ゴッホはゴッホを本当に認めていたのだろうかという問題
2017-09-29 Fri 01:11
日本語の乱れでよくあがる語。悪いと知りつつわざとやる犯行を、過失と区別して確信犯と呼ぶあれ。正しくは故意犯であり、政治家の領収書詐欺は確信犯ではなく故意犯です。確信犯とは信仰などに基づく一途な犯行を指し、養護施設のナイフ襲撃が確信犯でした。正義だと本人が信じているのが特徴で、概して黙秘しない。ドリルで証拠を消さない。

19世紀にゴッホが全く認められなかったのは、人々の過失や故意ではなく確信によるものでした。ゴッホ否定は正義だった。絵とはこういうものだとする信仰から、かけ離れた絵だったから。今も現代アートはこういうものだとする信仰はあるから、終わった話ではなくて。

ゴッホの死後、周囲の親しかった人たちも遺品の絵を欲しがらず、ゴミ扱いしました。当時、確信に満ちた視野が広かった画商ヴォラールは、何と19世紀中にゴッホ展を開催しました。先見の明。が、人々や業界から相手にされず。

ゴッホ事件で注目すべき点は、ゴッホが自分の絵を認めていた点です。そんなの作者だから当たり前だと思われるでしょうが、けっこう危なかったと著者は推測しています。根拠は、現代アートを作る者にしばしば起きる自分カットの実態と似ている、ゴッホの行動。

昨今の画家とて制作中にゴッホ並みに、未だ見ぬ領域に届く瞬間はあります。つまり筆が滑ったり勢い余って、特別なテンションの絵ができるわけです。心境のはずみなど偶発が重なって。故意でも確信でもなく、過失で芸術に届く。「これだ、これこそまれな創造だ」と、誰かが気づく絵ができてしまう。

しかしかいた本人が、奇抜な異次元の迫力に違和感を覚え、削り取って凡画へかき直す対処が起きやすいのです。別に凡が目的ではなく、当人としては感じよく整えているだけ。著者は結論しました。「芸術の芽をつむ犯人は作者だ」と。実はゴッホにも、自分のある突出を削った例が実際にあったと、本書でも触れています。
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自由であることがマイナスにも作用するアートの不思議
2017-09-23 Sat 00:43
一般に芸術性とは、具象画ではデッサンの腕前とされます。抽象画では自由な造形。まるで逆です。インスターレーションは既成の概念超え、ボックス系なら事件性。表現物ごとに芸術の意味はバラバラで、これは多様化なのか芸術を見失った状態なのか。

現代アートのウリのひとつに、自由があります。芸術の本質は自由奔放だとするもの。しかし著者は芸術の本質は自由ではなく、表現の裂け目だと考えました。表現の裂け目なら具象でも抽象でも当てはまるから、具象画の不自由さをみて芸術の意味を変えたりは不要です。

現代アートの自由至上主義は、害も生みました。多い指摘はアートの使い捨てです。一発話題づくりしたら捨てて、はい次、はい次と回していくアイデア競争。自転車操業は人々に虚無感も起こすでしょう。7億円のトラクター展示から受ける感銘は、思ったより小さいし。

軽く使う言葉「自由」は、それ自体が解釈の自由でふらつきます。アートは自由なのだと言う時、作者の振る舞いの自由度なのか、作品を見た人が自由な気分になる話なのか。二つを分けずに、「自由万歳」で終わっているような。

美術で言う自由は、たぶん現代人の間で共有できていません。社会学で言うフリーとリベラル、フリーダムとリバティーの意味違いよりも、もっと混沌としていて。共通認識が失われている言葉のひとつです。

哲学的な話はやめて、そもそも太古のアート類が自由奔放でない点は重要です。むしろ逆に、厳格な秩序(オーダー)に従った物作りが多い。できることが限られた不自由な時代の方が、表現が伸びやかになる結果がみられます。とはいえ制作条件の自由度と、成果がもたらせる自由感が反比例するかも、簡単にはいえないのですが。
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実物を直接見ないと作品の芸術性は伝わらないのか
2017-08-21 Mon 01:00
画集などで絵画を見て、後で実物の絵を見ると印象がかなり違います。差分が芸術性だと思いがちですが、そうではないと著者は考えます。印刷物にしたからといって芸術性は消えたりしない、という考え。写真や印刷で伝わる範囲内に芸術性は宿る、という仮説です。写真もまた芸術の一種だからという、そんな理由ではなくて。

今の人が西洋の名画を見て驚くのは、デカさです。横長どころか縦にも高く、圧倒されます。たとえばレンブラントの『夜景』は面積が100号の7.5倍。周囲が切断される前は9.3倍になる計算。実物の第一印象はデカァ。切断後でもフランス号数で753号相当。一方、人気の印象派の絵は思ったより小さく、少々がっかりという声も。

サイズへの感慨は、芸術的な感動ではないとすぐに理解できます。にもかかわらず大きさで感動の量が左右されるのは、見逃せない事実です。感動の内訳に、芸術性と異なる成分が常に含まれていることが類推できます。芸術以外に感動する現実。

著者の着眼は、小さく印刷してなお一目見てピンとくる説得力が、芸術性だという考え方です。芸術性は、画質の悪い画集でも消えずに残る点がミソ。細かい話ではないという。

つまり印刷物にすれば、芸術性を抽出できます。大きさの衝撃が感動に混じり込むのを、フィルターや遠心分離機みたいに除去できる。芸術性の高い低いは、図版にするとばれる。撮影して見栄えが落ちた絵ほど、芸術性が乏しい事実が発覚した状態といえます。

「でも実物を見れば感動しますよ、全然違いますよ」という声は根強いはず。これは芸術性と違う何かに心を動かされることが、もう当たり前になっているせいでしょう。自覚もなくなって。実物礼賛で多いのは、間近で見たマチエール(絵具のテクスチャー)の感動です。しかし人の魅力と同じで、素肌美人を競うのは本質でないはず。
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ピカソの絵のここがこうすごいと言葉で説明するとどうなるか
2017-07-16 Sun 00:40
「子どもの絵に見えるピカソの絵の、どこがどうすごいかを僕に教えてください」という問いに、きちんと答えて説明したとします。でも質問者自身は、特に変化しない可能性も高いのです。

たとえば、このブログには、本書にはないフレーズがいくつも出てきます。そのひとつが「芸術は裂け目である」です。そこで「子どもの絵にない裂け目が、ピカソの絵にはある」と説明し、児戯と区別する根拠にあげたとしましょう。

ところが、裂け目の存在は国会で決めた法律や、裁判所の判決ではないし、授業で習う哲人の名言でもありません。世界で一人だけが言っています。他に言う人はいません。各人が支持するかだけの話。子どもがピカソの『泣く女』みたいに描けるかは、国民が感じ取る部分です。実際にそう感じる、という体験がないと進みません。

詩的といえるセンシティヴな部分で、現代人がいかに感受し得るかは、やはりばらつくでしょう。価値の多様化以上に、文明の進歩で文化面が後退する流れもある前提で。子どもとピカソの差を感じられない人の輪は、年々大きくなるでしょう。

大きい刺激が許容に収まりきらない変化とは別に、小さい刺激を感じない変化です。たとえばコピー食品をめぐって、本物と偽物を食べて区別できない悲しい事態が話題になります。「何だってかまわないよ」という一見リベラルな太っ腹の裏に、感覚の鈍化が隠れていることも。

芸術は裂け目だ、裂け目だと大勢で言い続けたら、ピンとくる人も増えるかも知れません。しかし日本で芸術の本質は、「デッサンの確かさ」「手の器用さ」「人徳」が通念です。三つともない太古の作品は今の人は苦手。理屈と体感の壁を、どう越えるかという課題があります。
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児戯のごときピカソ絵画を僕は理解できないと訴える質問
2017-07-01 Sat 00:07
過去にネットでみた質問です。「まるで子どもの絵みたいなピカソは、何がすごいのか僕に教えてください」。この質問に親切な有志が次々と回答を寄せますが、質問者は納得しません。「それは話がずれている」「それは知りたい核心とは違う」と。

そのネット質問は、本書の切り口と似ていました。しかもその頃こちらは、「ピカソはここがこう違うから世界一だ」の章を書いていました。だからその直球勝負の質問に、親近感を持ちました。そういえば、本書は美術の評論とはかなり違い、「なぜ」の質問に答えた本です。

そのネット質問に寄せられたいくつもの回答は、現代美術がわかる美術本によくあることで、すれ違いを始めていました。ピカソの少年時代のデッサン力、『青の時代』の抒情性と繊細、『アヴィニョンの娘たち』で抽象の先駆け、『キュービズム』の多次元的な構成力。『ゲルニカ』での祖国を思う反戦と反ナチスの気概。

そうしたピカソの美学的価値や存在意義、業界に与えた多大な影響や、注目点などが回答に並んでいました。それに対して質問者は、「自分が知りたいのは書類上の裏づけ根拠ではなく、先人がピカソ絵画をどうすごいと感じて支持したのかだ」と。でも、答える人は現れません。

本書はその答も書いていました。だから宣伝文句に「世界唯一」を入れたほど。ではなぜそこを述べる人が現れないかは、現代人の美術への接し方どおりです。体感より周辺情報で測り、知識レベルで巨匠の価値に合点する。現代人の鑑賞法がそうだからです。だから瞬間風速がピカソを超えた作品も、無名とあらば相手にしない。できない。

人は自分の体感があって、核心を語るものです。ところで・・・、そもそも「子どもの絵のごとき」という疑問の発端もまた、知識レベルの分析です。やはり体感とは違う理屈上の比較。双方とも「僕はしびれた」「複製画を買いに走った」の情熱はなし。
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ダリ展がつまらないという声が集まった昔
2017-06-19 Mon 00:16
シュールレアリスムで知られるサルヴァドール・ダリが生きて、大やけどもなく現役の頃、ダリ回顧展が繰り返されました。知人の学生たちも会場に来ていて、感想を聞きました。「意外につまらないと感じた」という声が集まり、皆さん表情がやや曇りぎみ。

何室も使って大量の作品を並べた大回顧展なのに、拍子抜けした印象を持ったという。原因はむろん回顧展にありがちな大量ゆえの薄まりと、また代表的な傑作が出ていなかった点も。しかしもうひとつが大事で、芸術性が低下しつつあった当人の事情もありました。

ダリのコンセプトは、「超現実主義」と「偏執狂的」。彼は学生時代から他人と協調できる幅が狭くて対立しがちな不良性で学校は退学、芸術運動の親分からも破門されたり、仲間との関係もムラがあったのです。インタビューで、「女性に芸術は不可能」と言ったりも。超現実主義的なヒゲと同様に、話題づくりと思えるトーク。

ダリの1930年代の作品は傑出し、明確な敵がある時に濃い作品ができています。が、定評ができ人気が出ると、セルフパロディー化の傾向が出ました。曲がった時計や燃えるキリンなど、型の反復。悪意を迫真性に持って行くタイプで、愛されると作品がゆるむ人でした。

当時のダリ回顧展に、油絵具によるデザインを感じました。この先どうなるのだろうねと言い合っていたら、やがてあの事件です。本書でも触れている、日本でも警察が動いたスキャンダル。

ダリの絵が教えたのは、アイデアは芸術と関係がない点でした。日本人はとかく「この絵は命が宿っている」などと言いますが、その方が核心に近いでしょう。ただし精神論や信仰的説法にそれやすいから、言い方が難しいのですが。ともあれ、モチーフや意匠操作は具現化の処理法であって、一応は芸術から少し離れた話です。
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特殊化した現代アートを一般化させるために
2017-06-13 Tue 00:47
この本の目的は、日本全体が現代美術に関心を持つことです。目標とする成果は、作品が普段から売れること。「スペシャル」から「カジュアル」へ。欧米がすでにそうなっているように。特殊化から一般化へ。それも全国各地で。

方法は、二とおりあります。ひとつは現代美術の素晴らしさを訴えること。しかしそれは日本では限界で、現代アートは普及の壁に当たっています。1960年代や80年代の方が売れたのだから、前進していません。好景気のたびにニワカ投資が増えただけ。現代アート愛好家向けの活動は、国民の分断を深めただけ。それらを特殊化と言います。

現代アートが関わる街づくりイベントが報道されても、勝利宣言は早計です。そのイベントの主役は街であり、アートではない。アートが主役を張るイベントはアートフェアであり、美術品の流通増大が成功です。動員数の伸びは寄せては返すブームの再来であり、昔もあった特殊化。

日本中の美術画廊やイベントギャラリーで、新旧の美術品が日常的に売れている安定状態まで行かないとだめ。一過性アートバブルではだめ。ワンタイムの複合イベントでは、アートは毎日の糧でなくオマケ。

ネット時代の現代美術ヘイトを解決しようと、本書は再編されました。「巨匠の絵を見ても何も感じない、画商と評論家が価値をねつ造して、国民を洗脳してきたのか?」など、日本人のよくある質問に詳しく答えています。アート界がアートファンだけに優しい顔を向けた結果、むしろ理解し合えない壁が高くなった従来の反省に立って。

しかし答は、人類の芸術力が下がってきた文明の宿命に触れています。「現代アートがわからない人は時代遅れ」と上からな現代アートファンの感覚に対して、現代美術懐疑論を提言して半分は反論しています。
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ゴッホは斬新な画家だったという視点は何が問題なのか
2017-05-14 Sun 00:08
これは絶対正しいぞという発想に、こういう考えがあります。「芸術は斬新である」。「先進的」「時代の先取り」。皆の何歩も先を行くと。これは芸術分野で多い誤解釈のひとつです。

19世紀の人々はゴッホの絵を見て、どう思ったか。「この画家は斬新すぎる。20世紀にも通用するほど先進的で、僕らはついて行けない」と思ったわけではありません。そんな理由で買わなかったのではなく、むしろ逆です。「この画家は遅れている」と思ったのです。

「立派な画家たちに追いつく日は、当分来ないだろう」と周囲の人たちは感じました。先進ではなく後進。この部分で、世のゴッホ論は的を外しています。あるいは言葉表現しきれていません。「ゴッホは時代よりも先行し、当時の人の理解を超えた」は、まずい解釈です。

何がまずいかといえば、当時の人にそういう体験の覚えがない点です。人は、ゴッホを天才とも狂気とも思わなかった。だめ凡人。だから今、天から地を見下ろすようにして「当時の人々の先を行くゴッホ」とまとめたのでは、当時の人々の実感とかけ離れて支障になります。

何が支障かといえば、現代人が今の芸術を拾う時の参考になりません。斬新でぶっ飛んでいたゴッホという結論を引用すれば、今見て斬新でぶっ飛んでいる者が現代版ゴッホだという話になります。破天荒アーティストを、現代のゴッホだと誤認するでしょう。

当時の人はゴッホを逆に古くさいとも感じず、素直につまらないと感じました。理解不能の宇宙人ではなく、ミエミエのへたくそ画家。突飛ではなく、低いと。わかりきった駄作に見えた。その他大勢の一人。対価を払うような絵ではないと。だから払ったのは一人、知人の家族だけ。現代の非凡な中からゴッホを探すのは、いきなり支障です。
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ジャズ音楽の明るい暗いを絵画に当てはめてみる
2017-05-02 Tue 01:35
「ジャズといえば暗い音楽だと思われやすいのですが、このアルバムは暗さが全くない明るいジャズです」。こういう言い方が、ラジオ番組で聞こえてきました。この区切り方は、わかりにくいと感じています。

音楽の明るい曲は、要するに和音が長調です。逆に暗い曲は短調です。コードがメジャーかマイナーか。滝廉太郎でいえば、「春のうららの」と歌う『春』が長調で、「春こうろうの」と歌う『荒城の月』が短調です。しかし前者は明るく後者は暗いという分け方では、ジャズの曲はうまく切り分けられません。

なぜなら、ジャズの特徴は影差す和音だからです。明るくてしかも暗いのがジャズなので、明るいか暗いかで分けるのは無理です。そこで明るい暗いではなく、楽しげか悲しげかで分けます。長調は楽しげ、短調は悲しげと分けた方がうまくいきます。

番組のアルバムもやはり、ところどころ暗くかげる曲調にちゃんとなっていました。カラリと晴れ渡った、こうこうと明るい童謡みたいなジャズは世に存在しません。短調から長調に転調する意味ではなく、和音に含む音階成分です。しかも実はクラシック音楽も、共通する構造です。明暗の一方だけならイージーリスニング。

音楽のこの構造を美術にも当てはめて、芸術表現の妙を説明する一章を用意しました。明るい絵が好きで、暗い絵が嫌いという、実際に一般に多く行われている割り切り方では、芸術の核心にまでは届かないという話題です。日本で流行ったネアカとネクラの区別は簡略すぎて、芸術とは相性が悪いのです。

「ジャズは大人の音楽」の理由は、長調とも短調ともいえない割り切れない和音です。セブンス・コードに始まり、ナインス・オーグメンテッド・イレブンス・コードなど。美術の絵画で明るい暗いで割り切れない例として、意外な隠れ名画をあげています。
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自由と自由感が比例しない表現物はなんでだろー
2017-02-04 Sat 00:13
作者が自由な気持ちで飛翔し、その飛翔作品を見た人は不自由な気持ちになる。この問題を考えてみます。

過去にクラシック系の「現代音楽」や、ジャズ系の「フリージャズ」が流行して、すぐに陥った悩みがありました。簡単に言えば、作るルールを取り払った自由奔放な表現物は、鑑賞者には逆にストレスがたまって肩がこる問題でした。高揚するテンションや刺激は意外に感じられず、何も入ってこなくて眠くなったりして。

たとえばチック・コリアは、フリージャズ演奏が不評すぎたあげくに、ツアーの途中でゆくえ不明となってグループが崩壊したほど。当時のお蔵入りだった曲がCD化された時に買いましたが、締まりのない印象があったような。単調でイマジネーションも広がりにくい。

演奏家の自由が、聴衆の自由感につながらない問題です。そりゃ当然でしょと言いかけたとしても、ちょっとした謎です。作り手が自由を演じているのだから、受け手にその自由な気分が伝わってもよいのに、逆に身が固くなってがまん大会みたい。音楽でフリー何とかと呼ばれるものは、フリー度が高いほど内容が希薄にとどまる傾向です。

この現象は、自由が無秩序に向かいやすいと考えれば、簡単な話です。好きにやるとダレる、スポーツの自主トレみたいに。芸術がある種の混濁から生まれるのは、それはそれで真理でしょう。街の電柱と電線のごちゃごちゃが極端だと、時にはアートに見える実例もそれです。

しかし、無秩序の混沌そのものは芸術ではなかった。混沌状態で完成させたら、出来損ないになります。電線も偶然のまま純粋抽象にとどめては、他者に魅力に映らないはず。混沌自体は芸術でないから、主張になりにくい。そこに秩序を見つけて切り出し、再構築する腕で内容がふくらんでいくことは、悩むまでもない簡単な仕組みです。
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この絵が好きか嫌いかで斬るのは、果たして芸術的なのか
2016-11-24 Thu 01:01
現代美術のガイド本によく出てくるコツに、好きな作品を見つけて相手にせよというのがあります。作品説明も読めば一点ぐらいは好きになろうから、そうして一歩ずつ進もうというアドバイスです。これは実は、典型的なアンチ芸術主義です。

昔から言われていることですが、芸術は好感が持てない領域に集中しています。「いいね作品」は芸術性が低いのが常で。これは偶然ではなく創造の性質による道理です。芸術作品は突飛や異様だったり、暗い怨念だったり狂気の沙汰で、愛される作品とは異質なものです。

日常生活でも、これと似た分岐点はあります。たとえば国会議員の選挙で美女やイケメン候補者に投票するとか、口に甘い薬だけ飲むとか。好き嫌いで斬る行動は有益な場合と逆の場合もあって、芸術の成り立ちからみるとグレーゾーンです。

つまり、本気で芸術を相手にしたいなら、許し難い作品に着目するのが正解なのです。そしてその行動は人類にとって普通に壁だから、だから芸術は難しいねという一定の結論が存在するわけです。難しいとされるものには、それなりの理由があります。

「芸術なんて簡単ですよ」が真理なら、世界的にこんなにも引っ張ることはできなかったでしょう。現実には一筋縄ではいかないから、多くがこのカテゴリーに挑戦して苦心しているわけです。変てこで感じ悪い絵をかく画家が多いのは、理由があるのです。

ヨーロッパのルネサンスの頃にも、「芸術がわかる人は限られる」というクリエイターたちのため息発言がありました。大昔から、同じすったもんだを延々と続けてきています。芸術を楽しむ意味は、美食にひたることではないのです。
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わかるかわからないかの分岐点が、日本の美術では大問題
2016-11-22 Tue 01:01
「月が真ん丸な夜は暗い月食になるはずなのに、明るい満月なのはなぜか?」の謎を解くカギは、程度の問題でした。「真ん丸」の丸さもピンキリで、精度が高い夜は月食、低い夜は満月になるだけの話です。

この謎が中二の生徒に解けなかったのは、満月は真ん丸だという予備知識が、完ぺきな真円ありきの先入観となったせいです。精度の概念が抜けていた。予備知識がつくる先入観は、普段の暮らしでも失敗の原因になりますが、美術や芸術をわからなくする障壁も先入観が多いのです。

たとえばゴッホがわからない人は、美術とはこういうものだという先入観を前もって固めているものです。巨匠画家ならきっとこういう絵をかいてしかるべきとの予断ができていて、いざゴッホ絵画を見た時にその先入観と合わない実物に混乱するわけです。天才なのだから絵がすごくうまいと思っていたら、すごくへただから。

教育の現場でよく言われるのは、子どもは教えやすいが、大人は教えにくいという法則です。大人は頭が固く柔軟性がないからだと考えがちですが、少し違うのです。脳の機能低下ではなく、持っている知識が独自の物語を構築済みで、排他的になりやすい一面です。

まだ何も学習していない子どもは、独自の物語を持たないから、内部矛盾が起きません。一方、大人が何かを学習する時は、すでに脳内にできている不適切な物語を、先に崩す別途作業が負担になるでしょう。

間違った美術物語にも、類型パターンがあります。たとえばモチーフが判別できれば芸術がわかったとみなす物語は、国内で空気伝染のごとき広まり方です。ゴッホは何とかわかってもピカソは怪しく、ポロックには歯が立たないという、絵にかいたような症状はそれかも。
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わかるわからないを言うと、美術の話題が混乱するのはなぜ?
2016-11-20 Sun 00:32
クラウドアート

バズワード(Buzzword)とは意味が安定しない言葉のことで、相手に通じなかったり誤解をまねく単語です。一例はIT分野で多用される「クラウド」で、元から「群衆」と「雲」など異なる意味があり、クラウドコンピューターなどと言っても話がみえません。

前に美術のバズワードとして「上手」をあげましたが、「わかる」もそのひとつです。展示会場でゴッホの絵を見るとします。その時の「わかる」の意味は、「自分はひまわりだと見破れる」「自分はピンとくる」「自分は秀逸と判定できる」という、少なくとも三種類があります。「モチーフを当てる力」「同感する力」「採点する力」の三つ。

焦点が三つあるだけで、近代以降の人々はずいぶん苦労してきました。本を読んでも話を聞いても、どの意味で言っているかの謎も同時進行するから振り回されます。かといって、そのたびに注釈を入れたら入れたで、学術的になってしまい話の腰が折れるし。

問題は「ひまわりだと見破れる」意味の「わかる」です。そんな表面的な次元の「わかるわからない」は放っておいて、話を先に進めるべきでは?と思われるかも知れません。ところが日本では、ここを軽視できないのです。

「具象画はわかるが、抽象画はわからない」というよくある言い方は、モチーフが何なのかを判別できたかに支配される実態があるからです。「ゴッホはわかるが、ポロックはわからない」の振り分けが、モチーフ当てクイズを解けるか解けないかで決まってしまっている疑いです。

「わかる」のバズワード問題は、日本では具象と抽象の仕切り壁の高さに表れ、美術業界の伸び悩みのタネです。あいまいなのにわかった話で進んでいく美術論の違和感は、ほとんどケアされずに放置されてきました。この話題は、近く一テーマにまとめる予定です。
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建築パースに現代美術を感じないのはなぜか
2016-11-06 Sun 00:55
建築パースがちゃんとしたまともな絵で、かなりのハイテクニックであっても、芸術とは感じない話の続きです。建築パースは現代美術にも認識されず、現代アート展に投入されることもなさそうです。

現代アートは「何でもあり」の「自由奔放」がふれ込みです。開かれていて、範囲が無限大のリベラルなイメージ。展示室に砂利を敷き詰め、ゴミを積み上げるのもよくて、便器を置いたりバケツ200個もあり。1000個なら大作。現代アートは、好き勝手やり放題に思えます。

それなら最新の建築パースも、現代アートの列に並んでいいはずです。「パース200個は世界初」とうたいながら。でもそんな事例はなかったような。現代アートは何でもありだとは、実はウソかも知れません。

現代アートにも指向性があり、作風仕様が絞られているといえます。人類は、万物の全てをアートとして許してはいなかった。現代アートらしい範囲がちゃんとあって、自由の宝庫でないどころか、型さえ定着しているのです。既成の概念の超え方に、既成の概念があったり。

たとえば、カーデザインも自由ではありません。道路運送車両法の制約ではなくて、時代の顔が厳然とあります。ライトをキツネ目に作れば、今日ふうに見えるとか。丸いライトが4個あると、ものすごい違和感。現代美術もこれに似て、今日的に見える表現がちゃんとあって、逆らうと落選や売れない憂き目にあうことでしょう。

そうすると現代美術を見る時に、自由奔放を根本から疑った視点に立つ方法もあり得ます。現代っぽさから浮いた作品ウォッチャー。現代美術をわかろう、なじんで好きになろうとしないで、これは許せない、バカも休み休み言え的作品を探して笑う新レジャーです。ちなみに、19世紀のゴッホはその対象でした。
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建築パースに芸術を感じないのはなぜか
2016-11-05 Sat 00:27
建築パースとは、透視図法(パースペクティブ)で描いた、建物の完成予想図のことです。建設前の家やビルが描かれ、外観パースやインテリアパースがあります。設計者が建物発注者に見せて打ち合わせに使う、美しく整った風景画です。

正確な形状と理想的な画面配分。巧みなデッサンと高いセンス、手慣れたタッチと繊細な色使いで、味わい深い絵も多くあります。行き届いて良心的。でも最も優れたパースでさえ、芸術作品としては認識されません。いかに優れたパースも、多くの目に芸術には映らないのです。

建築パースはデザイン成果物だから美術と機能が違う、というだけではないでしょう。上手に描けた絵、ちゃんとしたまともなフォーマルな絵は芸術から遠いという、ばくぜんとした人類の感受性があるという、そちらの方がトピックです。

建築パースはリアルタイムに目を引いても、芸術的な打撃は誰も受けません。こりゃ芸術ではないと、人は直観的に絵を選別しています。芸術に詳しくない人でも、学習で得た見識とは違うところで、本能的とでもいうような初期設定のセンスを持っているようです。

ちゃんとしたまともな絵には芸術を感じにくい、これは大事なポイントです。ちゃんとしていない、まともでない絵に人は打撃を受け、最初はしかも悪い方に受け取ります。初見で好感をいだく建築パースとは逆方向に、快に否定的な方へと芸術の世界は広がっています。

芸術なんて難しいと思っている人は、芸術を大層なものだと大仰に想定しすぎているかも知れません。実はそういう人でさえ、日頃から芸術的判断をやっているのに、自分には高尚すぎると思って無駄に見上げてしまっていることも考えられます。
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具象絵画はホントに理解されているのか
2016-10-30 Sun 00:40
「具象画はわかるが、抽象画はわからない」「具象は大好き、抽象はちょっと」という人が日本にとても多いのは、周囲を見てもネットを見ても感じることでしょう。欧米には少なめだから、日本の美術界のハンデになっています。お客がそうだと、アーティストも伸びないし。

そこで疑問がわくのは、具象だけがわかる人がほめたたえた具象画は、ハンデの反映が表れていないかということです。これは調査や実験が必要かも知れませんが、具象だけがわかる人と、具象と抽象ともわかる人では、具象作品を見る目の広さや深さが違ってくる可能性です。

具象画だけがわかる人が好む具象画は、具象的成分や側面に関心が片寄って、表現の核心的エッセンスが見過ごされている疑いです。

具象画だと「わかるわかる、感動するわあ」と、芸術の深淵に触れた話にされます。同じ人が抽象画だと「わからんわからん、感動せん」となって、こんなの芸術じゃないとされて。それって具象画の何か別のことを、芸術だと思い違いしている確率が高いのです。

両方わかる人が見ないと、具象画の芸術性がつかめないことが考えられます。なぜなら、美術作品に宿るとされる芸術成分は、抽象的な何かであると推定できるからです。芸術性というやつは、抽象的概念だという話。この発想は、世界的に見落とされているでしょう。

具象だけが分かる人と両方わかる人では、別の概念を芸術だと認識していて、傑作の判断でも別傾向を選ぶ可能性があります。審査員がどっちなのかで、具象画家の運命もまた翻弄されます。この問題は、ヨーロッパでの展示で、お客の反応を活字にまとめながら思いつきました。
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自分の作品を論じることは、アーティスト本人に可能か
2016-10-29 Sat 00:59
わからないアートといえば、抽象のピカソやポロックの絵がすぐに浮かびます。が、実は具象のルノワールやフェルメール、ゴッホの絵もわからないという声があります。そして、たぶん日本に多いのです。

ゴッホやポロックの絵がわからない現象は、本人がどんな気持ちや心境で作ったのか、何を狙ったのかがわからないことが言われます。価値がわからない以前に、制作意図がわからないわけです。「麦畑を描いて、それが何だって言いたいの?」。

そこで評論家が解説しますが、画家のコメントを読むわけでもなく、アウトサイドからの視点なので空想が増えます。当然ながら、論者が読み取れた範囲でしか語れません。

だから核心部分は憶測と願望のつぎはぎ作文となり、それを学んだ読者は作品解釈の都市伝説に流されることも多い理屈です。

ならば、いっそのこと当の作者自身が作品を解説すれば、空想を補正できて鑑賞者がわかりやすくなりそうに思えます。画家や彫刻家が、セルフ評論すればよかろうと。しかし、作者による自作品の解説は、現実には難しいのです。音楽もそうですし。

難しい理由がいくつもあっても、理由を謎説きした例はまれでしょう。作者がなぜ自作品を語れないかは、芸術作品で特に複雑です。芸術は基本的に裂け目なので、本人の支配下に必ずしもなく、あっと言う間の偶発が多い。だから、美術家はプロデューサーを必要としているのです。どう作るかを助言する人を。音楽ではそこは解決しています。
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信仰が強迫へ、現代美術アドバイスのあるある失敗
2016-10-27 Thu 00:19
この特集の発端は、「現代美術は簡単」「わかる」「何でもない」「楽しいぞ」と言う巷のガイドが、信仰と強迫に向かう傾向でした。作品を示して「これならわかるでしょ」「わからないことはないでしょ」と。どうも単純化しすぎだし、説得内容も非芸術的だったり。

具体的にあげてみましょう。写実から抽象への教育課程どおりに抽象を理解するアプローチでは、古代の抽象に歯が立ちません。シュメールとかエジプトのアートがカバーできず。その勉強では、美術の範囲を狭く限定していた頃と同じです。

名画の見方を覚える方法では、明日生まれる未知の新作には通用せず、自立歩行が困難です。マニュアル人間。好きな作品だけ相手にせよという割り切りは、創造を却下する意味だし。何でもありの時代だぞと便器を示されても、ピカソや日本画とは全然つながらない話。一個ずつ別の暗記科目じゃあるまいし、便器もそんな経緯と違うし。

ガイドたちは旧態の延長でがんばる努力を強いていますが、「難しい」「わからない」「ちょっと」の壁を苦労で乗り越えても、「美が苦」は温存されます。焦点は、鑑賞者の努力不足とは違うのです。そっちへ引っ張ったらだめだめ。

正直なのは、日本の新興美術市場の細さです。努力したぐらいではわからず、やっぱり買わない。本当にわかりたいのは、現場単位の美術品の良さではなく、人類にとって芸術とは何なのかでしょう。大きいところから攻めていく方が、おそらく日本人向きであろうと。

日本人が芸術と縁遠い民族的な資質は見当たりません。サッカー日本代表のようなフィジカルのハンデはないし。監督やコーチ、インストラクターが間違ったアドバイスを続けていると考える方が自然です。
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芸能タレントの絵を、上手とほめるか、上手とけなすか
2016-09-24 Sat 00:58
上手な絵という言い方は当たり前に使われます。あの絵はうまい、上手だね、これはへただねと。しかし上手の語は、現代の芸術のほめ言葉にフィットしていない問題があります。たとえば芸能タレントが絵をかいて、公募コンテストで入賞したとします。

インターネットに集まるアンチたちは、「めっちゃへたくそな絵だ」と書き立てます。技能が低くデッサンが狂っている意味です。へただへただの大合唱。しかし「へたな絵」は、果たして芸術的にどうかという観点があります。周辺エピソードなどではなく、核心の議題です。

美術の本職より制作の腕が落ちる歌手や俳優に賞を出す主催者へ、人寄せパンダとしての歓迎かなど批判が出るのもいつものこと。本職を一人押しのけてまで、などと。ところがゴッホのデッサンはゆがんでいて、ポロックはデッサンが採点不能です。歴史的な巨匠の方が芸能タレントよりへたな、デッサンが狂った絵をかいています。

新作絵画のへた呼ばわりは、ハードロッカーを「叫んでいるだけで歌になっていない」と言うのと似ています。多様化した現代にしっくこない批判です。その叩き方では、こき下ろせていません。美術の「上手」はバズワード(Buzzword)になっていて、「やばい」と似て良し悪しが不確定性なのです。

新聞やテレビよりうがった(的を射た)意見が主導するとささやかれるネットでさえこんな状態で、なるほど「美術は難しい」「現代美術はわからない」「抽象はちょっと」が今も多数派なはずです。

上手へたで語る人が多いせいで、間違った芸術評価法が伝言ゲーム的に連鎖していると考えられます。本書で何度も触れた周辺の話題は、情報伝達と洗脳についてでした。触れた情報に人がいかに染まり思想形成するか、芸術が苦手な人を生み出す背景が広がっています。
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わからない美術は現代的だから?、それとも抽象的だから?
2016-09-20 Tue 03:57
美術鑑賞で最もよく聞く声に、「具象はわかるが、抽象はわからない」があります。それこそ耳タコなほど。「具象画は好きですが、抽象画はちょっと」も同じ意味です。考えてみれば、鑑賞者の能力不足の告白なのに、ネットのアートブログでもたくさん見かけます。

抽象がわからない人が国民の最大多数である安心感があるのか、正直に堂々と言えるようです。「僕は抽象美術が苦手です」と言うと、「僕もです、気が合いますね」なーんて人脈がつくれそうなほど。抽象がわかると言い出せば、逆に仲間はずれになりそう。

並行して「現代美術がわからない」という訴えも根強くあります。わからない抽象とわからない現代、二つの関係はどうなっているのでしょうか。ある美術はわかり、ある美術はわからない時、その差は何か。重大な分岐点です。

無視できないのは、「具象はわかり、抽象はわからない」の声は少なくともヨーロッパではあまり聞こえないことです。そしてヨーロッパで美術といえば、もろに現代美術を指します。単に美術展といえば、コンテンポラリーです。展覧会などイベントのタイトルに「現代美術展」と記す必要が、欧州にはありません。

日本は違います。普通に美術といえば、古典的な具象が前提です。ルノワールやフェルメールなどが標準的な美術です。彫刻ならロダンやマイヨール。対してポロックなどは、普通の美術というより特別枠で意識されます。何となく、ノーマルとは違うオプション的な扱いです。

抽象が苦手なのも、現代が苦手なのも、日本で顕著です。言い換えれば日本の隠れた伸びしろであり、また美術業界が持て余している伸びしろでもあって、でも今は伸びていません。なぜ伸びないかを考える時が来ています。
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