反語表現が現代美術をつまらなくしたのか?
2016-12-27 Tue 13:30
反語は結局ここに話が落ちてきます。太古の美術品と現代の美術作品をくらべると、太古の方が太くたくましい「ザ・造形」ぶりが著しいものです。傾向というより、ことごとく当てはまる法則です。対して現代アートは線が細く味が薄く、しかも要点が反語や裏話に移っています。

テレビ番組にでもたとえると、20分で言える情報で90分持たせたような、上げ底的な印象が現代美術に多いのです。たとえば、同じ品物を百個以上羅列した大規模作品とか、ひねった説明とセットにした訳あり作品とか。造形を放棄したトンチ型アートが現代に多い特徴です。

テレビ番組で起きているのと似た幻滅が、現代アートでも広がっています。「手抜きで内容がないのに主張のフリだけ大げさ」と。「何でもいいよ」のリベラルな空気に便乗したような、逃げながら吠えているような作品に、国民は首を縦に振れずにいるわけです。

ところが・・・現代アートのその欠点を、論者たちはうまく語れずにいます。たとえば日本では、ルノワールなどきれいな具象画を愛し、現代美術はその逆だから嫌う人が多いのです。古典が好きで現代が嫌いな、一番多くみるパターンです。この話と混線しやすいからです。その話ではないのに、その話に丸まって行ってしまうのです。

現代美術の担い手側は、「美術ファンは保守的なのさ」式の弁解をやりがちです。反語的なハッタリ偏重は棚に上げて。この展開を別の社会問題にたとえてみるなら、「移民が増えると問題はないのか?」の疑問に対し、「人種差別はやめましょう」で煙幕を張るようなものです。対話を成り立たせない持ち込み方。

本書では芸術の原点と核心を、太古の造形物に置いています。人類の最初のデビュー時からあったものが、人類のやりたい本意だという、素直な発想でスタートしています。今の人の限界や今の流行に引っ張られないように、ここだけは真っ直ぐに考えます。古典でも現代でもない、人類の主軸が別にあるのです。
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AT車の暴走をメーカーが防げない反語ダメ症候群
2016-12-24 Sat 10:31
前回に続いてAT車の暴走事故を、芸術的に解析した話題です。AT車が暴走する原因は、ドライバーのペダルの踏み間違いです。MT車だと起きません。だからといって、主流をMT車に戻すわけにもいかず。

運転免許のAT限定は、女性の取得向けに設けたいきさつがあります。また、MT車は加速中のギアチェンジで一瞬減速するので、同乗者は軽くつんのめって乗り心地が悪い欠点もあります。クラッチカバーの偏摩耗でジャダーも起きるし、他人の車だと坂道発進がやりにくいし。

本書ではAT車を、ドライバーの操作ミスを誘う間違った設計と断定しています。もちろん、ドライバー側の自衛策にも触れていますが。設計が悪いとする根拠は、踏み間違う確率が上がる道理を、噛み砕くことができない人が現に多すぎる事実です。常人が認識しにくい領域に、設計エラーが存在する証明といえます。

その後のネットで、踏み間違う理由を言い当てた意見もまれに見ます。しかしAT車を開発した昔のエンジニアや学者に、その発想はなかった蓋然性が高いでしょう。現行メーカーも同様だから、話が設計の修正へ向かうわけもなく。AT車の商品化は芸術に強い人物が指揮して、反語的思考をまじえて危険性を最初から除去しておくべきでした。

反語的思考のない真っ直ぐな意見が、毎日投じられています。「どうやれば間違うわけ?」「長い距離を気づかず踏むのはあり得ない」「間違えても踏み直せば済むだろ」「ペダルが近すぎ」「故意の暴走テロだ」「自殺が目的」「電子部品のバグだ」「電波で乗っ取られた」「闇組織が車をあやつった」「警察が故障をもみ消した」。広がる妄想。

ちなみに、ゴーカートでは踏み間違いは起きません。ゴーカートには反語的な何かが欠けているから?、そのとおりなのです。ひっくり返せばあまりにも簡単なだけに、ひっくり返さないとあまりにも難しい、反語のお話が続きました。
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AT車の暴走事故と反語と芸術
2016-12-21 Wed 22:30
AT車の暴走事故がなぜ起きるかの正解はネットにはなく、また当局が発表した「正しい原因」もありません。ペダルの踏み間違いまではわかっていても、なぜ踏み間違うかの理由はたった今も、都市伝説が流布し続けています。暴走は理解でき、踏み間違いは理解できずの状態。

実は本書にはおそらく世界で初めて、なぜ踏み間違うかの原理を書いています。しかし、著者は設計分野の出身ではあっても、車の設計にはたずさわっていません。人類の脳のはたらきから割り出せる人間工学的な現象を、「芸術の踏み間違い」という現象の前振りに使っています。

暴走する原因はのみ込めても、誤操作する原因はのみ込めない。これは反語がのみ込めない人間の限界と、実によく似ています。この問題は芸術がなぜ誤解釈されるのかと相似的で、人類の苦手な一面をあからさまに示しているのです。人はこういう思考が苦手なのです。だからウソが幅をきかせてしまう。

AT車が暴走事故を起こす様子を、動画配信サイトで全てチェックしたことがあります。日本だけで起きると思いがちですが、世界中で起きています。全て海外の防犯カメラ映像で、ショップ内から写したもの。

止まっていた車が動き出すと、ショップのガラスを突き破って、車が室内に入り込みます。ショップ内の家具を押して押して、押し込みまくって、容赦なく猛突進するAT車。その時ドライバーは、とても不思議な体験をしています。ブレーキを踏んでも車が止まらないのです。止まらないどころか、逆に力強く突き進もうとする奇妙な現象。

何とか止めようと、いっそうブレーキを強く踏むドライバー。たまらずギアをバックに変えると、今度は後へ暴走。再び前に変えると、さらに室内の奥の奥まで破壊し尽くす異常な挙動。ブレーキにさからって上昇するエンジン回転に負けまいと、ブレーキをぐいぐい踏めば踏むほど、逆に車がぐいぐい走る不思議。愛車が狂ったと確信するドライバー。
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ウルトラシリーズにも反語表現?
2016-12-18 Sun 13:56
「現代美術なんて簡単さ」と言い出すサイトは、額面どおりに受け取れば簡単で早いぞという主張だったりします。たとえば便器のフォルムと磁器の真っ白さを指して、よく見ると美しいでしょと。美といえるから便器も美術としてありですよ、と導くガイドがそうです。

そうした簡単な落とし方に対して、このブログはそれは遠回りだと指摘します。確かにこちらの目的も、難しい芸術を平易にし、わからない現代美術をわかるようにすることです。しかし取るべき手は、割り切りや回避ではなく、芸術はなぜ難しいのか自体を謎解きすることです。その方が近道になります。

芸術の難しさは錯覚ではなく、実際の作品にはひねった文脈が多用されています。「食べませんか?」ときて、「食べます」と受け取るとすれ違うアート作品があるわけです。「食べてしまえば簡単さ」とストレートに突っ切ったら、キャッチできない含みが残ります。

「表面だけすくい取って終わりにしよう」式の解説は、害だと考えています。そこでまず、芸術の難しいニュアンスをシミュレーションするのに、文学や映画にも使われている反語的表現を持ち出して、こんな感じなのだと話題をつくっているところです。

すると大きい疑問が出てくるでしょう。他人に伝わりにくく誤解されやすい反語表現を、なぜ現代作家はよく使うのかと。なぜわざわざ裏返すのか。その答は簡単で、20世紀の近代美術以降に起きてしまった爛熟と進歩主義が原因です。手法が行き詰まったマンネリ状態の時に、裏返しにする表現が出てくるという、よくある現象です。

たとえばテレビでウルトラシリーズや漫画アニメがスタートして回を重ねると、必ず裏返しの意外なストーリーがポンと出ますね。正義の主人公が悪にあやつられてしまい市民を襲う巻や、なぜかヒーローが珍しく大失敗して反省する巻など。いつもと違う展開。アートも同じで、行き詰まり対策として逆転の発想を持ち込むのです。
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京都の伝統的な反語表現「ぶぶ漬けどうどす?」
2016-12-16 Fri 04:36
美術に限らず、小説や映画にも反語表現はひんぱんに出てきます。気づかずにいたり、逆の意味に受け取ったままだったりもあるはず。作者の実力を測り損ねたりもあるでしょう。同じ映画の評価が日本人と外国人で違いすぎたら、反語の解釈で分かれた場合もありそうな。

そんな反語表現は、一般には難解といえます。だからここでやっている反語解説も、はっきり言って難解です。反語の正体を一口で言うなら、「空気を裏読みする」になるのでしょうが、空気を読みながら裏も読むのだから難解です。芸術が難しいのは錯覚ではありません。

ところで、反語的な言い方が多用された地で京都を浮かべます。ネットでも見かける「ぶぶ漬けはどうどす?」という言い方です。「お茶漬けを食べませんか?」という質問文になります。京都のお宅を訪問した人が昔よく言われた日常用法らしく、正しい返し方は「そろそろおいとましましょう」あたりだそうです。

つくり話ではなく昔は広く使われたらしく、落語ネタとして整理されたようです。よその地の耳には「なかなかうまい言い方」よりは、「何か意地悪っぽい言い方」と感じるようです。「僕は長居しすぎている」と自覚していない早めのタイミングで言われたら、無理やり追い出されるような印象があるからでしょう。

しかし客人を帰らせる調子ではなく、現代で言うなら家の人が「ああ、今日はとても楽しかったですね」とその直前まで続いていた話の腰を折らずに、やんわり客人に同調を求めるお開き提案の機微だったと考えられます。本当は、もう少し違う言い方だったのかも。

この言い方は過去のものとなり、現代では意地悪な物言いに受け取られています。今の時代は、活字ぴったりの直接表現が好まれ、反語的な曲折は通用しにくいのは確かです。反語を多用するアーティストが浮きやすい、表現への柔軟性が乏しい時代へ向かっている疑いもあります。
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ゴミ集めアートの反語表現
2016-12-10 Sat 22:00
「理解する」とあるのに「理解しない」意味になったり、「いない」が「いる」の強調だったり。そうした反語表現は、言っても書いても言語のマジックです。ならば言葉でなく、絵図や造形物で行う反語表現はどういうマジックかというツボがあります。

わかりやすいのは戦争と平和です。反戦をどう描くかの方法論の広がりです。前に企画した外国での日本現代美術展に、軍服を着て銃を持つ女性の絵が候補にありました。軍事色が濃い絵図に映り、軍国主義や戦闘賛美だと感じる人もいそうです。

その絵はもちろん反戦の思いであり、平和志向です。実はもっと飛躍した意外な狙い、暗喩があったのですが、少なくとも戦争肯定には向かっていません。画家は平和の絵をかく時、反対側の表現をとってもよいわけです。悲惨な被害を絵にして平和を強調する方法。かえって平和そうな幸福の図だと、好感度目当てで芸術性が下がりかねません。

似たことが、ゴミを集めた立体作品にもいえます。作者は、美女の銅像よりこっちがきれいだぞ、より美しいぞと張り合っているわけではありません。ゴミ作品を見た鑑賞者が「全然きれいじゃない」「あれを美しいと感じる感覚がわからん」と思ったら、やられてしまっています。

作品によって見方を切り換えよという教訓でもありません。アートはきれいさを示して伝えるものとする一般的な基準からして、人類が作ってきた創作の価値観とは異なるという重要ポイントです。見て感じた額面どおりを訴えるのかは、作者も決めていないこともあります。

ただし、きれいであるか汚いかは、アート本来の価値観を考える本質論に関係するから、反語表現の典型であるとまではいえないでしょう。ひとついえるのは、汚い作品を作る作者は別に美的感覚がおかしいわけではないということです。汚く作る目的意識は多岐に渡ります。
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太平洋戦争映画の反語表現
2016-12-08 Thu 00:08
第二次世界大戦は、欧州大戦と太平洋戦争の激戦で、世界を大破壊しました。戦況が傾いたのは、それぞれノルマンディー上陸作戦と、ミッドウェー海戦とされます。その太平洋戦争では太平洋南部の島を奪い合いました。当時のプロペラ機で、日本を空爆して帰れる距離だから。

登場国のうちアメリカは、欧州大戦と太平洋戦争(大東亜戦争)の二股かけました。日米開戦は75年前の今日です。後につくられたアメリカ映画に、南太平洋の孤島で日本兵とアメリカ兵が二人だけで戦う筋書きがありました。

互いに相手を一度は生け捕りにするのですが、ポツンと二人だけが島にいる事実に二人とも気づいていきます。無意味な戦闘を続けていると感じ始め、ついに縄を解いて二人は共同のサバイバル生活を始めます。

やがて身の上を語るのですが、何を心の支えにしているかに話題が及びます。アメリカ兵はキリスト教を信仰しています。そして日本兵に問いかけます。「あなたに神はいないのか?」。黙り込む日本兵。アメリカ兵は声を荒げます。「日本に神はいないのか?」。

「いるさ、いるよ」。映画を見ていた年輩が言いました。活劇に加わったつもりで思わず言い返す、ありがちな反応とは違いました。日本兵が何も信じずに戦場へ行ったかのように印象づける映画への不満でした。戦中の日本事情を知らない者が作った映画は許せないと、歴史認識がおかしい作品に憤慨したわけです。

違う違う。アメリカ兵の問いは映画全体が発する反語です。「いない」で神の存在をうんと強調していて。そもそも日本人が信仰でまとまっていた事実は、戦前のアメリカ国内でも日本を知るためのプロパガンダフィルムで説明されていました。このように反語表現をキャッチするかどうかで、映画の評価が割れることは実は多いのかも知れません。
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ネット空間の反語表現
2016-12-06 Tue 15:30
英語で「最後に理解する人」なんて言い方がありました。これは努力してついに理解に達する人の感動的な物語ではなく、永久に理解しない人の話です。救いようのない無理解な人間に、さじを投げた言葉。

こうした反語的な言い方は、日本人は苦手です。どうも活字を字面で追いかけ、額面にべったり沿って受け取る傾向があります。「理解すると言ってるから、理解する話だな」と。ネット時代にこの手の誤解釈が明るみに出やすくなり、意見交換の場でもすれ違いがよくみられます。

ネット掲示板で、Aがこう書きます。「この知事は、ウソを絶対言わない人格者としてぜひ表彰したい」と。すると、Bが反論するのです。「待て、その知事は前にウソを言ったから、人格者なわけないだろ」「賞するに値しないのに何持ち上げてるの」「わかってない」と。

事前に知事自身が、「私はウソを絶対に言わない人間です」と記者会見で豪語していたわけです。後で古いウソがばれたので、Aは知事の言葉を引用して反語的に皮肉っています。「待て」と書いたBは、Aが書いた反語表現を解さず、額面どおりに受け取ったという。

「あんたは最高の弁護士さんだよな」という言い方に、「いや、その弁護士はせいぜい中堅だろ」「世界は広いから、もっと立派な弁護士は大勢いると思うぞ」と活字どおりに返したらどうでしょう。反語や皮肉がわからない人だと、レッテル貼りされてしまいます。

アートに反語的な表現が増えたのは1910年代のダダ運動が発端で、37年のシュールレアリスム運動では応用が板につきます。もしレッテルを貼られる側のタイプが、美術の分野で指導的役割を発揮するなら、現代よりも古い近代美術さえ解せない作品の山となって、かなり具合が悪いでしょう。
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ポップアートがコンセプチュアルアートだというタネ明かし
2016-12-04 Sun 14:14
前回の百円とポップアートの話。何のこっちゃと首をかしげ、一晩考えた方もいるかも知れません。日本人の大半は、ポップアートをコンセプチュアルアートだとは思わず、庶民レベルに落とした、くだけた調子の具象美術だと思って鑑賞しています。そう誘導されることも多く。

「モンローって美人」「画家は漫画もうまいんだ」「ビール缶がスタイリッシュ」「落ち葉は心なごむ」。全然そんな話じゃありませんから。モンローも漫画も他人作品のパクリです。おバカもここに極まれりを、笑うアートでした。あれは美術館の品位に乗じたギャグだと、昔の作者インタビューにありました。Cが手にした百円硬貨と似た効果です。

日本だけで誤解釈されているポップアートではないのですが、概して日本人はコンセプチュアルアートが苦手です。真面目に真っ直ぐに考えてしまいます。日本人は、真面目な場で真面目に過ごすのは得意です。ふざけた場でふざけて過ごすのも得意です。

ところが、真面目な場におふざけを混ぜるのが大の苦手です。政治の場でジョークを言うのも笑うのも、全く呼吸が合いませんよね。欧米と違ってこじれますね。糾弾と謝罪ばかり。切り替えが苦手というより、場に合わないものをはめこんだり受け取るセンスが不足です。空気に合わせるのは得意で、背くのは不得意。

関係のない物を置いて、関係がないアホらしさを楽しむのが苦手です。そしてどうするかといえば、真面目に具象的に読み取るわけです。形状の美しさを僕らに訴えているのだなと、古典的に解釈して。便器の出品も日本ではその受け取り方ですね。まさかギャグとは思わず。

コンセプチュアルアートは美の追究ではありません。意味のない百円玉を手渡すのと同じで、人の心理の混乱を遊ぶ目的です。無意味さで裂け目を生じさせる意図です。美術は自由だという思想と、高尚だという認識を、うまく逆手に取ったレジャーへ拡張されています。便器の彫刻的な美しさを語り出す生真面目な説明に、くれぐれもご注意を。
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楽しいポップアートは難解さの原点
2016-12-02 Fri 13:51
芸術の定義をめぐる内戦が、美術を無駄に難解にしてきた日本の事情。しかし現代美術の謎の数々は、そんな事情以外にたくさん存在します。芸術の内情は実に色々とあって、実におもしろいのです。

日本に限らず世界的に、ポップアートはたいへんに誤解されている形式です。マリリン・モンローの顔とか、マンガを拡大した絵とか、スープやビールの缶、落ち葉もそうです。しかし実は、これらのポップアートを理解した人は世界的にも少ないのです。内戦の日本だけでなく。

全く話を変えましょう。ある大学生Aからこういう報告がありました。学内でクラスメートBがクラスメートCを、いきなり呼び止めたというのです。BはCの手を取って、てのひらに百円玉を押し付け、指を曲げて握らせました。そして、Bはツカツカと歩き去ったのです。

残されたCは百円玉を手にして、Bにお金を貸した過去を思い出そうしたり、今自分が落とした硬貨かなと足元を見回しました。身に覚えのない百円だけど、何かがきっとあったはずだと。Cはそれからというもの首をかしげながら、寝ている以外はずっと考え続けたというのです。

翌日CはBに会いました。そして、昨日僕に渡した百円は何だったのかをたずねました。Bはこう答えました。「なっ、気になるだろ?」。単に百円玉を握らせた、脈絡のない行動だったのです。前後の何の出来事とも関係なく、何の意味もなかったわけです。

百円玉をクラスメートの手に握らせずに、国立美術館のガラスケースに常設展示したらどうなるか。来館者はBと同様に「何かがきっとあったはずだ」と考え込みます。ありふれた品物ほど、よけいに深読みして。これがポップアートのコンセプトです。ポピュラーとは大衆にもわかる意味ではありません。大衆扇動の意味です。色々あるのです。

ポップアートの秘密
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