政府が芸術活動を指導したジダーノフ批判を批判しにくい理由
2017-10-05 Thu 00:40
『ジダーノフ批判』なる語を聞きます。ソヴィエト連邦政府が1948年に始めた、芸術の検閲と指導です。国内アーティストたちの20世紀アヴァンギャルド芸術をやめさせ、社会主義リアリズムへ転向させたプロパガンダ。このジダーノフ批判への批判が珍しいのはなぜか。

クラシック音楽界のいきさつが記録され、ショスタコーヴィチの作風をソ連政府がヘイトしたプラウダ批判の、続編と考えられます。民族的で伝統的な作風へ戻させ、改心しないアーティストに国が悪のレッテルを貼り、食えなくするわけです。当然、西側国へ亡命する作曲家が続出しました。フランスやアメリカへ。

これとよく似たのが、ナチスドイツが開催した『退廃芸術展』でした。作風が腐敗した絵画を国内で一堂に集めて公開展示し、皆で馬鹿にして最後に焼却して社会を浄化するイベントでした。カンディンスキーやシャガール、ゴッホの絵も含まれたそうで。世界に害毒をまき散らす狂人たちの絵をなくして、美しい社会へと昇華させるために。

ジダーノフ批判は表現の自由をつぶした国家権力の黒歴史ですが、この恐怖政治を批判する声は少なくとも日本ではあまり聞こえません。なぜか。当時バツだった曲とマルの曲を聴きくらべるとわかります。

ソ連のスターリンは「芸術は難しい、現代音楽はわからない、抽象曲はちょっと」の人であり、簡単でわかりやすく親近感のある、明るく楽しい音楽を愛好しました。日本でも大勢の趣味はスターリンと合い、同じ曲に心奪われるでしょう。クリエイトよりノスタルジーに魅了されるのも、世の普遍性のひとつ。

「ヒトラーもスターリンも、アートでポピュリズム行政を実行した」と理解は簡単です。しかし二人が嫌った作品が、今の自分が苦手な作品と一致すれば、ポピュリズム批判もトーンダウン必至。かといって賛同もできず。ちなみに、日本でも総理大臣賞や文化勲章でマルはつけます。マルがつかない作風は一応冷遇の意味です。
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現代アートのアカデミズム化とカルト化
2017-07-31 Mon 01:06
本書は美術の見方を習得する教科書ではなく、美術がわからない原因を解き明かすミステリー本です。焦点のひとつは、現代美術が日本で特殊化している事態です。現代美術が一般化せず、敬遠の敬意を受ける点。一般化していないから、一般には売れない作品たち。

現代美術の見方を教える本や説明記事は、次のような論調です。「現代美術がわからない人は、頭が古くて固くて価値観が後向きなのである」「だから新しい現代感覚について行けずにいる」「新しいものの見方や現代的センスを身につけさせて、わかる人へと変身させてあげる」。

それらは、現代アートを「正」として中心に置いています。わからない人は「誤」にとどまる遅れた人、劣った人の扱い。時代遅れの古くさい劣った人に手を焼く雰囲気が、「現代アートをわかろう」サイトにただよっています。

本書はその考えとは違い、現代アート作品への懐疑派です。「中味のない表現がやたら増えた時代」の視点がミソで、現代アートの欠点もたくさん書いています。ブラックボックス展は芸術とは別ものと示唆したのも、おそらく世界で唯一。現代アート万歳でない点が、現代アート愛好本との違い。アートエリート層にとって、挑戦的な話題も多い本書。

「正」の顔をし始めた現代アート側に、アカデミズム化の面が出始めています。アカデミズムの特徴は、権威性、正統性、保守性、閉鎖性。だがしかし、実際の日本で現代アートは特殊化、サブアート化しているのだから、何かが無理しているのです。

舞台の幕間(まくあい)の色物芸的な役割に、日本の現代アートが置かれている自覚も必要かも知れません。「わからん」という者に、「それはあなたが古い人間だからです」と改心を促すばかりでは、一般化には向かわず逆にカルト化するでしょう。
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芸術は人類のロストテクノロジーといえそうな状態
2017-06-28 Wed 00:24
本書は「現代美術がわかる」系に多い「視野を広げなさい」という説教をやりません。理由は文明の大進歩と並行して、文化がやせ衰えていく背景を感じているからです。芸術の衰弱が、ヒトという種に起きている疑いです。誰も免れないし、著者も含まれるであろうから。

時間とともに、よりゆるい作品を作る作者と、よりゆるい作品に好感を持つ鑑賞者が、同時に増えている疑いです。というのは、大昔の作品ほどビシッとキレて彫りが深く、きつい感じがあるから。新しい作品ほど彫りが浅く、ゆるんだ感じ。作業用刃物の、鋭利の差ではなくて。

古代アート展を見て、「すごい、昔はガチなんだ」と多くが驚きます。しかしそのガチな遺物にインスパイアされた現代作品は、甘いいやし系に寄った作風に必ずなります。キレキレ感は、結局は、古代アートだけの専売特許のまま。しかも今、キレた新作があれば敬遠する自分がいるはず。ぬるいものがしっくりくる自分が中心にいるはず。

それを指して「芸術は変わった」とは結論しないで、「衰えた」の視点で考え直しました。自分たちの時代を中心にすえて昔を見下ろすのを、やめてみるわけです。そうして、芸術がロストテクノロジーになりつつある疑いに、本書で繰り返し触れました。

そこに着眼した発端は、ガラクタ集積作品でした。アートの迫力を手で生み出せない現実が、ダブルで読み取れます。調べてみると、古代にはあったキレが中世にはすでに消えていました。造形バリエーションを広げてきた歴史にみえても、実はキレを失う歴史だったのです。薄れゆくガチ感イコール薄れゆく芸術性だとすれば、事態が説明できます。

現代人は芸術の語にはあこがれても、その実体には気おくれしやすい。キレた濃さに目を見張りはしても、新たに作ってみれば鈍く希薄な作風になりがち。切れず、さく裂せず、ゆるい現代。証拠として、後年ほどのっぺらぼうに向かい続けたある伝統アートを解説しています。
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抽象画がつまらないと感じる無理もない理由
2017-02-28 Tue 02:17
現代美術がわからない問題の核心は、三大画家タイプの7億ピカソと、ダダ運動タイプの7億トラクターを分別しない混沌もありました。一応は美術界の失敗でした。

それとは全く別の問題に、抽象アートがあります。この本の中で、抽象は何度も何度も切り口を変えて説明しています。なぜそこに重点を置くかは、具象と抽象の違いはそれ自体が抽象思考だからです。「抽象」の語も抽象語だし。これは脳のはたらきの問題ともいえて、今世紀最大のテーマ「ブレイン」の世界です。

問題をいったん現実的にします。抽象画にピンとこないその時、具象画にピンとこない時よりも事情は複雑です。というのも、抽象画は傑作になりにくいから。100点作って傑作は、具象なら5点、抽象なら1点程度。テキトーな数字ですが、抽象画を極める方が難しいのです。具象画家より抽象画家の方が、いばらの道。

だから抽象画がつまらないと鑑賞者が感じても、原因が当人の抽象アレルギーか、作者の制作能力かは、一段と特定困難です。特定できる場合があるとすれば「具象はわかり抽象はわからない」と、はっきり分かれる人がそうでしょう。わかる抽象が一個もない人なら、そりゃ抽象アレルギーだなという、その程度。

ある抽象画にピンとこない時、その感覚が正しいかも知れないのです。その抽象画がスカの作品だった時がそうで、しかも抽象画の方がスカ率が圧倒的に高い。つまり、人々が抽象画の方に幻滅しやすくなる確率の片寄りがあります。見せ場をつくる難易度からして違うから。

作り手は濃い内容の抽象作品づくりが苦手で、受け手は抽象作品から濃い内容を受け取るのが苦手と、送信と受信のそれぞれがともにしくじる率が高い。抽象のこの特性も含めて、「抽象はちょっと」の世論ができています。日本で目立ちますが、世界的にその傾向はあります。ちなみに『曜変天目茶碗』は抽象美術です。
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世のアーティストたちは本当に芸術をわかっているのか
2017-01-26 Thu 01:15
美術入門者の中で深く考えるタイプは、こう感じたのです。「美術界がわからない」と。作品よりも美術界。業界自体がよくわからない世界だなあと。美術界は何を信条として、いったい何屋さんなのかと。

アートの概念とアーティストの定義を広げることへの執着は何か。実はアーティスト自身がピカソがわからなかったせいで、横へ流れているのではないか、という疑惑です。このタブーともいえる疑いが可能になる根拠は、アートの意味をずらしたりねじった作品の多さ、アートでないトンチ領域へ飛翔する作者の多さです。作る放棄の多さ。

市販のトラクターが農家に納品されると、146万円。それを美術館に納品すると、7億円のアート作品になるパターン。このタイプのコンセプチュアルな作品たちは、「ピカソはわからない」へのリアクションが立脚点かも知れない疑いです。時代のタイミングからみても。

「わからないものが芸術さ」という、ピカソで生じた一般通念が初めにありきです。そこを基準に、コンテンポラリーアートはわからないものを求めています。謎の大きさでピカソを上回るために。わからない印象を与える近道で、トラクターを選んだ疑いがあるのです。作品のわけがわからないと皆に言って欲しくて。名目でピカソを超えようと。

「芸術はわからないもの、奇妙、謎」というピカソが原因で出来上がったイメージに、後発の作者たちが引っかけようとした疑いです。造形では勝負にならなかったから、トンチの領域へ場を移して。わからなくすることが主目的になったとも、言い替えられるでしょう。

振り返りますが、「それならピカソがわからないのは何だったのか?」「美術館にトラクターを置くことと、ピカソ絵画を置くことは、同質の不思議をもたらせるのか?」という、その話が実は世の中に抜けていたのです。日本に限らず世界で。雲と蜘蛛を区別せず「くも」でぼかした現代美術論とは、そういう意味のたとえです。難しい話ですが。
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アート作品の理解とはマルをつける意味なのか
2017-01-23 Mon 01:49
「わかる」とはどうなることなのか、本書で少し触れています。少しにとどめたのは、細かい話に向かうと哲学的な突き詰め方になって、日常の感覚から離れてしまうからでした。先進国中で日本の最大の問題は、アートを特殊領域に追いやっている点なのだから。

ここで今「わかる」とは別の「理解する」の意味について、本書にない話題を用意しました。作品を理解するというのは、そのまま「いいね」をポチっと押すナイス表明とは限らないというお話です。

たとえば国際問題で「理解を求める」の理解は、相手に何かを許可してもらったり、反対意見を取り下げてもらう意味が多いのです。元はNOだったのを、YESに変えてもらう場合もあります。同意の意味です。理解は賛成。しかしこれが家庭問題ならどうでしょうか。

「恋愛は誤解で始まり、理解で終わる」という格言があって、理解し合うことで関係がつぶれることがあります。理解は賛成などではなくて。こちらの意味が、美術作品には適するでしょう。美術の理解は国際問題ではなく、家庭問題と似ているのです。作品を正しく理解した結果の、作品否定があり得るという話です。理解しての駄目出し。

作品がよくわからないせいで、何となく好感を持つことはあり得ます。それが一転して理解が進むと、つぶれてしまう展開です。美術にそれが起きてもよい、そういう理解も当然あるとするのが、本書の立場です。この本は理解が目的です。美術の美化はやらず、愛好は後回しで。

人々がアートの本質を誤解しているおかげで、美術制作者の利になっている面も実はあるのです。きちんと本質を理解したら冷や水になって、幻滅して去っていく人が増える恐れと背中合わせ。実は本書は、紙製本の時代に出版社に何度か断られていました。内輪の機嫌を損ねる内情はちょっと、という意見がついてきて。別に暴露本ではなかったのに。
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出版時にはうまく書けなかった現代美術の閉じた空気
2017-01-17 Tue 02:05
この本を出した時点では、うまく書けなかった話があります。美術特有の閉じた空気です。たとえばネット上にアート専門サイトがあります。画家やギャラリーや美術館へのリンクが並んだ、2000年代半ばに流行った相互リンクサイトなどもそう。

その集合体の雰囲気は内向きです。美術界の内向的な気分が伝わってきて。どこで切ってもアート界の内輪、好事家や同人の集いを思わせて。部外の一般読者が立ち寄っても、その空気自体に壁があるのです。美術を理解する壁というより、美術がガードされた壁のようなもの。

美術に近づきたい人は、業界の空気に染まる気はないでしょう。美術界に同化し、内輪の一員となるのは本望でないでしょう。美術脳とは違う価値観を持つ一般人を排除するような、その暗黙の圧が美術に触れる人にとってはハードルです。

現代美術は全面肯定され、わからない者は改めよ式の話になっていますよね。鑑賞者が心を入れ替えて所属を移せば、アートがわかり始める想定で固められていて。幾多の「わかるサイト」も似ています。その部分に潜む問題が著者にはうまく書けなかったのです。どこに照準を合わせるかが複雑で。

一般人とは切れた場で称賛し合う同人感覚が、現代アートの固いガードをつくっています。外に対して自由と多様性とリベラルをうたい、中は緊張のない集まりというか。外からみて、十全でない現代アートのどこが時代の歪みを負っているかぐらい、スルーせずオープンに語らないのだろうかというのが正直な実感で。

仮想的な例ですが、農業用トラクターが展示室に置かれ、「現代巨匠の既製品アートで7億円です」と聞いた市民は思うはず。おバカな作品に誰も突っ込まないのかと。「トラクターの美はアートです」と、わかったように身内アゲされても・・・。価値は業界が決め、人々は追認して入信するか、縁切りするかの二択なのは困った状態です。
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