芸術論に客観性や主観性はあるのか
2017-08-03 Thu 00:44
ネットに限らず、主観を悪とする言い方を目にしませんか。たとえば、「それは単に君の主観にすぎない」「その意見は主観的すぎて許されない」という言い方。他者の主張を退ける時に、内容が主観的だとして失格にする。日本に特有の感覚で、いわゆる事大主義と表裏一体。

主観と客観に触れた章が本書にあります。芸術の価値で最大のツボは、価値が固定しない点だから。「客観的にみて正しい」は論理学的に不正です。「主観的な考え」が間違いなのではなく、「主観的な考えは間違いだ」の考えが間違い。また出ましたよ、難しい話が。

実はかつて人類は、客観的にみて正しい価値を発見しています。それは絶対的に正しい価値として、長い年月続いてきました。人生の全てを、その客観的に正しい価値に捧げた人も大勢います。その客観的に正しい価値は、永続する約束でした。優れた人たちが出した、理想的な最終回答だったのです。何しろ客観的に正しい本物の正解だから。

客観的に正しいと決められた本物の価値とは、共産主義です。ほぼ等しいのが社会主義。今も世界に残っていて、過去形ではありません。客観なるものは、このあたりが正体です。芸術的価値もまた、主観のみ存在します。マラソンのタイムみたいな客観性は芸術にありません。

「芸術の本質は写実デッサンである」という意見と「芸術の本質は表現の裂け目である」という意見で、どちらが客観的に正しいかは永久に決まりません。主観客観の区別は非芸術的です。ありもしない客観性を振り回す側に、むしろ柔軟性はなく。赤よりも青い発想。

客観的な正しさを誇る共産主義に、自由主義社会のアメリカは何と言ったか。「共産主義は主観的な思想だ」「客観的に正しいのはこちら」とは言わず、「国益のために共産主義と戦う」と言いました。客観を頼る者は、きっと弾圧に向かうとの予見。だからアメリカが最も共産主義化させたくなかった国は、事大主義的に映った日本でした。
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売り絵という名のちょっとおもしろい世界
2017-07-28 Fri 00:15
美術ギャラリーの展示の合間や空きスペースで、キャンバス画の小品を在庫販売していることがあります。そこで見た同じ絵が、よそのギャラリーにも置いてあることがあります。同じ絵があちこちにある。

画家が同じ絵を2枚以上まとめてかいて、複数のギャラリーで委託販売しています。これがいわゆる「売り絵」です。『ヨットが浮かぶ海』や『草原に立つ小屋と大木』など、日本人好みの風景画が多いようです。手作業なので、同じ絵でも少しずつ違うのですが。

手慣れた人力版画のようなものですが、量を売るために使い古された作風がほとんどで、入魂の創造性はないものとみなされています。きちんとした仕事ですが、アーティスティックな面でいえばチープでもあり、飾り物のインテリア小物にとどまるでしょう。

著者は銀行の内装工務店の作業経験があり、銀行ロビーに飾る大きい絵を、美術学生バイトを集めてかいてもらったことがありました。埋め草的な役目なので、型にはまった絵です。店舗の雰囲気づくり用の装飾物として、絵画類の需要は意外にあるのです。

その需要で要求されるのは、脇役俳優です。場の主役に躍り出るとアウトで、気になる特異性や事件性、心に引っかかる裂け目があってはまずいはず。引っかからず印象に残らない、芸術性のない作品が求められます。これも売り絵の論理のひとつです。

売り絵は欧米にもあるみたいで、現地通販でも低価格なプリントアートが多くあります。画学生ふうスケッチ画が目立つ日本とは違い、全てが現代アートで抽象も多い。売り絵は当地の平均的な作風になっていると想像できます。その地でどんなアートが一般化しているかを、売り絵で知ることができます。
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具象と抽象のどちらともいえてしまう素材質感絵画
2017-07-22 Sat 01:15
前に「具象画の正体は、実は抽象画でした」という、達観したような結論を出しました。話を一般常識に戻すと、具象画と抽象画の両方にまたがる絵もあります。具象ともいえて、抽象ともいえる、両論が成り立つ絵が現実に存在します。

代表例は、素材質感絵画です。これは土壁みたいな絵。たとえば古い家があるとします。その家の外壁が風雨で傷んで、ガサガサ荒れて崩れ始めている、その質感や肌触り感を再現したような絵です。画材は絵具だけで、壁土は別に使われていませんが。

元はといえば、土壁を模写したスケッチ画ではなく、抽象画として描かれています。絵具をいじっていて、風化した壁に似ていると途中で気づいたわけで、スケッチ作業とは逆の順序で進んでいます。

架空の具象画とは、たとえばマンガの顔がそうですね。モデルがなくても一応は人物画です。同様に、素材質感絵画も静物画に一応できます。ただし、成り立ちは新感覚の抽象図案なので、「具象画の正体は、実は抽象画でした」という真理にやはり適合はします。

ところで日本で、素材質感絵画は支持を得やすいようです。マチエール(絵具を盛った肌触り感)は、昔から油彩画のチャームポイントです。質感や風合いには容易になじめる。そうしたテクスチャー情緒のひとつに、陶芸の素焼き作品がありました。素材感は、日本では最も感情移入しやすい鑑賞のツボになっています。

ところが、ドイツでは苦戦しました。一因は空き家プロジェクトです。古建築は日本ではリフォーム(仕上げ直し)され、ドイツではリユース(再利用)されます。ドイツでは、ガサガサ荒れた素材質感が壁全体に残っています。壁自体がまるでアート。そのホンモノの素材質感壁に、日本から送った素材質感絵画を飾ると埋没して引き立ちません。
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どこからどこまでを現代美術と呼ぶかは範囲が二つある
2017-07-10 Mon 01:12
現代美術という語は、範囲が二とおりあります。日本ではモダンアートは近代美術、コンテンポラリーアートは現代美術です。1960年前後のポップアート以降を、現代カテゴリーとするのが日本での一般論。

ところが、英語でモダンアートは現代美術、コンテンポラリーアートは今の美術です。整理すると、モダンは日本で近代、英語では現代。コンテンポラリーは日本では現代、英語で現今。完全一致しないから、日英の翻訳で調整が必要になります。

日英を合計すれば、1900年代のピカソも現代美術に含まれるから、「現代美術はわからない」という国内事情にうまく合います。それと符合するように、難解で理解及ばぬ特性まで含めるのが日本的な「現代」感覚です。わけがわからんから気をつけろという、警戒マーキングまで込めた言葉が「現代」。

この用法とよく似ているのは、クラシック音楽界の「現代音楽」です。「ギギギー」と弦楽器のきしみ音。静まったとたんに、「ガンガラ・ガッチャーン」と打楽器が鳴り響いて、「バーン・バーン・ババーン」とピアノの鍵盤を足で踏む音。唐突で衝動的で観念的で、近寄りがたいのが現代音楽というイメージ。現代美術と似た使い方です。

現代音楽とアナウンスがあれば、急いでラジオのチャンネルを変えたくなる。が、アメリカではオーケストラ公演ポスターに曲名を書かず、演奏が始まって現代曲と知ってもお客は平気だそう。アメリカで現代音楽は、ずいぶん前から一般化済みとされます。ならば現代美術も同様?。

日本ではコンテンポラリーバレエも含めて、理解不能なのが「現代」。そういうレッテル。だから具象画壇や油絵サークルの画家は、奇抜だと思われるのがいやで現代を名乗らないお約束です。そして、アニメ系のイラストふう人物画などジャパンコンテンポラリーは、古典系と現代系のはざまで居場所がゆらぎます。外国ではそのゾーンが売れるのに。
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ゴッホに無理解な19世紀の人々は情けない面々だったのか
2017-06-10 Sat 01:45
ゴッホの絵に感動した人に、よくある声。「これほど美しく素晴らしい絵を、なぜ同時代の人たちが評価しなかったのかが、僕には理解できません」「ゴッホの時代の人たちは情けない」。もっと昔には、「ゴッホと同時代の人を憎みます」と語り出す舞台演劇もありました。

しかし、今はそれほど違うのかという視点もあります。百年以上過ぎた現代にも新作展は盛んで、絵画や彫刻や環境作品が並びます。今の新作をリアルタイムに見る現代人は、ゴッホの頃の人々と似た反応ではと。僕らからみた昔の彼らは、子孫らからみた今の僕ら。

現代でもこう言うでしょう。「斬新なアートが集まった」「現代の新鮮な空気を感じました」。それと同じように、昔の人も斬新で新鮮な当時のトレンド作品に感激したはず。「じきに忘れられる作品ばかり一堂に集めてどうする気かね?」なんて思う人は、昔も今もいないわけで。

昔も良い作品を称賛して、悪い作品を却下しただけでしょう。最先端の優れた審美眼で、適切に公正に、厳正に選んでいたはず。なのに昔と今で名作が入れ替わる、それは「歴史的審判」という現象です。その理解を抜きにしては芸術に迫れない、最重要語句になっています。

歳月が流れると、感覚も価値観も変わります。変わった後を事前に想像できず、変わる前を事後に想像できません。洋式トイレやAT車どころではなくて。だからゴッホやゴーギャンが大物扱いされている今日は、当時の人にすれば全く驚きです。当時の人はもういないから、現代の選択眼を批判できないだけで。

歴史的審判は一人一人の心変わりではなく、世代交代で起きます。歴史名作は未来人が決めます。『モナリザ』や『浮世絵』も、歴史的審判の番狂わせでした。当時の人にすれば、「なぜ今はそんなのが国宝の座にあるの?」「俺たちの時代のカリスマたちの、あれほど美しく素晴らしい絵はどこへ消えたの?」。これはしかし、明日は我が身。
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棟方志功の版画とすり替わったカラーコピーは実は本物?
2017-05-11 Thu 00:06
棟方志功の版画がカラーコピーにすり替わって、3年以上前の盗難だとされる件。どうでもよいことではなく、業務上横領が広まっている兆候かもと疑う余地があるでしょう。過去にも、博物館入りの郷土出土品が自宅展示されていたケースがあったし。

1972年に初登場したカラーコピー機の最大サイズA3よりも大きいから、いわゆるゼロックスカラーコピーサービスを使った疑いがあります。ならば外注。その機械は棟方志功の生前にはありません。ニュース写真の後壁が白いのにコピーが黄色いのはそのせいかと思わせますが、元から黄色い絵かも知れません。周辺情報が少ないようです。

今のオフィスでカラープリンターを使う人なら、コピー紙であることに早めに気づくでしょう。版画の紙とは違うツヤとテカり。淡い部分や鉛筆の字はまだら状にかすれるなど、転写式コピーは低画質です。

話は横へそれますが、あのカラーコピーはただのゴミではありません。真贋でいえば、れっきとした真物の美術作品になります。こっそり取り替えた不正の意味で偽物だとしても、贋作ではないから本物ですと言うことも実はできるのです。

粗いドットプリンターで出しても、真物の美術品です。呼称は、作者が指示した印刷なら「版画」です。版画の定義は、印刷した作品であり、電気やボタン操作は関係ありません。作者の指示がないと「複製画」となり、あのカラーコピーは真物の複製画と定義できます。

ジクレーでの複写なら、高い再現性で永久にばれなかったかも知れません。6原色以上のジクレープリンターは1997年以降で、この時から水彩画を複製すると目視の判別は困難になりました。外からのドロボウ以外に、対内的な収蔵品セキュリティーの見直しが迫られたのです。
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棟方志功の絵を買った人は複製画をつくってもよいのか
2017-04-20 Thu 01:27
絵画を買うなどして作品の実物を手に入れたら、複製画を作ったり、絵はがきやカレンダーに使うことは容易です。しかし個人や団体に所有を移した絵を、果たして自由に複写してよいのか。ここには、ベルヌ条約という国際的な規約を元にした法律があります。

ベルヌ条約の本部はスイスにあり、文明国はもちろん加盟しています。日本は何と19世紀の1899年(明治32年)に加盟し、創造保護国として欧米文明クラブに所属してきました。そこでは、無形の表現物を守ることに力が入っています。無形なのがミソ。

買った絵画を展示して、鑑賞客から料金をとることは合法です。ところが、絵画を写真に撮ったプリント物を展示して料金をとると違法です。「こんなふうな絵」という目に入るイメージの意匠権は、つくった画家が持ち続けるからです。別人は自由な複写ができないのです。

絵を譲っても、図柄は譲っていない。買った人はブツのみ所有でき、コンテンツは所有できない。ハードウェアは移管でき、ソフトウェアは移管しない。当然ながら、誰が作ったかの名義も動きません。買った人が作者に成り代わって、新しい作者を名乗る権利はないのです。

音楽で考えると簡単で、レコード、テープ、CDを買っても、曲の著作権は入手できません。ダウンロード購入客は聴くだけ。複写したり自分が歌って売る時は別の支払いが必要です。録音テープやマスターテープや音源データを入手してさえ、音を売ったらいけない。音楽も美術も、活用契約を作者や相続者と結ばないといけません。

著作権には時効があり、日本は作者没50年、欧米は70年。ピカソ作品の著作権は、日本ではあと5年の2022年末に失効し、絵の所有者は複製画や絵はがきを作れます(一部の戦勝国に財産権がない場合)。しかし買ったのがジクレーなら、撮影者とデジタル編集者にも著作権があり、そちらとの交渉が別途必要です。
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ゴッホの絵は生前に本当は何枚売れたのか
2017-04-11 Tue 00:20
ゴッホは生涯絵が一枚も売れなかった説があります。売れ数ゼロ説は、後世の画家の発言に比較的よくみられました。高階秀爾編集の小型画集『ゴッホ』では、一枚だけ売れたとありました。本書は一枚説をとっていますが、もっと売れていた俗説もあります。ただし・・・

ゴッホは実は売れっ子だったという説は、認知の不整合を埋める目的でよく出てきます。当時は売れず今は最大級の巨匠である。その食い違いの違和感を消そうとして、実は当時から大物だったのだという話へ書き換えたくなる人情です。後世の美化というもの。

不整合をつじつま合わせする弁舌で多いのが、「ゴッホは自分の優秀さを知っていて、絵を売らなかったので、だから売れなかった」というもの。この売り惜しみ説は当然ながら書簡集と合わず、同業の画家からも出ない解釈であり、ネットの電波説垂れ流しの一面でしょう。

補足したい情報もあります。ゴッホが周囲に絵を進呈していた点です。無料配布の行動。金品の見返りがあったり、引き換えに何かを世話してもらっていたら、売ったのと同じ意味になるかも知れませんね。

ゴッホが知人に絵をあげていたのは、死後を託す気もあったと考えられます。公開して不評だった上に、サロンなど業界人や運動仲間にも相手にされず、少しでも世に残そうとの自然な作家心理です。買ってくれないなら、あげるしかない。リアルタイムにゴッホの絵を価値なしと判定した人の中に、セザンヌとゴーギャンも含まれます。

皆いらないから、捨てた絵もあったでしょう。一部は絵心のある人が加筆したそう。ゴッホ絵画で儲けた人は、周囲に皆無とわかっています。くれくれと言い、借りて返さないとか、ひそかに盗んだ人もおらず。ある画商が後に回顧展を開いたら、やはり相手にされず、彼の19世紀は終わりました。書簡集の出版は、ピカソのあの問題作よりも後です。
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ゴッホは本当に統合失調症だったのか
2017-03-27 Mon 01:10
あの美術家は頭がおかしい、この画家は狂っているという話題は、昔からありました。一番多く言われたのは、おそらくピカソでしょう。一方で日本で最近、「ゴッホは統合失調症だ」とする説が多くみられます。この説はもっともらしいデマです。通りのよいデマです。

そもそも「統合失調症」という近年よく聞く精神病には、周囲が気づく陽性症状があります。関係妄想や思考障害、テレパシーやさとられ系の脳内乗っ取りを体感し訴えるのです。隠せない病気。罹患初期に最多の症状は、自分の周囲の人々がグルになって自分を見張り、悪口を言ったり信号を送ってきて、じわじわ弱らせ殺そうとする被害妄想です。

今ではゴッホの人生はすっかり丸はだか状態で、何といっても弟テオに宛てた膨大な手紙(書簡集)が証拠として残っています。本一冊などの規模ではない、巨大な遺品です。書簡集で、ゴッホに統合失調症の症状がみられないとわかっています。当時のゴッホは、日常の出来事や思いを細かく書いていました。遠回しの仕送り継続願いがほとんど。

ならば、ゴッホを統合失調症とする説は、誰が何の目的で書いたのか。書く動機が脳科学の研究対象にできます。このテーマ「芸術は難しい、現代美術はわからない、抽象はちょっと」と深く関係するのかも知れません。たとえば、わからない者による逆襲です。

すなわち、ゴッホ絵画がわからない者が、自己弁護でデマを流した疑いです。当時の周囲はゴッホを天才や狂人ではなく、持っていない画家と認識しました。今になって面識のない、遠い時代の遠い人のみゴッホを狂人と言い出すのは、ゴッホ絵画にはじかれた傷心の挽回かも。

芸術がわからない中にも意識高い系がいても当然で、ピカソは精神病と宣告した人は、ピカソと面識のない医者でした。上流階級の高い地位。自分がわからない絵の作者を「あっちの人」へと切り離すことで、創造に理解及ばぬ自分を正当化するステマ的な印象操作でしょう。「ゴッホは統合失調症」も、この線で疑ってみることができるかも知れません。
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