芸術の国内分裂は、イデオロギーの対立とは違う件
2016-11-30 Wed 03:06
難解問題と盗作問題は、実は関係があるという前回の続きです。「難しい、わからない、ちょっと」の広まりは、芸術性の物差しでもめている影響もあるという耳寄りな話でした。ある国民の行動が総じて混濁している時は、特殊な慣習と本質論との板ばさみがあるものです。

「そんな分裂なんてないの!」とか「今はそんな時代じゃない」「イデオロギーの話はやめよう」などといくら言ったって、分裂は堅固です。どの色を白と呼ぶかの根幹は、イデオロギーとは違うでしょう。正反対を唱える両親に育てられた子どものような、自我がまとまらず不安定な鑑賞者が増えてしまう理屈です。

180度ずれた不穏な空気は折々に表面化し、美術界全体のイメージが悪いのです。音楽と違い、好かない美術へのヘイトスピーチが多いことにもお気づきでしょう。同業の不仲が何となくただよい、だから作品もみんなウソくさくて、市場も育ちにくい面があるでしょう。

2016年の今も、変わった絵をかく日本人は、欧米へ移り住むケースが多いのです。同じことを、欧米人はやりません。自由で創造的な環境を求めて、日本へ引っ越してくる欧米の画家はいませんよね。日本へのアート留学も少ない。こういうところは、正直な方がよさそうです。

日本の現代美術家が内部分裂に苦悩して作っているのは、鑑賞の耳寄りヒントになるでしょう。展示会場には苦悩が並んでいます。亡命しようか迷っていたりして。現代アートフェスティバルが、日本で二軍扱いになる理由も・・・、このへんでやめましょう。

盗作は世界中にありますが、日本に特徴的なのは盗作を肯定する意見が意外に多い点です。盗作批判者への逆バッシングも激しく、東京五輪ニュース関連では国民を驚かせました。こうした分裂の中で、どちらの立場の作品かを見分ける視点も、鑑賞のツボになるのです。
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盗作絵画の受賞騒動が、内部分裂でも説明できてしまう件
2016-11-28 Mon 20:33
日本の絵画コンテスト展で、盗作事件が時々あります。大賞や金賞などの取り消し騒ぎ以外にも、盗作は頻発しているとも言われます。これは同じ日本で、「芸術は難しい」と言う声が多いことと関係があります。「何だって?」「どうつながるの?」と思われることでしょう。

一般論からすれば、許可なしのパクリは刑事犯罪だし、賞を盗もうとしたあつかましい悪いやっちゃと、モラルを疑う声も出てくるでしょう。盗作者の方も、元ネタ作品の撮影写真や画集を持っていても、見たことがありませんとかオマージュですと答えたりして。

そうした事後のゴタゴタはともかく、本人には悪気や罪悪感はさしてないものです。ここが大事で、悪の道に踏み込んだり魔が差した認識は希薄です。絵をかく悪い人間が、そんなに大勢いるわけもないのだし。

これは、前述した「お手本に似ていることを芸術と呼ぶ派」の行動の延長です。盗作画家は、よく聞くあの格言「芸術は模倣から始まる」を忠実に実行しています。現に普段から画集を参考に絵をかくことも多く。その世界では、優れた絵にどこまで近づけるか、そっくりに描ける確かな腕を価値とします。それを上手と呼び、地位も高いのです。

だから盗作が発覚しても、干されたり追放はありません。逆に筆の実力が証明されて、得することさえあるのです。批判や敵視にあうのは、むしろ人と違うことをやるタイプです。独自色や主張が強い画家の方が、わがまま勝手を理由に干されたり追放されるものです。

お手本を模写する力量を「芸術の創造力」と呼ぶ傾向が強いほど、盗作する風潮ができやすいメカニズムです。ちなみに芸術の内戦は20世紀フランス美術界にもあり、芸術家の身とともに創造の機運もアメリカへ流出しました。アート創造の発信源がニューヨークへ移った流れには、パリ画壇の分裂もあったのです。
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芸術がわからないと訴える裏に、日本の内部分裂がある件
2016-11-26 Sat 20:07
このブログには8冊組の本にはない話題が多いのですが、ここでいきなり「芸術の難しさ」のさわりのひとつに触れます。「さわり」は序の口の意味ではなく、ヤマ場の意味ということで。

芸術の難しさといえば、変な作品を見てわけがわからず、どう解釈してどう味わうかで途方に暮れた件が多いでしょう。が、それだけではありません。作品の優劣を測る物差しそのものが、どう目盛られているかが不明瞭な意味もあるのです。絵がどうなっていれば芸術なの?、あるいは失敗なの?と。そしてかんじんなそこが、なぜあいまいなの?と。

実はこれ、日本が抱えている問題だという特殊事情があります。他国では起きていない内部分裂が、日本で今も続いています。日本の若者の作品がくすぶったり、さまよっている実態も、その内部分裂の反映として読むことができるのです。

内部分裂を簡単にいえば、お手本に似ていることを芸術と呼ぶ派と、お手本に似ていないことを芸術と呼ぶ派の対立です。真逆のそれぞれが、我こそが芸術だと名乗っています。これでは国民が、芸術とは何かをわからない方が正常でしょう。もしよどみなく理解できる人がいるなら、単に関心が片寄っている疑いさえあります。

180度反対向きなのに、同じ「高い芸術性」と称賛するのでは、全くたまりません。よりにもよってここを多様性や自由主義と言い出せば、不誠実な悪乗りです。ちなみに諸外国では、お手本に似ない独自作風を芸術と呼ぶ傾向があります。既存物から遠いほど本物の創造だとする原則が欧米流。ルーヴル美術館に並んだ名作もその基準です。

日本にのみ「難しい、わからない、ちょっと」の声があまりにも充満しているのは、国内が内部分裂しているせいもあるでしょう。白も黒もどっちも白と呼ぶせいで、国民はついてこないわけです。
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この絵が好きか嫌いかで斬るのは、果たして芸術的なのか
2016-11-24 Thu 01:01
現代美術のガイド本によく出てくるコツに、好きな作品を見つけて相手にせよというのがあります。作品説明も読めば一点ぐらいは好きになろうから、そうして一歩ずつ進もうというアドバイスです。これは実は、典型的なアンチ芸術主義です。

昔から言われていることですが、芸術は好感が持てない領域に集中しています。「いいね作品」は芸術性が低いのが常で。これは偶然ではなく創造の性質による道理です。芸術作品は突飛や異様だったり、暗い怨念だったり狂気の沙汰で、愛される作品とは異質なものです。

日常生活でも、これと似た分岐点はあります。たとえば国会議員の選挙で美女やイケメン候補者に投票するとか、口に甘い薬だけ飲むとか。好き嫌いで斬る行動は有益な場合と逆の場合もあって、芸術の成り立ちからみるとグレーゾーンです。

つまり、本気で芸術を相手にしたいなら、許し難い作品に着目するのが正解なのです。そしてその行動は人類にとって普通に壁だから、だから芸術は難しいねという一定の結論が存在するわけです。難しいとされるものには、それなりの理由があります。

「芸術なんて簡単ですよ」が真理なら、世界的にこんなにも引っ張ることはできなかったでしょう。現実には一筋縄ではいかないから、多くがこのカテゴリーに挑戦して苦心しているわけです。変てこで感じ悪い絵をかく画家が多いのは、理由があるのです。

ヨーロッパのルネサンスの頃にも、「芸術がわかる人は限られる」というクリエイターたちのため息発言がありました。大昔から、同じすったもんだを延々と続けてきています。芸術を楽しむ意味は、美食にひたることではないのです。
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わかるかわからないかの分岐点が、日本の美術では大問題
2016-11-22 Tue 01:01
「月が真ん丸な夜は暗い月食になるはずなのに、明るい満月なのはなぜか?」の謎を解くカギは、程度の問題でした。「真ん丸」の丸さもピンキリで、精度が高い夜は月食、低い夜は満月になるだけの話です。

この謎が中二の生徒に解けなかったのは、満月は真ん丸だという予備知識が、完ぺきな真円ありきの先入観となったせいです。精度の概念が抜けていた。予備知識がつくる先入観は、普段の暮らしでも失敗の原因になりますが、美術や芸術をわからなくする障壁も先入観が多いのです。

たとえばゴッホがわからない人は、美術とはこういうものだという先入観を前もって固めているものです。巨匠画家ならきっとこういう絵をかいてしかるべきとの予断ができていて、いざゴッホ絵画を見た時にその先入観と合わない実物に混乱するわけです。天才なのだから絵がすごくうまいと思っていたら、すごくへただから。

教育の現場でよく言われるのは、子どもは教えやすいが、大人は教えにくいという法則です。大人は頭が固く柔軟性がないからだと考えがちですが、少し違うのです。脳の機能低下ではなく、持っている知識が独自の物語を構築済みで、排他的になりやすい一面です。

まだ何も学習していない子どもは、独自の物語を持たないから、内部矛盾が起きません。一方、大人が何かを学習する時は、すでに脳内にできている不適切な物語を、先に崩す別途作業が負担になるでしょう。

間違った美術物語にも、類型パターンがあります。たとえばモチーフが判別できれば芸術がわかったとみなす物語は、国内で空気伝染のごとき広まり方です。ゴッホは何とかわかってもピカソは怪しく、ポロックには歯が立たないという、絵にかいたような症状はそれかも。
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わかるわからないを言うと、美術の話題が混乱するのはなぜ?
2016-11-20 Sun 00:32
クラウドアート

バズワード(Buzzword)とは意味が安定しない言葉のことで、相手に通じなかったり誤解をまねく単語です。一例はIT分野で多用される「クラウド」で、元から「群衆」と「雲」など異なる意味があり、クラウドコンピューターなどと言っても話がみえません。

前に美術のバズワードとして「上手」をあげましたが、「わかる」もそのひとつです。展示会場でゴッホの絵を見るとします。その時の「わかる」の意味は、「自分はひまわりだと見破れる」「自分はピンとくる」「自分は秀逸と判定できる」という、少なくとも三種類があります。「モチーフを当てる力」「同感する力」「採点する力」の三つ。

焦点が三つあるだけで、近代以降の人々はずいぶん苦労してきました。本を読んでも話を聞いても、どの意味で言っているかの謎も同時進行するから振り回されます。かといって、そのたびに注釈を入れたら入れたで、学術的になってしまい話の腰が折れるし。

問題は「ひまわりだと見破れる」意味の「わかる」です。そんな表面的な次元の「わかるわからない」は放っておいて、話を先に進めるべきでは?と思われるかも知れません。ところが日本では、ここを軽視できないのです。

「具象画はわかるが、抽象画はわからない」というよくある言い方は、モチーフが何なのかを判別できたかに支配される実態があるからです。「ゴッホはわかるが、ポロックはわからない」の振り分けが、モチーフ当てクイズを解けるか解けないかで決まってしまっている疑いです。

「わかる」のバズワード問題は、日本では具象と抽象の仕切り壁の高さに表れ、美術業界の伸び悩みのタネです。あいまいなのにわかった話で進んでいく美術論の違和感は、ほとんどケアされずに放置されてきました。この話題は、近く一テーマにまとめる予定です。
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スーパームーン、満月、月食がわからない場合
2016-11-18 Fri 15:08
スーパームーン""

11月14日の夜は、月と地球の距離がぐっと近づき、しかも満月でした。スーパームーンと呼ぶ、68年ぶりの大きい満月です。薄曇りの中で撮影しました。満月や名月を見て、思い出すことがあります。

中二時代に、副委員長の女子生徒が授業の直後にたずねてきました。「満月は、太陽、地球、月の順に並び、地球から月を見ると真ん丸になる。ならば暗い皆既月食になるはず。なのに明るい満月なのはなぜか」と。「あたし、どうしても絶対わからない」と言い出します。

理由は、自然現象ゆえ精度がいい加減だから。十五夜の満月とは名ばかりで、完ぺきな真円ではありません。三天体の列は完ぺきな一直線ではなく、わずかに「くの字」に折れています。珍しく一直線になった皆既月食の夜でさえ、厳密には一直線ではなくかすかに折れていて。

同じ皆既月食でも、地球の影が余裕で月を隠せた場合と、かろうじて隠しきれた場合があります。月全体を隠しきる瞬間がないほど一直線からずれた夜は部分月食に格落ちし、もっとずれると単なる満月にとどまるわけです。地球の影が月にかすりもしない、ニアミスの夜が満月です。より完ぺきな満月は、地球の影に入り込んで月食になる。

しかし中二の当時、彼女を理解させる説明はできずじまいでした。先生も教科書もそこまで突っ込んだ話はしないから、彼女はわからないままでした。この時、あることに気づいたのです。何かが全然わからない人は、全くの白紙ではないことに。

彼女の場合、「満月は真ん丸」という基礎知識がじゃましていました。程度の問題が欠落したまま、固い先入観が形成されていて。全然何も知らないより半分知っている方が、理解が遠のく例です。わからないと言う人がわかる人に変わるには、障壁になっている先入観を見つけることが必要なのでしょう。本書でも応用しました。
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111 鏡はなぜ左右だけが逆に映るのか
2016-11-15 Tue 00:38
鏡はなぜ左右逆に映るのかは、それだけで本が何冊も書かれてきたほどです。上下は逆にならないのに、左右だけが逆になる不思議です。鏡の謎は他にも、向かい合わせの鏡に映った像はどこまで続くかや、映った物を写真に写す時のピント位置など、いくつかあります。

しかし本を読んだ後も、鏡の左右逆転の謎は再発しやすいのです。ネットにも謎解きは出ていますが、なるほどと思わせるわかりやすい誤解釈で納得し合っているケースもみられ、かといって正解の説明は意外にわかりにくいのも特徴です。

ここでは、鏡が左右逆に映る謎の核心をさっさと説明し、そのあっけなさと同時に底知れない奥深さを示します。わかったはずなのに、理解がふと逃げていくという。そして、抽象美術がわからない人の脳のはたらきが、鏡の反転の謎がわからない時と似て、あっけなさと底知れなさのはざまで堂々巡りしやすいことを指摘します。

他人には何でもないことが、自分にはどうしてもわからない。もう一生絶対に理解できないと思い込んで投げてしまう発端が、実にあっけなくも奥深いという、不思議な二面性を持っている暗示です。芸術がわかるわからない以前の第一ハードルとなっている、抽象的な時点で自分はもう絶対だめという心理の謎に切り込みます。

第8集に収録
抽象絵画
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104 美術鑑賞の予行練習
2016-11-14 Mon 00:53
最近テレビであったというハプニングです。交差点の種類は、四つ角を十字路と呼び、その四道路のひとつがない三つ角を丁字路と呼びます。「じゅうじろ」と「ていじろ」。道路交通法にも、そう明記してあります。ハプニングは、番組取材中に道をたずねて起きました。

地元のおじさんが「ていじろ」と何度も言うと、タレントが皆で笑ったのです。リポビタン・デーでも連想したのか、「ティージロ」の田舎なまりが「テイジロ」だと思ったらしく。漢字のていを英語のティーだと間違って想像した「T字路」なる俗語の方が、正しい日本語だとタレント全員が思っていて起きた失笑だそうです。

この件に反応したネットにも、同様の勘違い単語が報告されました。やはり、誤解の人が正解の人を笑うケース。キャンプでご飯を炊くあれを「はんごうすいさん」と正しく言う人が、「アホか、はんごうすいはんだよ」と他人に言われた体験の数々です。「飯盒炊爨」を「飯盒炊飯」と覚えている人が多いらしくて。

単語の発音を聞き違えて、当て字で覚える現象の多発は、美術鑑賞にも関係します。瞬時の脳のはたらきで創造作品の排除が起きるメカニズムを、思想衝突でなく生理現象で説明するおもしろ話題です。「ココナツの島」「ひなたごっこ」など著者に起きた勘違いを多数並べ、丁シャツや丁定規はなくとも、江戸裁判所や重いコンダーラは出ます。

第7集に収録
抽象絵画
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81 現代美術展はなぜつまらないのか
2016-11-13 Sun 00:30
せっかく来たのに、現代美術展がつまらないと感じる。それは鑑賞者の不勉強が原因ではなく、現代美術の作られ方にある種の集団的偏向がある場合が多いという問題です。偏向が全般的だとすれば、見て納得の人と落胆の人に分かれたままなのもおかしくない理屈です。

現代美術は同人化されぎみで、鑑賞者の入口は最初から小さいのです。そして、現代美術を理解する本やガイドがたくさん出され、どれも個別の入口へ鑑賞者を引率しています。現代美術の独特のハードルの高さは気のせいではなく、制作の私的関心の片寄りに由来します。太古の遺物や古典名作とは、また異なる障壁があります。

それは要するに、作り手と鑑賞者で欲しいものが食い違っているからであり、人々が求めるものが現代美術に抜けている問題です。現代美術家がやりたくてウズウズしている部分が、鑑賞側にはさしたる価値を持たないという、すれ違いがあるわけです。ただしこの件は新旧アートの世代対立に話がそれがちで、適切にかみ分けた論は珍しいのでしょう。

本書では、現代美術家がやりたいことを多様に記していますが、鑑賞者が求める「多様化しない共通部分」「普遍的な核心部」も書いています。現代人が現代美術に足りないと感じるものを、突き止めておく必要もあるからです。きれいさが足りないとかじゃなくて。「時代遅れの人にはつまらない」と、簡単に片づけるのをやめる方向で。

第6集に収録
抽象絵画
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71 夢路いとし・喜味こいしの漫才と芸術
2016-11-12 Sat 00:22
おもしろい漫才とつまらない漫才に、かなりの開きがあると感じている人は多いことでしょう。笑えないし、おかしくもない漫才もあると。ここでは、あたり漫才よりもはずれ漫才が圧倒的に多いと感じている視点に立って、漫才芸術論を語っています。

漫才のおもしろさには、美術作品の感興と似た点があります。おもしろいギャグが含まれている意味ではなくて。しかしおもしろくなりかかった瞬間に、演じる側がつぶしている失敗も多いのです。そこで、画家がおもしろさをつぶしている絵画にありがちな失敗と照合しました。

漫才の命は、勢いやテンポよりも言葉です。会話のロジックが到達度を決めます。言い方や顔の表情よりも文脈がおもしろいのです。ファンだけが笑う漫才と、全然知らない他人も笑う漫才の差は、意外にも文学的な部分にあります。演者は漫才なんて芸術じゃないと言いますが、実際には裂け目をつくり出す芸術クリエイトの典型です。

しかし多くの漫才は大事な場面で配慮が足りず、芸術的なおもしろさを殺して自滅しているのが現実。一般に、芸術には高尚なイメージがあります。だから指南役は「芸術は高尚ではない」と言うのですが、言ったそばから高尚な話がまた始まります。高尚でないなら、フェルメールより先に大衆演芸の芸術性にさっさと言及して欲しいところ。

第5集に収録
抽象絵画
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54 超能力を楽しみ、美術を楽しむ
2016-11-11 Fri 00:02
スプーン曲げは、1970年代には科学を超越した念力とされました。本物の超能力はあると思うと多くが言い出し、90年代の新興宗教家の空中浮遊術へと続きます。しかし今日では、超能力は芸術と同じエンターテインメントのカテゴリーに変化しました。科学で扱うこともめっきり減って・・・

ネット時代に、超能力を信じる声はさらに減りました。人間が持つ隠れた超能力に果てしなき可能性のロマンを感じていたら、こうやりますと手品師本人が映像でタネ明かしを始めたからです。手品用品販売とアクセス広告収入目当てに、動画サイトでマジックのネタばらしラッシュ。

このテーマでは、人が超能力を信じる、信じたくなる心理を解析して、美術品を見る際に起きる共通した心理を推測しています。神の力を持つ人間の存在を信じるのと似た、しかしそれとは別の思考パターンが、美術との交流を阻害する要因になるというのです。

他人の行動が自分の理解できる範囲を超えた時に、人はどう不安心理をなだめ、乱れた気持ちを合理化し整理するかというシビアな話題です。「曲がれ」と言わずとも曲がってしまう作品解釈、ゆらめく心の闇の部分にまで、読者に迎合せずに切り込んでいます。

第4集に収録
抽象絵画
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43 生きた線、死んだ線
2016-11-10 Thu 00:51
現代抽象画と近代具象画は、まるで水と油の関係です。が、実は共通した悩みでつながっています。具象画について今昔をくらべるだけでも、昔の方が生きた線の出現が多いのです。日本の近代洋画の古典的な有名どころは、意外に生きた線を引きまくっていた事実があります。具象か抽象か以外に、線の生死でも絵は二分できます。

絵画で、ある形式が長期間作られ続けて、当初は線が生きていたのに、全般にだんだんと線が死んでいき、ついには死んだ線ばかりで描かれる現象が世界中にみられます。陶芸でもそうです。あげくに、線の生死を見分ける人もいなくなって、どっちでもよくなってしまうパターン。

その過程で、生きた線の豊穣感や生モノ感が目にさわり、嫌う逆転現象が起きます。硬くて無表情な線に感覚が合う変化です。音楽でいえば、デジタルシンセサイザーやシークエンサーの打ち込み系になじめ、なまなましい生楽器をうっとおしく感じるような。食品なら濃厚さが気になって、特徴が薄まった加工食品が食べやすい、あんな感じかも。

生きた線がめっきり減って、線の死んだ絵が主流になる現代。これは、作者が難易度その他によって失敗しているだけではなく、鑑賞する側も軽薄短小へ嗜好がスライドしていくせいではないのか。カニより、カニふうカマボコが主流になる変化。背後に人類史の大きい流れがあるとして、文明問題を含めています。

第3集に収録
抽象絵画
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18 現代美術の目的は何か
2016-11-09 Wed 00:46
人は何をどうしたくて、アートなるものを作るのか。そして、現代美術は何のために存在するのか。もちろん時代によって場面によって、変わっていることは見当がつきます。

時がどんどん流れて、美術はどう変わってきたか、美術が折々に何かを得たり失った流れをたどれば、現代美術の見方も焦点を合わせやすいかも知れません。もっとも、絵が18世紀前半と後半で違うような細かい話は不要で、ざっくり大づかみにとらえることが大事でしょう。

人類の芸術の原点は太古にあって、凝縮された古典が残されています。新しいダ・ヴィンチやクールベを原点にしても、芸術の本筋は見通しがききにくい。ところが、現代人は太古の芸術にだんだん心通わなくなっています。太古のガチな造形が、現代の許容からはみ出し手に負えない状態です。アート感覚のモヤシっ子現象というような。

ここでは、美術の芸術性の表れ方をひとつあげています。作品の何がどうなっていれば芸術を感じるか。歴史名作を選ぶ人間の意思が、作品のどこに注目してきたのか。そのひとつは表現の多重現象であり、先に示した裂け目へと話がつながっていきます。

第2集に収録
抽象絵画
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15 美術のメセナはゴッホを拾えるか
2016-11-08 Tue 00:32
メセナとは、民間の芸術支援です。官が加わるとまた別らしくて。日本に美術メセナがあるのは、優れたアートを発掘する好ましい体制と思われることでしょう。しかしよく考えてみれば、公募コンテストでは優れたアートを発掘できないのか?と突っ込みが可能です。

応募作から選抜する公募展は、本来はメセナにもなっている理屈です。新しい若い胎動、あるいは長年見過ごされた隠れ創造を、情実や縁故を排して、白昼堂々と支援するのにうってつけです。しかも日本は欧米と違いコンクール主導で動いているのだし、レッテル張りだけでも効果が大きい分野なのだから、支援コストも少なくて済むし。

メセナを別に設けるのは、公募コンテスト展では芸術創造は選ばれないと言わんばかりです。メセナが当て馬のごとく導入されて、公募コンテスト展の面目がつぶれています。才能探しにさして役立っていないと、暴露したかっこうのような。ああ困った。国民の関心の外だから、ひとまず炎上をまぬかれている状態。

裏返せば、日本のメセナは公募展の延長だとか、得られる効用も公募展相当かもという疑いになるのです。ここではそうしたロジックとは別の視点で、芸術創造がメセナではどの道もれてしまうメカニズムを追っています。芸術に翻弄される人類の運命を、冷静に理解する話題です。

第1集に収録
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絵に額縁をつけない展覧会はまずいのか
2016-11-07 Mon 00:58
日本の公募展は、絵画に略式の額縁をつける条件が普通です。ないとキャンバス側面に布が見え、絵具付着や釘も錆びていたりで体裁も悪いからでしょう。大学でやる絵画展でも、学生は額縁の調達に悩みます。

学生とて高価な額やアルミフレーム類を自腹や部費で買い、側面を隠して本格的な絵に見せようとします。廉価なアルミの仮ワクも、キャンバス一式より値段が高いので負担でした。木材を買ってノコギリで切り、キャンバスの四周に釘で打ちつけた経費節減もよくあって。

その学生がヨーロッパの展示に参加すれば、さらに見栄えのよい額縁が必要かといえば逆で、むき出しの絵でよかったりもします。理由は、それぞれの展示会の目的どおりです。日本では見世物だから体裁重視で、ヨーロッパでは売り物だから内容重視です。

日本では、額縁がないと売りにくいという声も耳にしますが、これは自力調達が困難なせいもあるでしょう。美術作品の売買が盛んでない日本では、バラ買いが流行るわけもなく、全てがそろったオールインワンのキットが好まれます。

ヨーロッパでは売買が盛んなので、立派そうに見せる額縁効果は日本ほど効き目がありません。市民は、脳内で自分流の額縁をつけます。好みの額縁を選ぶ楽しみや特注する楽しみもあり、額縁店もたくさんあって値段も手ごろです。盛んな国は全てが違います。

こちらでも実際にやっていて、ヨーロッパの会場で作品を額縁に入れても、売れ行きは同じでした。会場風景写真がサマになるメリットはあっても、販売促進の効果はみられません。同時にビニール袋入り作品も用意してテーブルに重ね置きしておくと、さっさと掘り出されて次々買われてしまいました。
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建築パースに現代美術を感じないのはなぜか
2016-11-06 Sun 00:55
建築パースがちゃんとしたまともな絵で、かなりのハイテクニックであっても、芸術とは感じない話の続きです。建築パースは現代美術にも認識されず、現代アート展に投入されることもなさそうです。

現代アートは「何でもあり」の「自由奔放」がふれ込みです。開かれていて、範囲が無限大のリベラルなイメージ。展示室に砂利を敷き詰め、ゴミを積み上げるのもよくて、便器を置いたりバケツ200個もあり。1000個なら大作。現代アートは、好き勝手やり放題に思えます。

それなら最新の建築パースも、現代アートの列に並んでいいはずです。「パース200個は世界初」とうたいながら。でもそんな事例はなかったような。現代アートは何でもありだとは、実はウソかも知れません。

現代アートにも指向性があり、作風仕様が絞られているといえます。人類は、万物の全てをアートとして許してはいなかった。現代アートらしい範囲がちゃんとあって、自由の宝庫でないどころか、型さえ定着しているのです。既成の概念の超え方に、既成の概念があったり。

たとえば、カーデザインも自由ではありません。道路運送車両法の制約ではなくて、時代の顔が厳然とあります。ライトをキツネ目に作れば、今日ふうに見えるとか。丸いライトが4個あると、ものすごい違和感。現代美術もこれに似て、今日的に見える表現がちゃんとあって、逆らうと落選や売れない憂き目にあうことでしょう。

そうすると現代美術を見る時に、自由奔放を根本から疑った視点に立つ方法もあり得ます。現代っぽさから浮いた作品ウォッチャー。現代美術をわかろう、なじんで好きになろうとしないで、これは許せない、バカも休み休み言え的作品を探して笑う新レジャーです。ちなみに、19世紀のゴッホはその対象でした。
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建築パースに芸術を感じないのはなぜか
2016-11-05 Sat 00:27
建築パースとは、透視図法(パースペクティブ)で描いた、建物の完成予想図のことです。建設前の家やビルが描かれ、外観パースやインテリアパースがあります。設計者が建物発注者に見せて打ち合わせに使う、美しく整った風景画です。

正確な形状と理想的な画面配分。巧みなデッサンと高いセンス、手慣れたタッチと繊細な色使いで、味わい深い絵も多くあります。行き届いて良心的。でも最も優れたパースでさえ、芸術作品としては認識されません。いかに優れたパースも、多くの目に芸術には映らないのです。

建築パースはデザイン成果物だから美術と機能が違う、というだけではないでしょう。上手に描けた絵、ちゃんとしたまともなフォーマルな絵は芸術から遠いという、ばくぜんとした人類の感受性があるという、そちらの方がトピックです。

建築パースはリアルタイムに目を引いても、芸術的な打撃は誰も受けません。こりゃ芸術ではないと、人は直観的に絵を選別しています。芸術に詳しくない人でも、学習で得た見識とは違うところで、本能的とでもいうような初期設定のセンスを持っているようです。

ちゃんとしたまともな絵には芸術を感じにくい、これは大事なポイントです。ちゃんとしていない、まともでない絵に人は打撃を受け、最初はしかも悪い方に受け取ります。初見で好感をいだく建築パースとは逆方向に、快に否定的な方へと芸術の世界は広がっています。

芸術なんて難しいと思っている人は、芸術を大層なものだと大仰に想定しすぎているかも知れません。実はそういう人でさえ、日頃から芸術的判断をやっているのに、自分には高尚すぎると思って無駄に見上げてしまっていることも考えられます。
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芸術の奇才や異才を求めないのは、本当に嫉妬心なのか
2016-11-04 Fri 00:33
日本の各分野で、奇才や異才を求める空気は希薄と言われてきました。創造的才覚に冷淡で、足の引き合いばかりしているという怒りの意見がネットでもよくあがります。他人の才能を活用せず消し去る国民性などと、内部告発的な声がとても多いのです。

その声が一気に噴出したのが、STAP細胞の余波部分でした。研究所内で部下の才に嫉妬した上司たちが論文を辞退した「ストップザ天才」説が、一時は国内ネットで強く支持されました。今も著名人のブログに残ります。中高年による若者つぶしの陰謀説に、日本全国から「納得」「騒ぎの全体が理解できた」の反応がどっと集まったのです。

各国の科学者が当該論文を精査し、不審カ所が多すぎて驚かれている件は専門職にまかせるとして。そんな才能嫉妬説も一般化すると、意外な落とし穴があります。奇才や異才がわからなければ、スルーして当然だからです。才を判別できない人は、才に加勢しないのが普通です。

その証拠は美術にはあります。一般人があげる優れたコンテンポラリーアートは、名前を見聞きした頻度のとおりです。耳にできたタコが大きい名前を、大芸術家と認識します。これは単純にアナウンス効果にすぎず、苦手なジャンルゆえ自主判断できない現象でしょう。マイナーなマイフェイバリット美術家を、誰も口にしないのも同じことでしょう。

光ファイバーは日本人の考案なのに、日本で引きはなく結局アメリカに買われました。それは日本人が日本人の発明に悪感情を持ったのではなく、光通信の実現性や効力がわからなかったからでしょう。

自力で価値の違いがわかることは、思ったより大事です。それこそが貴重な才覚でしょう。だからここでも、美術品の良さを覚える勉強を全くすすめません。それよりも、ある作品と似た作品があって、その違いをわからなくする障害物はこれだと、示す方が早いと考えています。
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日本人形の髪が伸び、夜に涙を流す怪談シリーズ
2016-11-03 Thu 00:54
関西の外資系テーマパークで、日本人形がお化け屋敷のホラー小物に使われ、苦情が出た不思議な事件です。家庭で不要になった日本人形を供養するために、奉納を受ける神社があるそうな。その神社が、テーマパークに日本人形を大量に貸したのが発端とされます。

この事件で初めて知ったのは、テレビスペシャル特集番組で日本人形が怪談に使われるたびに、人形を製造する業界人たちが業を煮やしていた事実です。前は聞いたことがなかった話。

1970年代から、日本人形の髪が伸びたり、涙を流した証言を再現する怪談番組が高い視聴率を誇りました。その陰で人形が嫌悪の対象になって、売れゆき不振になっていたそうです。テレビによる風評被害。たとえるなら、テレビで「わけわからん」「難しい」と言われるたびに、落ちていく現代美術みたいに。

70年代は、手品師ユリ・ゲラーを超能力者へ格上げしたテレビ局が、国民から信頼された時代でした。当時は心霊現象の謎解きはKYどころかタブーで、立ちはだかってじゃまする科学者をかわして真実を伝えるテレビの力強さに、国民が拍手喝采した時代。漫画『うしろの百太郎』『恐怖新聞』の時代。映画は『エクソシスト』や『ヘルハウス』。

古い日本人形の髪をクシでとかすと、中折りされた人毛やナイロン線がずれて、長短ふぞろいにばらつきます。郷土玩具にも同じ仕様があります。そんな構造だとは所有して初めて知るから、そこを突いた都市伝説でした。無駄に首をかしげる迷信は、真相を知らない人が支えるという一例といえるでしょう。

現代美術もまた、「難しい、わからない、ちょっと」を卒業する早道は作品実物の所有で、現に欧米はそうなっています。日本のように、わからんわからんと無駄に首をかしげません。日本人形も現代美術も、遠くから見るだけの人が迷信の中にこもってしまう傾向はあるでしょう。
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