現代アートにありがちなカラ主張をひとまず理解する
2017-08-12 Sat 00:25
昨今の美術家のあるある問題として、主張の意味の空転がみられます。「作品の内容で主張しないで、思いで主張する」という主張。わかりにくい言い方になってしまいました。

作品の造形面の内容がそもそも薄く、鑑賞者に対して主張が不発な時。それを「主張しない作品こそが、作者の主張なのだ」と言う。存在感のなさが主張になっていると主張するパターンで、いわばカラ主張のようなもの。

その手の作品を欧米へ持って行くと、目を引かないから埋没するだけ。成果を出すには、作品を改善する必要があります。しかし、自分を曲げたくなくて改善にノーと言う、そのノーの態度が絵に込めた主張だという?、こね回したような論法を実際にみました。

昔、後輩の学生が、僕は作品を作らないことを主張しますと言い出しました。作らない自由があってもいいんじゃないですかと。しかし周囲の目は節穴でもなく、「案が浮かばないと正直に言えば?」と白い目を向けて。橋の案が行き詰まると、端に飛びつく心理を見透かした瞬間。

一方で、逆の信念の美術家も当然多いのです。改良大好き、趣向を変えるのも平気。実験好き。それで芸術性もプラスされ、結果は売れ始めていて、「作品の主張」は本来はこちらの意味だろうと考えます。

ピカソ絵画の特徴は、形と色の主張です。そして多くの後進は造形で勝負しても、天才ピカソに歯が立たない苦難に陥ります。そこで「この白紙に気持ちが込められている」式の、カラ主張に流れたいきさつもあります。作る方も見る方も、後年ほど形と色のメッセージが苦手になり、とんちで代用して切り抜けた流れが疑われるのです。
スポンサーサイト
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
現代アートの巨大彫刻にキャンプ場の夜を連想した
2017-07-04 Tue 01:07
美術は難しいと国民に言われたり敬遠される境遇に、現代美術家も悩んでいたり、打開しようと頭を使っています。現代アート敬遠対策をがんばってほどこした、ある彫刻群があります。

クワガタムシ、ショウリョウバッタ、エンマコウロギなど、昆虫の姿をした彫刻です。鑑賞者はびっくり。何にびっくりかといえば、大きさ。長さ10メートルなど巨大で、どーんとそびえて目立つ。「芸術だけにスケールが大きいですね」と報道記者たち。子どもも大喜び。

しかし以前から羅列作品と巨大作品は、現代アート批判にさらされてきました。羅列作品は、肥桶も千個並べりゃ美しい式のいにしえの皮肉。巨大作品は、奈良東大寺の大仏のように信心を高める手法。アメリカンサイズのステーキ肉のように、ビッグな規模で感動させる近道。

作る側の言い分があります。造形にこっても反響がなく、オリジナルは虚しい。そこで皆が知る物を巨大化する。思い起こすのは、キャンプの夜にテント内で始まる怪談話です。物語を聞かせても誰も怖がらない。脚本ではもう通用しない。そこでふいに「ギャアッ」と大声で叫んで、「ぞっとするお話でした」と締めくくる持って行き方。

どんなものも、極端に大きくすると刺激が強まります。サイズがデカいは七難隠す。宗教などで、百メートルを超える巨大立像もありますね。ギネスブック。一方で手ごろな作品規模で、こった物語を静かに聞かせる脚本重視の彫刻家もまだ多いのです。造形をわかる人がいるはずだというロマンなのか、少数相手のライフワーク。

作品コンセプトといえば、高遠で深長なものを想像しますが、どの層をターゲットに狙うか、誰にわかって欲しいかもコンセプトの一種です。羅列作品と巨大作品が多く出てくるイベントは、俗な言い方で大衆向けといえるでしょう。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
アーティストを枯らさないために互いの支えも必要
2017-06-25 Sun 01:23
おそらく世界で誰もやらない分析は、アーティストが行き詰まる過程です。当初は調子がよかった作品が、作り続けるうちにつまらないものが増え、アイデアが枯れていく変化を分析したことがありました。

そのプロセスは音楽でよくわかります。80年代終盤の、あるブラジル人のエレクトリックギター演奏が例。デビューアルバムは、作曲アイデアも演奏もみずみずしいものでした。すき間狙いが多い時代にしては、いかすメロディーの曲が次々と続きます。新しい才能が登場。

音の空間の飛躍にトリッキーなところが多く、和音展開もダイナミックで、楽器はよく歌って気が利く。演奏法も高く飛んだり低空飛行やキリもみしたりと多彩。曲と演奏がよくマッチし、やりたいことがうまく盛り込まれて、引き出しが多い。

ところが、3枚目のアルバムでわずかに衰えのきざしが出たと思えば、4枚目で信じられないほど落ちました。メロディーはメソメソ、歌のない歌謡曲ふう浪花節調に変わり、和音の回し方に飛躍が消え、どの曲もだらだら単調で動きが鈍い。聴きごたえのある仕掛けが出てこない。

かつてキマっていたかっこいいサビが消え、聴かせどころもなく足踏みする曲調。全曲スカばかりで一度も盛り上がらず、何度聴いても取りえがなく、印象に残らず。やはりというか、5枚目が出ない。ネット時代に海外サイトで見ると、4枚目のみ紹介されるかわいそうさ。

演奏力が上がり、創造力が下がるケースも多いのです。そこでグループメンバーやプロデューサーの組み替えでリフレッシュしたり、アルバムリーダーを代えたセッションで支え合います。独りで黙々と続ける限界は才人も同じで、解決策を美術にも応用できます。著者も他の美術家を外国でアシストする珍しい企画の準備中です。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
展覧会にちょうどよい作品の個数は何点か
2017-06-01 Thu 00:24
展覧会の作品は、何個置くのが理想かという問題です。日本の展覧会は特殊で、公募コンテスト展が主流です。先進国の主流はアートフェア方式で、目的はコンテストとは全く異なり作品販売です。欧米は商戦で、日本は賞選。商戦のアートフェアでの売れ方を考えてみます。

展示作品数が多いほど、よりたくさん売れそうな気がします。が、実はそう簡単ではないのです。今こちらでわかっている結論は、適正規模があることと、それが展覧会ごとに異なっていること。

まず展示数と売れた数は比例しません。絵を20枚展示して4枚売れたとします。6倍の120枚展示すれば、6倍の24枚が売れる計算ですが、やってみると同じ4枚だけ売れたりします。総数を増やしても売れ数はあまり増えない結果は、実はよくあるのです。

しかも時には120枚展示で3枚きり、20枚展示よりも逆転したり。質の条件は同じでなく厳密でありませんが、結果的に「あれれ」となります。なぜそうなるのかは、おそらく作品が多いほど鑑賞者の脳の神経がマヒするからでしょう。頭が疲れて一個ずつに集中できない。あまり多いと、どうでもよくなっちゃう。

音楽でもアルバムを1枚聴くうち、だんだん疲れてきて集中力が薄れる体験がよくあります。レコードよりも時間の長いCDで顕著です。だからある時1曲だけを抜き出して聴くと、これはすごいぞと新発見したりします。疲れていない感度のよい脳内に、作品がきれいに入ってくるからでしょう。ビールの最初の一杯みたいに。

だから、鑑賞に適した理想の作品数は1点です。注目が一点に向かう例は、ルーヴル美術館の『モナリザ』の部屋がそんな感じですね。次善は2点で、次が3点。実は高級アートフェアほど作品が少なく、会場写真も簡素です。しかしお客の体験は濃く、全点が売れることもあります。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
現代画家の悩みは多品種になりやすいこと
2017-05-26 Fri 02:01
現代日本の画家の作品を扱っていると、過去にはなかったある問題が広がっていることがわかります。多品種化です。マルチ作風がとても多いのです。一人のやりたいことが多く、気が多い。

作風というものは一人に一つだけあるのが従来は普通で、人の顔でも森の風景でも、描けば雰囲気が共通するものです。デッサンのゆがみや、色彩の選び方、塗る筆タッチなどに個人のクセが出ます。しゃべり方みたいなもの。だから新作を見るとあの作者だとわかり、その特徴が個人ブランドにもなるわけです。

ゴッホもそうです。ミケランジェロのようなゴッホ作品はありません。絵を始めた当初は別にして、ゴッホらしさから遠くない範囲に全作品が収まっています。意外にわかりやすいのはピカソで、趣向が大変化してもピカソらしさが一貫します。生涯、自分ふうを外していません。どこで切ってもピカソ風なのが、ピカソ作品の最大の特徴。

日本の新しい現代画家は、作風系列が2種から5種もあったりします。しかも互いに共通する雰囲気がないほどで。具象と抽象を両方作る場合も、別人に思えるほど根底から違うことも多い。なぜそうなるのかは、世に既成品が多くそろっているからでしょう。作風見本がいっぱい。

作品のお手本や成功例に囲まれた恵まれた条件で、焦点が定まりにくい現象です。あれもいいな、これもいいなと感化され渡り歩きやすい。印象派以降のヨーロッパは、「今の時代はこれ」のメインストリームがなく、一人の中でも複数様式が同時並立できるし、やりたくなります。

そうしたマルチ画家を売り出すには、同一性を出すために顔となる作風を決めます。しかし才が発揮できている作風と、今やりたい作風が一致しないと、絞り込みは難航します。だからこそ美術にもプロデュースが必要だと考えたのですが、欧米でもチーム戦略が増えています。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
絵の向きが間違っている-展覧会の壁の場合
2017-04-29 Sat 01:49
展示壁に平面作品をかける時、作者以外は作品の天地逆や横倒しに置くミスを時々やります。著者も両方とも失敗したことがあります。受難は抽象画がほとんどで、人物、静物、風景の具象画三点セットではまれです。ただし略画だったり、全面に芝生を描いた具象画ならあり得ます。木目の写真なども間違いやすい様式です。

作者側は事前に、向きがわかるよう工夫します。額やキャンバスを吊るひもの付け根を上側に寄せるとか、ペーパー作品の裏に矢印を書き、表には明瞭にサインを入れるなど。それでも他人が展示作業すると根絶できず、美術館でも何日も気づかないミスが実際に起きています。

抽象画を天地逆にすると何が起きるかは、人物像だとシミュラクラ現象が消え、人物に見えなくなります。シミュラクラ現象は、逆三角形状に置いた3点が人の顔に見える脳のはたらきで、その手の心霊写真の基本原理です。正三角形状だと目と口をパターン認識できず、心霊写真だと信じさせるのは難しいでしょう。

人物でなく模様だと、ひっくり返しても通用するだろうとは想像がつきます。ところが天地逆に置くと、一転して絵の迫力が増す場合もあるのです。作者だけが感じる場合と、他人も感じる場合があって。

記憶イメージと異なるせいで、作者は主に違和感を感じます。しかし、同時に迫力も感じるのはなぜか。仮に、作者が作品をマイルドに整えていた場合、向きを変えるとバランスとりがゆるみ、絵が暴れ出すと考えられます。この現象は、研究課題にできそうです。

画家が絵をまとめ上げる作業の内訳は、刺激を減らし主張を薄める方向に行きやすい。これは、他の画家と同室で制作していると気づきます。相手の絵は、制作途中でいったん妙に迫力を出すのです。「おっ負けそう」と。ところが仕上がるにつれ、おとなしい並み品へと沈んでいく、その一部始終を体験します。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
絵の向きが間違っている-作品カタログの場合
2017-04-26 Wed 00:47
かつて著者が公的な学生展に出品した時のこと。カタログ図版が届き、ページをめくって自分の絵を見つけた瞬間、強い違和感がありました。数秒間は、何が何だかわからない状態。よくよく見ると、作品が左右逆に反転して掲載されていました。想像以上の違和感です。おもろい。

現在の書店に並ぶ本も雑誌も美術カタログも、全てがDTPと呼ぶデジタル編集で版がつくられ印刷されています。パソコンソフト上でレイアウトし、活字と画像を置き並べていく方式です。そのひとつ前の方式が「電算写植」で、新聞の第一面がカラーになった頃がこれでした。

さらにさかのぼると電算でない「写植」方式になり、全てがアナログです。ミシンを思わせる写真植字機で、ガチャンガチャンと原稿どおりに字を打ちます。黒いドラム内にセットした薄手印画紙に、活字の陽画像を感光させます。長文を打つ時間もかかり、年季も必要でした。

その印画紙を液にひたして現像し、乾かしカッターナイフで切り、レイアウト台紙なる版下に特殊なノリで貼ります。写真やさし絵などの画像も同様に、撮影フィルムを現像し引き伸ばし、乾くと切って台紙に貼り付けます。手元の狂いで傾けば、傾いたまま出版されます。ノリ貼り版下は出版後に捨てるから、当時の雑誌の復刻は難しい。

そんなアナログ時代に時々あった図版のミスは、写真の裏焼きでした。取材写真を印画紙に焼き付ける工程で、ネガフィルムを引き伸ばし機のキャリアにセットする時、表裏を間違って置いた失敗です。当時反転が多かったのは、おそらく人の顔写真だったと想像しています。

美術カタログにも、こうして左右逆の写真がたまに生じます。その時の強い違和感が、ある真実を示しています。絵をかいた者以外には違和感がない場合も多いからです。それはなぜか。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
美術の本を読む人の立場
2017-04-05 Wed 01:00
美術の本は、何となくどれも同じに思えます。固い調子でかしこまっているか、美辞麗句を並べて師への敬意もべたべたとか。ところが本書は異質で、よくある疑問に答えるために聖域なき前提でどんどん踏み込んでいくから、既存の出版社からは出せない禁書でした。

たとえば1988年に出版を断られた時には、裸婦の銅像をめぐる高齢男性の性衝動の問題に触れていて、編集者から注意を受けました。やはりタブーでした。今の日本では高齢化社会に合わせて、高齢再婚なども珍しくなくなったので、その話題も出番が薄れたのですが。

アートの自由奔放は意外に表向きの話で、意外に固くて神経質なところがあります。今でも出版に不都合なのは、現代アートの両面を対比させる書き方です。良い面は通って、悪い面が検閲対象になります。たとえば、現代美術が嫌われる実態を話のマクラにした展開では、「嫌い」の語で出版や掲載が止まります。問題に触れさせてもらえない。

しかしそれは、出版社側の過剰な気づかいとは違います。というのは、美術の本を買うのは美術を作る人が大半だから。画家や彫刻家の機嫌を損ねたら、本を買ってくれるお客がいなくなる、忖度(そんたく)以上の切実な問題です。挑戦する体力はないと、編集者から言われました。

欧米市民はアート作品をよく買いますが、日本で美術品を買う人はわずかです。その比較を日本に伝えようとした時、日本が劣っている印象が強いと編集ブレーキがかかります。アートは生活必需品でないから水ものになる弱みで、原発みたいに否定的な単語が忌み嫌われます。絶望から希望へとつなぐ表現は、絶望部分の削除を求められます。

美術を作らない立場に向けた時点で、出版マーケティングは困難です。が、作品がわからないと言う国民を放置すれば、雑言が支配していくだけでトータルは国の損失でしょう。混迷している『曜変天目茶碗』も、陶芸批判の声があっても何も解説せずに放置したツケでしょう。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
美術に贋作が多いのは、美術がわからないのも一因か
2017-02-22 Wed 01:42
高級腕時計やカバンを偽造して、本物より安く売る闇市場があります。これを美術でやるのが贋作(がんさく)で、完全コピーでなく有名画家の未知の作品を装います。売る相手は美術館やアートコレクター。

贋作は音楽では起きない気がします。ホロヴィッツやイーグルスの贋作レコードや安室奈美恵の贋作CDは珍しく、ブートレグ(海賊盤)と呼ぶ違法コピー盤がやっと。それとて本人が演奏した、販売権のないダビング製品です。音楽大学の学生が真似て歌い、安室のライブ版と偽った音楽ソフトはまずないのではないかと。

それでも戦後の昭和時代、地方にニセの歌手が現れました。比較的年輩のミュージシャンが時々話に出す「みそらひはり」もそれで。ポスターに濁点はなく、チケットを買うと地元の知らない歌手が出演したという話。「エノケソ」も、日本が貧しくなった時代の便乗商法として語り草です。名前が違うだけ良心的かも。

音楽ではまれな贋作も、美術では多いのです。時々あるどころか、ありすぎてどうにもならない場合も。たとえばエコール・ド・パリでも特にゆるい作風のあの大物画家は、見たら贋作と思えとささやかれるほど。贋作率9割以上だから「それはニセモノだ」ととりあえず言い放てば、神がかって十中八九が的中する計算です。

贋作問題を書いた本は昔から多く、しかし真贋と芸術性の高低がからむと書きにくい様子です。歴史名作にも贋作は多く、鑑定結果もグレーが多いから、一般人の自己責任みたいになっています。真物と知れば感動しろしろと背中を押され、贋物と知れば感動するなと急ブレーキ。この心理は美術家や評論家にもやはり起きていて、人間の限界なのです。

みそらひはりが抜群だったり、個性的ならどうなるかは、音楽なら東京へ送り興行に乗せれば新たな展開ですが、美術ではそうはなりません。普段から不透明な価値で回転している弱点で、ネームとバリューを分離して扱うことは、現実に誰にできるかとなって出口が見えないのです。能力主義に徹しにくい美術の特殊事情が、贋作者には追い風です。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
曜変天目茶碗の玉虫色の鑑定、作品を見るだけでわかるのか
2017-02-19 Sun 02:25
「作品を見れば、良さがきっとわかります」という言い方は、アートの色々な場面で出てきます。でも物を見る時に、何が目に入りどこに着目するかは、人によって異なる問題があります。

骨董品を鑑定して価格を決めるテレビ番組で、『曜変天目茶碗』が新たに発掘認定されました(ようへんてんもく、耀の字も)。中世時代に現中国の福建省の窯でつくった、偶発的な焼成釉の茶碗。逸品は、世界にある3個全てが日本の国宝だそう。4個めが個人宅から出た国宝級発見の朗報でしたが、放送後にニセモノだと疑われています。

番組どおり本物なら、オークションで推定20~100億円でしょう。制作や研究の第一人者たちの主張どおり偽物なら、1万円で2~11個買える現代の品です。本釉の窯変ではなく、色釉の混合説も。中国側の専門家は贋物とはせず、推定した現地みやげ販売業者名をあげました。

ここで注目したいのは、真贋以前に物をくらべる目のあやふやさです。何が目に映っているかが、人によって違いすぎる不安定さです。今回も「見ても僕にはわからない」「実物でない映像だけで何がわかるのか」と、見分けがつかない告白がすぐにネットに続々と書かれました。

たとえばの話ですが、映像で「犬と猫はほら違うでしょ」と言っても、「僕には同じに見える」とか「どこが違うのかさっぱり」「違うと思い込めば違って見えるのでしょ」「実物を見ないとね」と言われたような感じ。そこまで慎重になるほど、微妙な違いの話ではないのでは。

優劣以前にルックスの差も感じないのは、高尚さに緊張して気持ちが固くなったせいかも知れません。古美術の一切を嫌う声の多さは、それも関係があるのかも。近年の贋作は科学検査への対策をこらすから、目視比較する優先度は下がっていません。まあ確かに冷静に考えると、犬と猫にも決定的な差はなく、ほぼ同じなほど似ていますが・・・
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
売れる画家と売れない画家はどこで分かれるのか
2017-02-16 Thu 01:09
作品が売れている画家と、さっぱり売れない画家がなぜ生じるのかは、昔と今では理由が違います。昔は、技量の高低でした。上手で手慣れた画家が、「よく描けている」とほめられて売れました。今は、買い手にわかる作品が売れます。わからないと売れない。

昔と今、たとえば18世紀と20世紀以降で何が一番違うかといえば、今は一人一人のやっていることが異なっています。ピカソとミロがそうであるように、作品が似ていません。こちらの企画美術展でも、全員の作風が拡散します。昔は皆がまんじゅうを作っていて、似た作風同士で上手さをくらべました。味見すれば上下が決まる。

今は、まんじゅうを作る画家がいれば、傘を作る画家もいる。自転車や下駄を作る画家も。その時まんじゅう作りと下駄作りをくらべて、どちらが上手かは言えなくなっています。ピカソとミロのどちらが絵がうまいかが決まらないのと同じ。だから、趣味の問題に落ち着きます。そのせいで、今の方が創造性の原意を理解しやすいはず。

誰もがほめる絵は、誰もが思い当たる絵です。誰もほめない絵は、誰も思い当たらない絵です。全然、全く完全に、誰一人として心当たりのない作風だと、ひとつも売れません。人は自分がわかる上限の作品が一番好きだからです。創造者は売れる定石を蹴って、他人の念頭にない方向へ走るから売れない理屈です。

今新しく創造したものが、みんなの価値観になじむことは、あり得ない話です。芸術大学が奇人変人を集めようとするのは、これが根拠です。全人類が永久に理解できない作品、美術だと認める人間が最後まで一人も現れない何かを作って欲しいからです。これは音楽や落語にはみられない、美術だけが突出したオーソドックスな価値観です。

この芸術の論理に、非常に多くがついて行けないわけです。理解できないものこそが本芸術だなんて・・・。案の定、芸術敬遠がどっと増え、もどきが栄えます。今どきの芸術家は、ゴッホのような死に方をしたくてやっているのではなく、オーソドックスな道理に沿っています。ひと昔前に盛んだった、ぺインター対アーティスト論もそれです。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
抽象は死んだのか、純粋抽象アートの場合
2017-02-10 Fri 05:39
抽象アートの中で、純粋抽象はほぼ死んでいるでしょう。死んでいるという意味は、作る側にとっても見る側にとっても、もう芸術体験にならないこと。創造の糧にもならないことです。謎も含みもなく割り切れていて、過去形となった状態。俗に言うアカデミズム化というやつ。

純粋抽象のわかりやすい例は彫刻で、たとえば直方体や球体を巨大化したオブジェは、ステンレスであろうと木彫であろうと、純粋抽象に入るでしょう。絵画なら代表は近代画家のモンドリアンで、画面を直線で仕切って塗り分けたタイプがわかりやすい一例。

そうした純粋抽象の反対になる、純粋でない抽象はピカソが典型です。ピカソのほとんどの絵が、人物、風景、静物の具象三点セットのどれかに当たります。初期のポロックのような純粋抽象に近い絵とくらべて、ピカソは実は具象画だという珍説もあるほど。ピカソは抽象の原点にもなっていて、初級者に優しい。

それに対して純粋抽象がほぼ死んだとにらんだのは、現代日本アートを海外で展示した結果でした。一般に展示作品の効力は二つあり、好かれる方向と嫌われる方向です。今や純粋抽象はどちらにもならず、見物客から好感も反感も引き出せない状態です。売れないなりの刺激も特に発揮せず、空気に近かったような。

だからこちらでやる制作マネージメントも、純粋抽象系はエレメントに付加価値を足す話になります。模様のおもしろさあたりを見せ場とした作品は、現実の事物につながる作品へアレンジする方向で。これは近代抽象画がモンドリアンで完成して折り返した、西洋絵画史の流れと一致します。

では具象画は死なないのかといえば、カメラが普及した時に写実主義が死んでいます。印象派の絵が写真的でなく絵画的なのは、カメラと競合したからです。先進国のうち日本で「写真は芸術でない」の意識が特に強いのは、写実絵画の時代を存分に満喫しないうちに、写真術の台頭で過去形にされた美術側の未練もあるかも知れません。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
芸術家とはいったいどんな性格の人なのか
2017-01-14 Sat 01:14
芸術作品を理解するよりも、それを作る芸術家の方を理解すれば何とかなろうと、先回りして考えるのも有効です。しかし実はそこでも、作品を見る時と同じ先入観がじゃましています。

芸術家とは非常に細かくて、神経質な人だと思っている方は多いでしょう。普通の人が特に感じなかったり、気づいても見過ごしてしまう微妙な美に敏感だとすれば、きっと繊細な人なんだと。違うんですよ。芸術家は、細かいことに気づくタイプではなくて、おもしろいことに気づくタイプです。

たとえば街に電柱が立ち、電線が張りめぐらされて景観がとても汚い。電線を地中埋設してきれいにしなければとの信念は、芸術家の感覚とは違います。ごちゃごちゃした電線は迫力があるぞ魅力だぞと感じ、混沌とした汚濁の中に新しい形を見出すのが芸術家タイプです。気をつけて欲しいのは、これは画家ではなく芸術家の話だということ。

思ったように物ごとが運ばず道からそれた時に、その間違った道へ立ち寄ってみるのが芸術家です。予定どおりに進まない、失敗しちゃった、失敗させられちゃった、うわあひどいと損害計算と復旧に必死なのは、たぶん創造には遠いタイプ。

店員がいつもと違う料理を間違って作って来たら、作り直させることを考えるタイプは芸術じゃない。今日はそっちだと考えるタイプが芸術家肌です。画才ではなく創造才。それなら性格で美術の去就が左右されるのか?といえば、神経質タイプはやはり途中でやめやすいのです。何しろ、すれ違う相手とやっていく世界ですから。

細かい人だとする芸術家像には、職人芸のイメージが混じっています。字も共通だし、ものを作る点も共通だから、特に日本では芸術と職人芸は常に混同されます。この固定観念が現実と食い違うから、鑑賞が暗礁に乗り上げるのです。セザンヌもモディリアニも、職人の匠のわざとは違うせいで、鑑賞者はどうにもわけがわからず。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
芸術の国内分裂は、イデオロギーの対立とは違う件
2016-11-30 Wed 03:06
難解問題と盗作問題は、実は関係があるという前回の続きです。「難しい、わからない、ちょっと」の広まりは、芸術性の物差しでもめている影響もあるという耳寄りな話でした。ある国民の行動が総じて混濁している時は、特殊な慣習と本質論との板ばさみがあるものです。

「そんな分裂なんてないの!」とか「今はそんな時代じゃない」「イデオロギーの話はやめよう」などといくら言ったって、分裂は堅固です。どの色を白と呼ぶかの根幹は、イデオロギーとは違うでしょう。正反対を唱える両親に育てられた子どものような、自我がまとまらず不安定な鑑賞者が増えてしまう理屈です。

180度ずれた不穏な空気は折々に表面化し、美術界全体のイメージが悪いのです。音楽と違い、好かない美術へのヘイトスピーチが多いことにもお気づきでしょう。同業の不仲が何となくただよい、だから作品もみんなウソくさくて、市場も育ちにくい面があるでしょう。

2016年の今も、変わった絵をかく日本人は、欧米へ移り住むケースが多いのです。同じことを、欧米人はやりません。自由で創造的な環境を求めて、日本へ引っ越してくる欧米の画家はいませんよね。日本へのアート留学も少ない。こういうところは、正直な方がよさそうです。

日本の現代美術家が内部分裂に苦悩して作っているのは、鑑賞の耳寄りヒントになるでしょう。展示会場には苦悩が並んでいます。亡命しようか迷っていたりして。現代アートフェスティバルが、日本で二軍扱いになる理由も・・・、このへんでやめましょう。

盗作は世界中にありますが、日本に特徴的なのは盗作を肯定する意見が意外に多い点です。盗作批判者への逆バッシングも激しく、東京五輪ニュース関連では国民を驚かせました。こうした分裂の中で、どちらの立場の作品かを見分ける視点も、鑑賞のツボになるのです。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
盗作絵画の受賞騒動が、内部分裂でも説明できてしまう件
2016-11-28 Mon 20:33
日本の絵画コンテスト展で、盗作事件が時々あります。大賞や金賞などの取り消し騒ぎ以外にも、盗作は頻発しているとも言われます。これは同じ日本で、「芸術は難しい」と言う声が多いことと関係があります。「何だって?」「どうつながるの?」と思われることでしょう。

一般論からすれば、許可なしのパクリは刑事犯罪だし、賞を盗もうとしたあつかましい悪いやっちゃと、モラルを疑う声も出てくるでしょう。盗作者の方も、元ネタ作品の撮影写真や画集を持っていても、見たことがありませんとかオマージュですと答えたりして。

そうした事後のゴタゴタはともかく、本人には悪気や罪悪感はさしてないものです。ここが大事で、悪の道に踏み込んだり魔が差した認識は希薄です。絵をかく悪い人間が、そんなに大勢いるわけもないのだし。

これは、前述した「お手本に似ていることを芸術と呼ぶ派」の行動の延長です。盗作画家は、よく聞くあの格言「芸術は模倣から始まる」を忠実に実行しています。現に普段から画集を参考に絵をかくことも多く。その世界では、優れた絵にどこまで近づけるか、そっくりに描ける確かな腕を価値とします。それを上手と呼び、地位も高いのです。

だから盗作が発覚しても、干されたり追放はありません。逆に筆の実力が証明されて、得することさえあるのです。批判や敵視にあうのは、むしろ人と違うことをやるタイプです。独自色や主張が強い画家の方が、わがまま勝手を理由に干されたり追放されるものです。

お手本を模写する力量を「芸術の創造力」と呼ぶ傾向が強いほど、盗作する風潮ができやすいメカニズムです。ちなみに芸術の内戦は20世紀フランス美術界にもあり、芸術家の身とともに創造の機運もアメリカへ流出しました。アート創造の発信源がニューヨークへ移った流れには、パリ画壇の分裂もあったのです。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
芸術がわからないと訴える裏に、日本の内部分裂がある件
2016-11-26 Sat 20:07
このブログには8冊組の本にはない話題が多いのですが、ここでいきなり「芸術の難しさ」のさわりのひとつに触れます。「さわり」は序の口の意味ではなく、ヤマ場の意味ということで。

芸術の難しさといえば、変な作品を見てわけがわからず、どう解釈してどう味わうかで途方に暮れた件が多いでしょう。が、それだけではありません。作品の優劣を測る物差しそのものが、どう目盛られているかが不明瞭な意味もあるのです。絵がどうなっていれば芸術なの?、あるいは失敗なの?と。そしてかんじんなそこが、なぜあいまいなの?と。

実はこれ、日本が抱えている問題だという特殊事情があります。他国では起きていない内部分裂が、日本で今も続いています。日本の若者の作品がくすぶったり、さまよっている実態も、その内部分裂の反映として読むことができるのです。

内部分裂を簡単にいえば、お手本に似ていることを芸術と呼ぶ派と、お手本に似ていないことを芸術と呼ぶ派の対立です。真逆のそれぞれが、我こそが芸術だと名乗っています。これでは国民が、芸術とは何かをわからない方が正常でしょう。もしよどみなく理解できる人がいるなら、単に関心が片寄っている疑いさえあります。

180度反対向きなのに、同じ「高い芸術性」と称賛するのでは、全くたまりません。よりにもよってここを多様性や自由主義と言い出せば、不誠実な悪乗りです。ちなみに諸外国では、お手本に似ない独自作風を芸術と呼ぶ傾向があります。既存物から遠いほど本物の創造だとする原則が欧米流。ルーヴル美術館に並んだ名作もその基準です。

日本にのみ「難しい、わからない、ちょっと」の声があまりにも充満しているのは、国内が内部分裂しているせいもあるでしょう。白も黒もどっちも白と呼ぶせいで、国民はついてこないわけです。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
絵に額縁をつけない展覧会はまずいのか
2016-11-07 Mon 00:58
日本の公募展は、絵画に略式の額縁をつける条件が普通です。ないとキャンバス側面に布が見え、絵具付着や釘も錆びていたりで体裁も悪いからでしょう。大学でやる絵画展でも、学生は額縁の調達に悩みます。

学生とて高価な額やアルミフレーム類を自腹や部費で買い、側面を隠して本格的な絵に見せようとします。廉価なアルミの仮ワクも、キャンバス一式より値段が高いので負担でした。木材を買ってノコギリで切り、キャンバスの四周に釘で打ちつけた経費節減もよくあって。

その学生がヨーロッパの展示に参加すれば、さらに見栄えのよい額縁が必要かといえば逆で、むき出しの絵でよかったりもします。理由は、それぞれの展示会の目的どおりです。日本では見世物だから体裁重視で、ヨーロッパでは売り物だから内容重視です。

日本では、額縁がないと売りにくいという声も耳にしますが、これは自力調達が困難なせいもあるでしょう。美術作品の売買が盛んでない日本では、バラ買いが流行るわけもなく、全てがそろったオールインワンのキットが好まれます。

ヨーロッパでは売買が盛んなので、立派そうに見せる額縁効果は日本ほど効き目がありません。市民は、脳内で自分流の額縁をつけます。好みの額縁を選ぶ楽しみや特注する楽しみもあり、額縁店もたくさんあって値段も手ごろです。盛んな国は全てが違います。

こちらでも実際にやっていて、ヨーロッパの会場で作品を額縁に入れても、売れ行きは同じでした。会場風景写真がサマになるメリットはあっても、販売促進の効果はみられません。同時にビニール袋入り作品も用意してテーブルに重ね置きしておくと、さっさと掘り出されて次々買われてしまいました。
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |