身近にあるアートを見て回れば、アートは身近な存在になる!
2017-06-22 Thu 01:09
ダリほどの超大物でも、盛大な展覧会で大勢があれれっと拍子抜けすることもある美術の不思議。美術館の不思議。企画の不思議。これは美術のよくある現象です。では、世に知られない作品だとどうなるか。そのおもしろさに気づいた人がいました。

ある高齢者から、現代美術展示巡りの趣味を聞きました。街中で小さな現代美術展を見かけると、必ず入ってみるという。わからないからおもしろい、どういうつもりで作ったかを考えるのが楽しいという話。謎に翻弄されるのが魅力で、古典美術よりも謎が多い現代ものを狙うと。

とりあえず東京や地方都市で、街中の小さい現代アート発表会や片隅のギャラリー展に、片っ端から全部入ってみると・・・。ローラー作戦のように。すると、意表をつくおもしろいものが意外に見られるのです。これはどういうことでしょう。

鑑賞者は普通、名作を原点にすえて考えます。お墨付きを頼り、受け身の鑑賞で済ませがち。最高級の優れモノだけ相手にしたいビギナー心理もあろうし。ところが街のギャラリー数十軒に入ってみると、美術館では起きなかった別の体験が開けます。

「美術館という晴れ舞台に期待しすぎたせいで、心理の落差が生じた」という話とは少し違います。武道館コンサートとくらべようのない小さいクラブのギグにも、人の力量は費やされている点に注目です。小クラブの出演も、内容は特に劣らないこともしょっちゅう。ネームバリューと出来が比例しない、能力分布の実態といえます。

音楽で、教科書の曲だけでは感慨がない状態も似ているかも。たまたま知らない盤を間違って買うと当たりだった、それが美術でも起きます。「現代の代表的画家は誰?」と問われると、とっさに耳なじみの美術家と芸能人が浮かびませんか。受け売りの境遇から出る方法として、近場のミニ美術展を視察するのは安上りの近道です。
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絵を二度見るとおもしろい物語ができる
2017-06-16 Fri 01:55
昔見た絵を時間をおいてまた見ると、案外おもしろいのです。絵の事情から、自分の事情がつくられるから。自分の物語ができます。過去に見た絵の元へもう一度駆けつけると、きっと何かがわかるはず。

映画で経験はありませんか。映画館で観たずっと後でテレビ放映で改めて見て、印象が違うことが。縦横比の違いで画面の左右は切れますが、たとえば色なども。あるシーンで赤い服だった記憶が、後で見ると黄色だったりなど。こんな映画だったっけと。

ある映画。列車の座席に立てたアタッシェケースを殺し屋が両手で無理にこじあけると、ガスが噴出してひるみ、格闘になるシーン。しかし年月経て著者がDVDを買うと、アタッシェケースは床に平置きで、殺し屋はしゃがみ、片手でロック解除してあけるとガスが噴出。細部が全然違います。別の映画と記憶が混じっていたようです。

絵に再会すると、映画などと同様に細部の記憶違いに気づき、特に反動がよく起きます。つまり最初とは逆のことを、二度目に感じます。最初にガーンと強い絵だったら、次回はずいぶん繊細に感じたり。あたかも歴史的審判を短縮したような、振幅の大きいぶれが生じます。

ある面を初見で強く受け取って、作品は脳に片寄ってストックされるのでしょう。これは公募展の審査が、後世の目とかけ離れる理由といえそうです。審査時間によっては、細かく描き込まれた絵が優位なことも。微細な光景に快が生じる、ヒトの視力の問題もありそう。

そうした初見の印象の凹凸をならすように、多人数が何度もチェックした結果が歴史名作です。一人が一作品を一度だけ見て終わりでは、確かに何もわからなくて当然といえるでしょう。音楽も一度聴いて二度聴かないなら、難しくてピンとこない曲ばかりになります。同一作品を複数回見るだけで、アートにぐっと近づけます。
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ゴッホとピカソの話題が多い芸術的な理由
2017-05-29 Mon 01:35
本書に、ゴッホとピカソの話題が多くあります。近代画家である二人の出番が多い割には、最近の現代画家の話が少なめである理由に、二人の知名度があります。ネットで「わからない」「価値が理解できない」の意見は、この二人に集中しているのです。第三位以下を引き離して。

二人の作風は独立峰で、典型的な創造作品として芸術の説明にのせやすい点もあります。二人の画期的な作品は、当時はサイテー評価でした。美術誌が推薦したり、日刊新聞がほめあげたりもせず。無視のゴッホと違い、ピカソへの悪口はすさまじかった。権威あるアカデミズムの立場でなく、在野のアヴァンギャルドアート出身も共通。

名前を聞けば、たいていの人は絵を思い浮かべられます。わざわざ知られない画家の紹介から始めて、それを題材に美術のツボの話を始めるのでは、読む方はおもしろくないでしょう。

ゴッホもピカソも、オークションの最高額を競いました。二人より古いルネサンスなどの作品はもっと高いものの、オークションに出ないから話題にあまりならないのが難点。二人は新しい割に非常に高額で知名度抜群だから、世間の話題にもあがりやすい。

そしてまた、二人の作品に決定的な違いがあって、その違いが西洋美術史の大きい変革を説明する題材になります。つまり二人の時間が、実の詰まった前衛芸術の時代だったわけです。今日のように、事前に資本を用意して投機計画を立て、国際スターアーティストを故意につくり出す陰謀まがいの方式は、二人よりも後の時代に始まったものです。

本書では、現代はデザインの時代かと仮説を立てました。一人が許容できる芸術作品は、昔より範囲が狭いと推測しています。何でも知りながら、ほとんどピンとこない現代人。かくして、芸術が現代人の手に余るようになった人類の運命にこそ、謎解きの字数を多く当てたのです。
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廃墟の美は失楽園への郷愁なのか
2017-05-05 Fri 01:15
長崎県の『軍艦島』も世界遺産となりました。今は廃墟の顔役ですが、稼働時はモダンで暮らし向きのよいコンパクト都市でした。新しい廃墟ブームは、70年代末のポストモダンで始まった記憶があります。荒れて朽ちゆく身近な廃屋から、解体中のビルへと関心が広がり、ゴーストタウンを探検する楽しみも加わりました。

廃墟の美は過去にもよく論じられました。「バラの花」や「裸婦」などのアカデミックな美ではなく、アヴァンギャルドな美です。学問として習得する高尚な美とは逆の、くだけてかっこよくて、迫力とスリルを含むハプニング系。新鮮さと解放感もあって。

人がなぜ廃墟に美を感じるかは、「栄華と没落の対比」がよく言われます。失楽園の、諸行無常の響き。しかしどちらかといえば、ぶっ壊れた状態が絶対的な美だという気がします。過ぎし年月への郷愁は文学的な読み方で、普通はそんな詩人の目では見ないような気が。

ちょっとわきへそれますが、「絶対的に美しい」と「絶対に美しい」は意味が全く違います。前者は普遍性を込めた評価であり、後者は当人の実感です。廃墟は普遍的な、民族を超えた美であろうと考えます。その普遍性とは、故意性のないリアル感でしょうか。

奇岩景勝は廃墟とは違います。廃墟は元が人工物です。故意の造形が、自然崩壊した偶発的なアレンジです。容赦ないダーティーぶりが廃墟の特質。整理とは逆の複雑化したカオスで、視覚情報量が増えています。教科書で教えにくい、ルールのない美です。

廃墟には気づかいやさじ加減の跡がないから、迫真的でおもしろいのでしょう。人がブレーキをかけないから、アート作品によく見るグズグズ感が一掃され、きっぱりして鋭い。ヤラセでなくガチ。人の手が入ると丸まっていき、人の手を離れるととんがっていく。作ると死んで、壊すと生きる。こうした芸術の普遍性です。
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本当の本当は、誰もが最初からわかっている抽象造形
2017-03-18 Sat 01:20
日本に伝統的な絵画の型が色々とあります。「梅にウグイス」「竹林」「鯉の滝のぼり」など。日本画の団体展でも見かけて、カタログショッピングにもそうした伝統スタイルの絵画や版画が用意され、外国向けのみやげ品にもなって人気です。

そんな定番のひとつに「富士山」があります。「赤富士」「雪の富士」「夏富士と鶴」をはじめ、膨大なパターンが普及していて。江戸や明治の浮世絵にも登場し、古典的な題材としても定着済みです。そこに大きい謎があります。

富士山を描くと具象画に分類されます。具象画だから誰にもわかるし、味わうのも楽勝。しかし、山自体は抽象的な形状です。要するに円すい台。元の幾何学図形のカクカクを、有機曲線に調整した立体作品みたいなものであり、造形作家の抽象オブジェと差がありません。富士山自体は、言うなれば巨大な抽象彫刻です。

なのに、それを描くと具象画と呼んでいます。具象画の正体は、抽象物を写した絵だった。描かれたモチーフは抽象彫刻相当なのに、皆がよくわかって悩みなし。「抽象はちょっと」「抽象がわかるやつは狂っている!」となっていません。山も抽象、その絵も抽象。なのにわかる。

富士山を自動車に置き替えます。フェラーリとか。車もやはり抽象造形です。車は、車以外に似ていませんし。しかし、「抽象車はわからないから、僕らにもわかる具象車が欲しい」という要望はまずありません。こうして世の中を見回せば、抽象的な物体ばかりです。万物みな抽象。梅もウグイスも竹も鯉も滝も、バラも裸婦も抽象的な形。

すると、抽象画や抽象彫刻がわからない声は何なのか。逆に、具象的な形は本当にあるのか?。どうも人が美術に向かう時に限って、心が固く緊張している疑いがあります。鑑賞のプレッシャーで平常心を失うなどして、コチコチの心理的ガードができてしまう。心因性のトラウマなのか、条件反射なのかは、脳科学の出番かも。
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抽象画がわかる人は何を考えているのか
2017-03-03 Fri 02:18
「具象画のみわかる」という人はいても、「抽象画のみわかる」という人はいませんよね。抽象画がわかれば、具象画もわかるから。抽は具をカバーし、具は抽を必ずしもカバーしない。

つまり抽象画がわかれば、全ての絵がわかり、芸術の全体像が読める。これがどういう話になるかといえば、具象のみわかる状態は、脳の一部が機能停止している疑いです。こんな話は、美術界で誰もやりません。脳科学界なら平気でも、美術界では苦手な話なのでしょう。

「抽象なんて全然わからん」という人は、「それならわかる人は、抽象画をどう見ているのか?」と疑問を持つのもよいでしょう。実は一番多いのは、音楽を聴くように絵を見ているという回答です。わかる人たちは、絵を分析していませんでした。「これは何?」と分析しない。

大脳の左脳と右脳の機能分担はあるそうです。が、どちらを優先するかで、タイプが分かれる説はウソと近年わかっています。ただ、脳の思考がスイッチみたいに切り替わる瞬間は、普通に体験します。誰でも日常的に抽象思考を使っています。『曜変天目茶碗』も、「抽象だからわからない」という話題には向かっていません。

脳の思考が大変化する体験のひとつが、いじわるクイズです。答を知る人と知らない人の落差がすごい。クイズが解けずに答を聞くと、「そんな発想もあるのか」と別世界が認知範囲の外に開けていることに気づきます。「それだけのことだったのか」と拍子抜けが起きることも。

謎かけの極致は超能力で、種明かしを知った人はしばしば混乱します。答の方が信じられなかったり、認知のずれが解消しにくい。が、抽象画がわかった時には、このような混乱も拍子抜けも起きません。具象を抽象に含めて認識し、スイッチショックが小さいと考えられます。
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わからない作品を、わからない解説がもっとわからなくする
2016-10-04 Tue 00:16
ネットのあちこちに「芸術は難しい」「現代美術はわからない」「抽象はちょっと」が書かれています。対して「全然難しくなんかない」「こうやって見りゃ簡単だよ」と親切な解決アドバイスもありますが、最後に「やっぱ難しいね」で締めくくっていたりして。難しいも簡単も、何となく同じ感覚の表面と裏面のような・・・

ネットでアート否定の記述が増殖しているのは問題だから、減らそうと思い立ちました。難しい、わからない、ちょっと、は大半が匿名で、飾ることなく実感が吐露されており、世論アンケートより精度のよい統計でしょう。何が彼らにそう言わせたかを、まず突き止めないと。

鑑賞者は現代アート作品に接して「?」となって、そこで現代アート解説に支えられて「なるほど」となるはずが、しかし全然ならない。ブツで感じた謎は、テキストでグチャグチャにからまってしまうのがオチ。これは作品と解説が合っていないからだと、目星をつけています。

作品と解説が合わない理由は、現代美術を作らない人が執筆しているのも一因でしょう。たとえばフェンシングの魅力を、プレーしない人が論じるようなずれ方が、美術評論全般にあります。アウトした視点の良さも一応あるとしても、核心のぼやけ方が常に気になるのです。

この本は、美術制作者の言葉で構成されています。美術論壇に多い、核心の当てずっぽう解釈や、特有の話の回し方や着陸のさせ方はありません。書き下ろしエッセーではなく、実際に人から寄せられた疑問に答えた記録を中心としたものです。難解な単語で煙に巻くことなく、普通の日常感覚で述べています。

偉大な芸術家を見上げた絶賛べたべたの論調でもなく、軽薄なゲージツ屋を見下ろした冷ややか論調でもなく。作者の行動に何が込められているのか、横から目線の同業者観察や、自己反省的なインサイダー情報が多くなっています。
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現代アートがわからない責任は誰にあるのか
2016-09-18 Sun 01:08
ネットのニュースや意見交換の場で見かけるコメントに、「文章が長すぎる、3行にまとめてくれ」というのがあります。200行ぐらいある評論記事への苦情ですが、これが現代美術を鑑賞する時にひそむ問題と似ています。

苦情を書いた人は、いわゆる読解力(どっかいりょく)が乏しい可能性があります。長文だと頭に入らず、うんと短く要約してようやく頭に入るタイプだとか。

しかし逆の問題も考えられ、文章のまとまりが悪く内容が散らかっていて、成果品の体をなさない悪文になっている可能性もあるのです。だから、受け手と送り手の、どちらにも嫌疑はかかります。

美術で「作品が難しすぎる、わかるように作ってくれ」が出た場合も、同様にどちらの可能性もあるのです。そして実際の責任配分が、半々だったらどうすればよいのか。鑑賞者と作者の、両方ともに難点がある場合・・・

鑑賞者がダメなんだという主張も、作者がダメなんだという主張も、どちらも的中しないわけです。こうした「話のわからない一方的な説教」ばかりが目に入ってくれば、白けちゃって美術をわかる気もしぼむでしょう。適切な批評が出にくい環境は、意外に致命的です。

鑑賞者と作者の落ち度が10対0なのか、0対10なのかを単純化して片寄せた話だと、国民はピンときません。しかしまた5対5なら、見る人と作品が和解できないでしょう。さて、どうするか。
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現代美術がわかるようにする特別なスペシャル特集
2016-09-17 Sat 21:37
美術や芸術なんかわからなくてもいいやと、あきらめてしまっている方へ。一回きりの人生だから、そこの空白を埋めませんか。

美術について何かひとつだけ知りたいことはありませんか?と問われたとすれば。「現代美術がわからない」と、多くが感じているのではと思います。モダンアートもコンテンポラリーアートも、なーんか難しくて意味不明で、何も伝わってこない。だから楽しめないという相談が多そうです。

でもこれって注意が必要です。それがひどいのは実は日本だから。他国にはわかる人が多いことは、意外に知られていません。外国にはわからないと訴える人が少ないのです。アートが難しいという生涯の悩みは、日本人に突出している面があります。これは日本病といえます。

日本人が現代美術が苦手で、現代以外の古い美術全般も苦手なのは、日本国内に良い情報が出回っていないか、悪い情報が多いからかもと疑ったことはありませんか。誤解をまねく情報が幅をきかせていて、真面目に勉強するとかえってずれていく構造がある疑惑です。

「美術がわからない」と日本国内でこれほど言われ続けるのは、日本語の美術情報に共通した欠陥があると考えてもよいはず。このサイトは、その部分を謎解きするものです。

ただしここでは美術の見方を教え込まないし、現代美術の魅力を説教しません。それだと昔のオンガク(音が苦)の二の舞ですから。美が苦はパスしましょう。それよりも、美術でいったい何が起きているかを説明します。アートの何がどうなっているのか、どこがあれなのか、耳寄りのヒントを発信します。
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