのか、本書で少し触れています。少しにとどめたのは、細かい話に向かうと哲学的な突き詰め方になって、日常の感覚から離れてしまうからでした。先進国中で日本の最大の問題は、アートを特殊領域に追いやっている点なのだから。

ここで今「わかる」とは別の「理解する」の意味について、本書にない話題を用意しました。作品を理解するというのは、そのまま「いいね」をポチっと押すナイス表明とは限らないというお話です。

たとえば国際問題で「理解を求める」の理解は、相手に何かを許可してもらったり、反対意見を取り下げてもらう意味が多いのです。元はNOだったのを、YESに変えてもらう場合もあります。同意の意味です。理解は賛成。しかしこれが家庭問題ならどうでしょうか。

「恋愛は誤解で始まり、理解で終わる」という格言があって、理解し合うことで関係がつぶれることがあります。理解は賛成などではなくて。こちらの意味が、美術作品には適するでしょう。美術の理解は国際問題ではなく、家庭問題と似ているのです。作品を正しく理解した結果の、作品否定があり得るという話です。理解しての駄目出し。

作品がよくわからないせいで、何となく好感を持つことはあり得ます。それが一転して理解が進むと、つぶれてしまう展開です。美術にそれが起きてもよい、そういう理解も当然あるとするのが、本書の立場です。この本は理解が目的です。美術の美化はやらず、愛好は後回しで。

人々がアートの本質を誤解しているおかげで、美術制作者の利になっている面も実はあるのです。きちんと本質を理解したら冷や水になって、幻滅して去っていく人が増える恐れと背中合わせ。実は本書は、紙製本の時代に出版社に何度か断られていました。内輪の機嫌を損ねる内情はちょっと、という意見がついてきて。別に暴露本ではなかったのに。
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世界のアートは大きく二種類に分かれるって?
2017-01-20 Fri 01:38
「難しい、わからない、ちょっと」が普通になっている日本で、鑑賞者が悪いのか、それとも作者が悪いのかを、厳密に調べてみる人は少ないようです。「わからない」の内訳があいまいにされている一面です。

ネットに並ぶ「美術がわからない」についての記事は、互いの攻防にもなっています。見る側は「何が描かれているかわからない」という不満の大合唱で、逆の側は「こう見たらわかる」と未熟者を指導や調教する書き方になっています。

しかしこの本は「現代アートがわかるサイト」に多い、入門者をアート脳へ改造する講座とは全く違います。作る側の論理や意図を説明はしても、学ぶことはすすめません。すすめない理由は、現代アートには中味がないものを展示するという、19世紀以前にはなかった手法があるからです。20世紀に生まれた「特殊解」のアートです。

文化人類史から乖離した特殊解が現代美術にだけ存在し、猫もしゃくしも特殊解に流れたハイな気分は、意外に大事です。もう少し考える人たちは、作品がわからない悩みとは別に、わからないこと同士の横の壁に気づき始めたのです。あっちの「わからない」とこっちの「わからない」は、同じ意味なのだろうかと。

彼らがばくぜんと感じながら、すっきりとうまく言葉にできない焦点。それはピカソの抽象がわからないことと、7億円のトラクターがわからないことは、果たして同じ現象かという点です。「わからない」は全てがイコールなのかという疑問。言葉では容易に言い表しにくい部分です。だから、現に誰も言い出さないわけで。

実は違うのだと、初めて具体的に説明したのが本書でした。現代アート論には、雲と蜘蛛を分別せずに「くもがー」「くもをー」と投げ散らかす話がとても多いのです。そこを思い切って分けると、ごちゃごちゃは整理され一気に見通しがきくようになりました。人類が考えたアートを「三大画家タイプ」と「ダダ運動タイプ」に分けたのです。
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出版時にはうまく書けなかった現代美術の閉じた空気
2017-01-17 Tue 02:05
この本を出した時点では、うまく書けなかった話があります。美術特有の閉じた空気です。たとえばネット上にアート専門サイトがあります。画家やギャラリーや美術館へのリンクが並んだ、2000年代半ばに流行った相互リンクサイトなどもそう。

その集合体の雰囲気は内向きです。美術界の内向的な気分が伝わってきて。どこで切ってもアート界の内輪、好事家や同人の集いを思わせて。部外の一般読者が立ち寄っても、その空気自体に壁があるのです。美術を理解する壁というより、美術がガードされた壁のようなもの。

美術に近づきたい人は、業界の空気に染まる気はないでしょう。美術界に同化し、内輪の一員となるのは本望でないでしょう。美術脳とは違う価値観を持つ一般人を排除するような、その暗黙の圧が美術に触れる人にとってはハードルです。

現代美術は全面肯定され、わからない者は改めよ式の話になっていますよね。鑑賞者が心を入れ替えて所属を移せば、アートがわかり始める想定で固められていて。幾多の「わかるサイト」も似ています。その部分に潜む問題が著者にはうまく書けなかったのです。どこに照準を合わせるかが複雑で。

一般人とは切れた場で称賛し合う同人感覚が、現代アートの固いガードをつくっています。外に対して自由と多様性とリベラルをうたい、中は緊張のない集まりというか。外からみて、十全でない現代アートのどこが時代の歪みを負っているかぐらい、スルーせずオープンに語らないのだろうかというのが正直な実感で。

仮想的な例ですが、農業用トラクターが展示室に置かれ、「現代巨匠の既製品アートで7億円です」と聞いた市民は思うはず。おバカな作品に誰も突っ込まないのかと。「トラクターの美はアートです」と、わかったように身内アゲされても・・・。価値は業界が決め、人々は追認して入信するか、縁切りするかの二択なのは困った状態です。
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芸術家とはいったいどんな性格の人なのか
2017-01-14 Sat 01:14
芸術作品を理解するよりも、それを作る芸術家の方を理解すれば何とかなろうと、先回りして考えるのも有効です。しかし実はそこでも、作品を見る時と同じ先入観がじゃましています。

芸術家とは非常に細かくて、神経質な人だと思っている方は多いでしょう。普通の人が特に感じなかったり、気づいても見過ごしてしまう微妙な美に敏感だとすれば、きっと繊細な人なんだと。違うんですよ。芸術家は、細かいことに気づくタイプではなくて、おもしろいことに気づくタイプです。

たとえば街に電柱が立ち、電線が張りめぐらされて景観がとても汚い。電線を地中埋設してきれいにしなければとの信念は、芸術家の感覚とは違います。ごちゃごちゃした電線は迫力があるぞ魅力だぞと感じ、混沌とした汚濁の中に新しい形を見出すのが芸術家タイプです。気をつけて欲しいのは、これは画家ではなく芸術家の話だということ。

思ったように物ごとが運ばず道からそれた時に、その間違った道へ立ち寄ってみるのが芸術家です。予定どおりに進まない、失敗しちゃった、失敗させられちゃった、うわあひどいと損害計算と復旧に必死なのは、たぶん創造には遠いタイプ。

店員がいつもと違う料理を間違って作って来たら、作り直させることを考えるタイプは芸術じゃない。今日はそっちだと考えるタイプが芸術家肌です。画才ではなく創造才。それなら性格で美術の去就が左右されるのか?といえば、神経質タイプはやはり途中でやめやすいのです。何しろ、すれ違う相手とやっていく世界ですから。

細かい人だとする芸術家像には、職人芸のイメージが混じっています。字も共通だし、ものを作る点も共通だから、特に日本では芸術と職人芸は常に混同されます。この固定観念が現実と食い違うから、鑑賞が暗礁に乗り上げるのです。セザンヌもモディリアニも、職人の匠のわざとは違うせいで、鑑賞者はどうにもわけがわからず。
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日本の浮世絵は欧米で理解されているのか
2017-01-11 Wed 02:07
日本が誇る浮世絵の話題には虚実も多く、ヨーロッパ印象派の画家たちが浮世絵に影響を受けたという話は、ほぼウソといえます。印象派たちが愛好したのは、浮世絵に描かれていたエキゾティシズム、すなわち異国情緒あふれる物品でした。モチーフとも言います。

具体的には扇子や急須、湯のみ茶碗、すだれなどのアイテム。女人画では、まげとかんざし、和服姿、はきものなど。彼らにおおっと思わせたのは、画風ではなく畳や下駄でした。それを印象派の絵画内に描いただけです。浮世絵の技法的な面は無視されています。

完全無視の例がゴッホで、彼はおいらんの絵を浮世絵の技法ではなく、印象派の点描画タッチで描いています。日本に点描画の浮世絵はなく、面相筆で線を引いた水彩日本画か、量産向けの木版画です。

ゴッホの『おいらん』は、ギトギトのオイリーでケバケバのメタル調、浮世絵の影響なしどころか正反対です。「浮世絵は印象派に影響を与えた」の内訳は、料理でいえばそばを煮込んだクリームシチューです。トッピングの採用にすぎず、そばらしい風味は現地で引用されずじまい。かけそばも、つけそばも、学んだ形跡なし。

印象派のアイデアは19世紀科学の応用で、日光の白色が虹色に分かれるプリズムの発見とされます。キャンバスに物の色を直接塗らずに、原色の点々を敷き詰めてやれば、離れて見ると写実的に見えるデジタル画のはしりといえます。ルノワールも離れるとなめらかに見えるタイプ。日本の浮世絵は、プリズムや虹色のデジタルと関係ありません。

それなら浮世絵の価値はどこへ消えたのかといえば、今もヨーロッパにとって理解の壁になっているとわかります。面を塗らず線主体で表現する絵は、欧米の人には難しいようです。書道の伝統がある日本では線の使い方が飛躍していて、水墨画がひとつの成果になっています。
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日本と欧米の美術をくらべる意味
2017-01-08 Sun 04:14
1945年に始まる戦後の国土復旧で、進駐軍撤退後に論壇にひんぱんに登場したのが、欧米との比較文化論、日本論や日本人論でした。日本が欧米より遅れている部分は改善を求め、逆に優れている部分は胸を張り、単なる違いは理由を推測するという作業でした。

今では欧米と何かをくらべるだけで怒り出す日本人もいますが、たとえば同じ仕事の時給金額が、日本は欧米の7割以下となれば無視できない情報なはず。伏せる方が怪しい。先進7カ国会議G7メンバーだった日本は、欧米先進国と比較した研究を参考に近代化してきたのです。

美術に関して、欧米と日本をくらべて真っ先に来る話題は、欧米の美術作品を日本人が追いかける慣習です。欧米のオリジナルアイデアを日本が模倣し、欧米によく似た作品ほど国内での評価が高くなる流れです。そして洋画というカテゴリーは、今も日本美術界の最大勢力です。

欧米ふうでない独自コースで作ると、時代に合わないとみなす、いわゆるオリジナル排斥です。同様に、昔の日本には良いものがあったという論述は、上手に書かないと戦前の封建時代を賛美していると受け取られたり、国粋主義と言われることもあったのです。

日本では長く西洋寄りか日本寄りかで、許されたり許されなかったり、不規則なまだら状態でした。美術ファンですと言って、東洋美術が好きですと続けると、カルトな趣味に思われたりして。美術の西洋至上主義とその反動の跡は、今でもあちこちに残ります。

そして今、制作よりも深刻なのは鑑賞です。日本では、美術が一般社会の外側に置かれています。特殊領域。欧米では美術は一般社会の内側に置かれ、普通の市民が現代アート作品を買い、コレクションを持つことも多い違いがあります。「難しい、わからない」が合言葉なのは、日本の特異性だという。時給よりも無視できない情報です。
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芸術が躍進している良い知らせかと思いきや
2017-01-05 Thu 05:57
2017年になっても、日本国内はまだまだ不況です。大手企業と公務員以外は、24年続く平成大不況から一度も出たことはなく、下り坂を下り続けています。政官財の全員が格差社会をやめますと言う日まで、今後も内需は低いままです。社会単位で奇跡はない法則どおりに。

で、この不況の初期によく飛び交った言い方。「ディスカウント店が大人気」「100円ショップが伸びている」「今なぜリサイクルショップなのか」「軽自動車が売れまくり」。話をどこに落とすかと思ったら、「不況にもかかわらず、伸びている分野もちゃんとあるのです」「努力しだいで繁盛するものです」という締めくくり方でした。

違うでしょ。そんな話じゃない。その手の分野の躍進が意味するのは、不況がひどくなっている裏づけです。不況に負けずにがんばっている人もいて、その熱いパワーに感心したなどと称賛したら、何をかいわんやです。「不況はウソだよ、しっかり売れている物があるのだから」と、低価格商品の伸びを好況の裏づけに使う分析は間違っています。

これと似たことが、芸術不況でもいえるのです。「目の錯覚を楽しむトリックアートが大人気」「ファッションショーとのコラボアートが伸びている」「今なぜ美術館でコンサートか」「ミュージアムのレストランがおいしい新時代を味わおう」。

本当はピカソやポロックが本命で、それを楽しみ味わうのが第一志望のつもりが、「芸術は難しい、現代美術はわからない、抽象はちょっと」にやられて理解及ばず。仕方なしに周辺へ流れたと、うがった見方もできます。この「うがった」は本来の「隠れ正論」の意味であり、テレビ人が用いる「こじつけた邪推」の意味ではなく。

抱き合わせ販売というのがあって、人気商品と不人気商品をセット販売し、不人気の在庫を処分する手段です。現代アートが他ジャンルとの組み合わせで登場する場合、芸術が躍進している朗報というよりは、救済モードに入っている裏もあるということです。コツを知って、第一志望で楽しもうではありませんか。周辺に流れずに。
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芸術を表すのに最もふさわしい言葉は何か?
2017-01-01 Sun 00:01
ある大学の造形の先生が授業で、よくこう言ったのです。「この絵はおもしろい」「これじゃおもしろくない」。「君らはもっとおもしろい絵を考えないと」。口ぐせのように、「おもしろい、おもしろい」を連発するのです。

おもしろい?、それはどういう意味なのか。新入生たちは悩み、議論しました。「うまい絵」ではなくて?。何のこっちゃ。おもしろい絵とおもしろくない絵、その差は何なのか。絵がどうなっていればおもしろくて、どうなればおもしろくないのか。

年月経て、おもしろいの意味は理解されました。そして同時に、その意味がわからない人間の心理も見通せるようにもなって。「おもしろい」イコール「芸術的である」なのです。だからこの語の内訳を分解してもナンセンスで、注釈も野暮です。「やつはクールだぜ」って感じで。

この「おもしろい」は「インタレスティング」であって、「ファン」ではありません。「興味深い」の方であり、「可笑しい」ではないはず。清少納言の「いとをかし」と似ていて。この「おもしろい」だと作品の芸術性に届いて、ずばり「芸術的である」だと逆に届かないのは、日本の事情とも関係があります。

というのは日本で「芸術的」の意味は、「模写の腕が立つ」「手が器用で細かい仕事」「高い人間性」など、特殊技能検定の免許皆伝的な方面が真っ先に来るからです。職人芸の道徳へと自動的に引っ張られ、それだと人類の歴史遺産と大きくかけ離れます。当てはまる時代範囲も狭いので、わからない過去が世の中に増えすぎる問題です。

かつて「東京路上考現学」で、街の奇妙な造作物を写真に撮り集めたグループもまた、「おもしろい」を連発しました。この語は、太古の美術品への言及にも不足がなく、いかなる表現の裂け目にも届く言葉です。一方「きれい」「上手」だと、歴史名画が名画である根拠さえ説明できません。「ゴッホはうまい」論も、実態とは違いすぎます。
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