現代アートの主流に今なっている作品は、どちらのタイプ?
2017-09-02 Sat 00:17
ホームセンターで買った砂利を展示して、既成の概念を超えたと訴え、釣られた美術館に数千万円で納入するアートビジネスモデルが流行りました。日本に限らない話。「暗闇の展示室で客に何かが起きたら、それが僕のアート表現です」という方法論もその類例です。

現代アートはその手のとんちばかりだと、軽蔑する人もいるでしょう。あれで現代アートが嫌いになった人たち。しかし今も新作の中心は、とんちではなく物づくりです。キャンバス画や水彩や版画。人物画に抽象画。人数も才覚も、三大画家タイプに集まっていることを再発見。

多数派は創作タイプであり、創作放棄タイプではない。しかもその創作タイプ同士の作風は似ておらず、画一化や行き詰まりは深刻ではありません。とりわけ日本ではイラスト系がアートに進出し、新しいタイプの日本画が生まれています。要するにサブカル似の日本画。

鑑賞者の反応も、昔とあまり変わりません。「橋などやめて、端をつくれ」という一時期の潮流は、21世紀には下火です。今も続く制約は、具象のダリはわかるが、抽象のピカソはわからない傾向でしょう。生身の人間の能力が昔とそれほど違わないことに、逆に納得します。

戦後言われた「絵ではない絵」というのは、絵のことです。「絵ではないのが本物の芸術と聞いて、稲を刈って展示しました」式のダダ運動タイプのとんちは、むしろ昭和の感性です。平成時代終盤の昨今、古来型のリアル作品の巻き返しに、へえー時代はゆり戻すものだと。

暗いホールで体を触られる音楽会は、今では流行らないでしょう。似た流行は昔あったものの、集中実験して卒業しています。とんち競争が今もすたれない美術でさえ、作る楽しさと見る楽しさへの回帰は始まっています。原因は、保守化よりも飽食化でしょう。
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ブラックボックス展批判とアート無罪批判が失敗する理由
2017-07-25 Tue 00:36
キーワードは、「ブラックボックス展」「アート無罪」「自由主義」。ブラックボックス展とは、真っ暗な密室のお化け屋敷型イベント。中で起きた出来事がアートだという主張です。女性客が暗い室内に入ると、中で男性らしきに体に触られるなどした事件だそう。

オピニオンリーダーたちはブラックボックス展を批判し、アートなら何をやっても許される「アート無罪」も批判しました。しかし批判論は、ほとんどが不発。その原因は、表現の自由奔放ぶりを危険視し、過剰を戒めた点です。それだと、人の表現はアートだとした自由主義の尊さにかき消され、何度やっても後知恵です。常識人の負け。

事件の下地は、三大画家タイプとダダ運動タイプを混ぜて語る、非芸術的脱線にあります。芸術抜きのアート論は、ロジックが散乱します。善人が安全策を持ち出しても、「芸術は危険な冒険である」式の三大画家タイプの特徴を盾にして、首謀者は逆に胸を張れる空気あり。

特に日本では、国民は芸術が苦手のまま放置されています。一般化せずに特殊化している。だから何者かが「これも現代アートだ」と言えば、国民は「それはアートとは違う」と言い返す力がありません。

近く、抽象ヘイトとSTAP細胞ファイナルと、ブラックボックス展の各章を追加予定です(第8集購入客は増分無料)。ブラックボックス展をうまく叩けない現代アートの構造を解いた内容で、ブラックボックス展批判とは全く違う話です。大勢が魅了され集まった大ヒットがカギ。美術と自由の強迫メカニズムは、世界初の解説です。

ブラックボックス展は、三大画家タイプではなく、ダダ運動タイプの表現物です。ピカソ系ではなくトラクター系。そこを分けないまま、現代アートに、自由の抑制、節度、モラルを説教しても、無駄な抵抗です。「非常識なトンデモこそが最高の芸術」式のピカソの成果を盾にして、首謀者は逆に胸を張れる空気あり。常識人の負け。
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芸術の話題が必ず難しい話になるのはなぜか
2017-03-21 Tue 01:13
このブログは、難しいと感じる方が多いかも知れず。意味がよくわからない回もあったことでしょう。それは説明のし損ねも含めて、芸術分野に難題が多い反映もあったでしょう。厳密度もそうで、円周率は3より3.14と詳しくした方が難しいこともあろうし。

その昔、現代美術展へ行った人から、「全然わからなかった」と不満を耳に入れたことがあります。こちらは、どうリアクションすべきか迷いました。一口では答えられなかったからです。その人をかばえばよいのか、それとも作品の方をかばえばよいのかも、即断できません。結局は年月経て、本書の47万字で応じる結果となりましたが。

美術館にピカソ絵画が飾られた場合と、市販トラクターが飾られた場合とでは、どちらも「全然わかりません」という同じ感想が出てきます。その字面は完全に一致しますが、しかし理科問題といじわるクイズほどに別次元です。感想の単語は同一でも、作品の次元は違っています。

その次元の違いを分別しないまま「わからない作品への不満」に急いで回答しても、雲と蜘蛛がごちゃ混ぜの説明となり相手に伝わりません。かといって、ごちゃ混ぜをほぐせば話は長くなるし。現代の芸術が難しいのは錯覚や思い過ごしではなく、現に問題は入り組んでいます。

それとは全く別の本質論もあります。「創造は未知の領域だから、すぐにわかる作品は芸術失格だ」がそう。従来なかった新案を見て、「あり得ない」と違和感や嫌悪を感じてこそ正常だという意味です。「芸術は本来わからないのが当たり前」。この本質論は、現代人がついて行きにくい部分ですが、それでも理屈だけなら納得できることでしょう。

そして制作者は皆この本質論に保護されるから、わからない作品であっても正義を張れます。しかし市販トラクター展示は、橋と端のつながり的なトンチで処理した負い目で、相手にしない側にも正義が生じます。こうして鑑賞者と作者双方の被害意識が空転して、美術界のストレスになっています。いつからかといえば、1910年代からです。
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三大画家タイプとダダ運動タイプの違いは自由度の高さなのか
2017-03-15 Wed 03:40
現代美術への批判で多い言い方が、「自由過ぎるのはよくない」です。「過ぎたるは、なお及ばざるがごとし」だとして。要は「程度の問題」です。控えめな自由は好ましく、行き過ぎた自由は好ましくない意味。自由過ぎた作品で美術界が荒れて、庶民と切れてしまったのだと。

そうならば、ピカソの抽象画は自由過ぎてまずかったと言いたげです。ピカソがもう少し不自由で型にはまった絵にとどめていたら、現代アートのわけわからん状態も防げて、重いため息気分もなかった話になりそうです。ピカソが『青の時代』『新古典主義』で止めていれば・・・

そんな自由主義批判の考えを、この本では全くとっていません。自由の量的な大小は関係ないという視点です。造形のメチャクチャぶりを全く制限しない立場。代わりに、人類のアートをたった二つに分けました。自由の分量ではなく、存在の次元で二つに。

すなわち、表現の手法がどこかで一休さんのトンチに替わった時から、美術の崩壊現象が始まったと解釈します。この要領で現代美術を二つに分けると、急に見通しがきくようになります。ピカソ作品を「三大画家タイプ」、市販トラクターを「ダダ運動タイプ」と定義しました。

土木建設で「橋」を造る時、世間がびっくりするような橋の計画が持ち上がったとします。形がへんてこりんだとか、あぜんとする色だとか。連続しない飛び石型でもよいでしょう。この時、どんなに奇妙キテレツな橋でも、ピカソの絵と同じ次元です。ところが誰かが次の案を出したとします。「端をつくろう」。橋ではなく端を。端を繕う。

美術館のトラクター展示がそれです。ピカソとトラクターとも、人々はトンデモにぶっ飛び、不思議で理解できず混乱したり、狂っていると感じるなど、反応の言葉表現が全く同じです。しかしいくら同じトークで両方ともカバーできても、「橋でない端には中味がないよ」「創造する自由はそういう話じゃないよ」と、お茶を濁さず解説すべきでしょう。
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現代アートが新興宗教みたいに言われないために
2017-03-09 Thu 02:20
現代アートを普及させる活動が国内にいくらかあります。制作ではなく紹介する役目。こちらの味方になる親しさも感じますが、何に苦心しているかで「うーんちょっと」となる点があります。

それは、現代アートを愛護している点です。現代アートは良品の前提。現代アートの良さをわかってもらう意識で、もっともっと多く広く市民に紹介して、大勢に触れてもらって楽しんでもらう方向です。その際に演出される、善玉扱いの部分が引っかかります。

というのも、現代アートにはゲテモノやハッタリも多く、アホらしさや情けなさ、安易さも目立つから。まとめて美化しては、かえってうさんくさい。「現代美術はなぜつまらないのか」の論説に、現代アートのイメージダウンを心配するなど。「そこでびびるか?」「いつから良い子になったの?」「自己批判も御法度?」。

トラクターのネタで触れましたが、現代アート側は同人オタク化に警戒不足でしょう。こんなにおもしろい現代アートがわからない人は駄目、固い、古い、遅れてる、とするだけでは、そのうち新興宗教的と言われもするでしょう。「三大画家タイプ」と「ダダ運動タイプ」を分けずに進めた混迷の、とばっちりでもあるのですが。

音楽でいえば、ピアノを屋上から地面に落として、現代のピアノ曲ですと話を進めるのは、無理な飛躍です。斬新で過激な革新性、未来的な進歩主義が、人類の創作の歴史から切れて脱線しやすい問題です。ピカソのサプライズに勝とうとして、やることがずれてしまった構造問題。

ピアノを破壊した音を、現代版モーツァルトの調べだと納得しない市民を、同調圧力で改心させるのがベターなのか。この本では、現代アートの特異性が、創造の普遍的な特異性と等しいかを重視します。自分では気づけない「時代の乗り」と距離をとれるよう、古代のアートを基準に置いているわけです。現代感覚だけでアートを語っても短命だから。
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世界のアートは大きく二種類に分かれるって?
2017-01-20 Fri 01:38
「難しい、わからない、ちょっと」が普通になっている日本で、鑑賞者が悪いのか、それとも作者が悪いのかを、厳密に調べてみる人は少ないようです。「わからない」の内訳があいまいにされている一面です。

ネットに並ぶ「美術がわからない」についての記事は、互いの攻防にもなっています。見る側は「何が描かれているかわからない」という不満の大合唱で、逆の側は「こう見たらわかる」と未熟者を指導や調教する書き方になっています。

しかしこの本は「現代アートがわかるサイト」に多い、入門者をアート脳へ改造する講座とは全く違います。作る側の論理や意図を説明はしても、学ぶことはすすめません。すすめない理由は、現代アートには中味がないものを展示するという、19世紀以前にはなかった手法があるからです。20世紀に生まれた「特殊解」のアートです。

文化人類史から乖離した特殊解が現代美術にだけ存在し、猫もしゃくしも特殊解に流れたハイな気分は、意外に大事です。もう少し考える人たちは、作品がわからない悩みとは別に、わからないこと同士の横の壁に気づき始めたのです。あっちの「わからない」とこっちの「わからない」は、同じ意味なのだろうかと。

彼らがばくぜんと感じながら、すっきりとうまく言葉にできない焦点。それはピカソの抽象がわからないことと、7億円のトラクターがわからないことは、果たして同じ現象かという点です。「わからない」は全てがイコールなのかという疑問。言葉では容易に言い表しにくい部分です。だから、現に誰も言い出さないわけで。

実は違うのだと、初めて具体的に説明したのが本書でした。現代アート論には、雲と蜘蛛を分別せずに「くもがー」「くもをー」と投げ散らかす話がとても多いのです。そこを思い切って分けると、ごちゃごちゃは整理され一気に見通しがきくようになりました。人類が考えたアートを「三大画家タイプ」と「ダダ運動タイプ」に分けたのです。
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ボードリヤール『芸術の陰謀-消費社会と現代アート』の卓見と穴
2016-10-16 Sun 00:39
フランスの思想家ボードリヤールの『芸術の陰謀-消費社会と現代アート』は、多くのアーティストが共感したのかと思えば、逆みたいです。世界の美術家はあのエッセーに反発しており、不評の論文のようです。

論文のとおりだと、売れている美術家は陰謀でかせぐ立場で、売れない人は陰謀成立を目指す立場です。全ての画家や彫刻家は、陰謀の渦中か手前にいるから不名誉な言われ方にもなり、だから怒りを表明した有名美術家もいたほどです。

ボードリヤールの陰謀論は、美術こそが付加価値ビジネスの極致と指摘した本質論です。いわば図星。送り手と受け手の間でつじつまが合い、被害者もなく丸く収まっている。よく聞く「価格はあってないようなもの」というやつ。このいい加減で奇妙なバランスは、古典も含めた美術全般を考察するには見逃せないツボです。

ボードリヤールの陰謀論は最近知ったのですが、もしかして20世紀中に陰謀の仕組みが、全て表ざたになったのか調べてみました。すると、現代美術論で見落としやすいある穴が、やはり埋まっていない欠損部があります。

ボードリヤールの英知でさえ、作らない立場ゆえ届きにくい芸術の深部がやはりあったのだと。その欠損を解説した世界初はたぶんこちらの本で、陰謀テーマではなくイカサマテーマの回です。

ボードリヤールの本では遠回しに陰謀と呼び、あることがそっくり書いてありません。こちらの本でははっきりイカサマと呼び、そのあることがそっくり書いてあります。これはフランスの限界ではなく、作らない立場から考察した限界だろうと感じます。
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