実物を直接見ないと作品の芸術性は伝わらないのか
2017-08-21 Mon 01:00
画集などで絵画を見て、後で実物の絵を見ると印象がかなり違います。差分が芸術性だと思いがちですが、そうではないと著者は考えます。印刷物にしたからといって芸術性は消えたりしない、という考え。写真や印刷で伝わる範囲内に芸術性は宿る、という仮説です。写真だって芸術だからという、そんな意味ではなくて。

今の人が西洋の名画を見て驚くのは、デカさです。横長どころか縦にも高く、圧倒されます。たとえばレンブラントの『夜景』は面積が100号の7.5倍。周囲が切断される前は9.3倍になる計算。実物の第一印象はデカァ。切断後でもフランス号数で753号相当。一方、人気の印象派の絵は思ったより小さく、少々がっかりという声も。

サイズへの感慨は、芸術的な感動ではないとすぐに理解できます。にもかかわらず大きさで感動の量が左右されるのは、見逃せない事実です。感動の内訳に、芸術性と異なる成分が常に含まれていることが類推できます。芸術以外に感動する現実。

著者の着眼は、小さく印刷してなお一目見てピンとくる説得力が、芸術性だという考え方です。芸術性は、画質の悪い画集でも消えずに残る点がミソ。細かい話ではないという。

つまり印刷物にすれば、芸術性を抽出できます。大きさの衝撃が感動に混じり込むのを、フィルターや遠心分離機みたいに除去できる。芸術性の高い低いは、図版にするとばれる。撮影して見栄えが落ちた絵ほど、芸術性が乏しい事実が発覚した状態といえます。

「でも実物を見れば感動しますよ、全然違いますよ」という声は根強いはず。これは芸術性と違う何かに心を動かされることが、もう当たり前になっているせいでしょう。自覚もなくなって。実物礼賛で多いのは、間近で見たマチエール(絵具のテクスチャー)の感動です。しかし人の魅力と同じで、素肌美人を競うのは本質でないはず。
スポンサーサイト
関連記事
別窓 | ココが大事な焦点 | トラックバック:0 |
見当違いの作品深読みが、一応は成り立ったプログレ音楽
2017-08-18 Fri 01:43
ロック音楽の表現で若さと並んで多いのは、超常世界や魔界でしょう。より複雑で難解な物語性といえば、プログレッシヴ・ロックが浮かびます。クラシック似の壮大な曲に、壮大な歌詞。イギリス出身グループの四強か五強が、全世界的に有名です。

中でも最も成功したグループが、ピンク・フロイドとされます。『ダーク・サイド・オブ・ザ・ムーン』の日本盤は『狂気』とタイトルされ、70年代のオリコンチャートに出るほどの大ヒットで。マニアックなのに、全世界で世俗的な成功も収めています。

その主題は月の暗い側。三日月の暗い部分の話ではなく、地球から見えない裏側の話です。「狂った人が草の上にいる」という歌詞と、ディミニッシュ・コードの組み合わせが終盤のハイライト。ポップながら不穏な雰囲気に満ちた、完ぺきなアルバムです。

日本でピンク・フロイドの音楽性を分析する音楽誌は、グループ名から語り始めていました。ドイツの心理学者で精神科医のジクムント・フロイトの名を借りた彼らが、深層心理の世界を表現した音楽性。ピンク色の、桃色のフロイト博士。潜在意識の心理学でつくられた曲たち。

しかし全くの見当違いでした。ピンク・フロイドの名称は、アフリカンアメリカンのブルースシンガー兼ギタリストである二人、ピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシルをつなげただけです。桃色ではなく、ジクムント・フロイト博士と無関係で、心理学も無関係。シュールレアリスムとも無関係な、泥臭いブルースバンドだった。

ひめゆりの塔が、ヒメユリと関係ない類例か。このように、作家や作品を分析して深く読んだ解釈が、見当違いな例は意外にあります。それでも何となく理解できた気分だから、作品分析はそんなものと考えてよいでしょう。本書も、その手の美術解釈論と距離を置いています。
関連記事
別窓 | 美術おもしろ話 | トラックバック:0 |
美術よりもエンタメ度の高い地震雲の心理学
2017-08-15 Tue 02:42
気象庁の資料では、日本で起きるマグニチュード5以上の地震は年に741回。一日平均2回以上という多さです。あまりに多いから占い師や予言者には天国なのに、現実にはさっぱり当たらず予言は非効率な出世法です。むしろ、気象庁職員の方が当てているのが実態。

日本で地震雲がささやかれます。ひそかな地殻変動が電波を発生させ、上空の雲に異変が生じるとする俗説です。ネットにもたくさん写真が出され、多いのは「のろし」のように大地から高空へ伸び上がる棒状の雲です。垂直に伸びた、怪しいタテ一本の白い雲。魔のひとすじ。

ひとすじののろしの根っこが震源地となって、数日中にゆれると主張しています。その地震雲を見る時、パースペクティブの理解がカギです。建築パースと同じ原理で、見る角度によって立体の形状がどう変わるかという。美術学校のデッサン授業みたいな感じ。

その地震雲の正体は飛行機雲です。ジェット旅客機のエンジンから出た水蒸気が高空の低温で冷え、微細な水滴が空に残った気象現象。ライン状に伸びた雲を、横でなく縦に見たのが地震雲。自分の顔に剣道の竹刀を向けられたような、真正面から見た状態。電柱みたいに直立しても、実は上端も下端も地上高が等しい水平の棒。立たずに寝たひとすじ。

地震雲を訴える心理にも関心を向けてみます。地震雲が本当なら気象庁が研究するはずなのに、専門家たちは誰も相手にしません。仕事がら飛行機雲や吊るし雲はよく知るからで、知らない素人の間でのみ真実を発見したと騒ぎになる、大衆社会のよくあるパターン。

専門家を無視して、僕だけは裏を知ると言う門外漢の心理。この心理が美術で流行らないのは不思議です。アートに限って、国民は専門家に従順。「僕らは専門家も知らない真実を見極めた」とする主張が美術では珍しい。地震の方がエンタメに向いているということかも。
関連記事
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
現代アートにありがちなカラ主張をひとまず理解する
2017-08-12 Sat 00:25
昨今の美術家のあるある問題として、主張の意味の空転がみられます。「作品の内容で主張しないで、思いで主張する」という主張。わかりにくい言い方になってしまいました。

作品の造形面の内容がそもそも薄く、鑑賞者に対して主張が不発な時。それを「主張しない作品こそが、作者の主張なのだ」と言う。存在感のなさが主張になっていると主張するパターンで、いわばカラ主張のようなもの。

その手の作品を欧米へ持って行くと、目を引かないから埋没するだけ。成果を出すには、作品を改善する必要があります。しかし、自分を曲げたくなくて改善にノーと言う、そのノーの態度が絵に込めた主張だという?、こね回したような論法を実際にみました。

昔、後輩の学生が、僕は作品を作らないことを主張しますと言い出しました。作らない自由があってもいいんじゃないですかと。しかし周囲の目は節穴でもなく、「案が浮かばないと正直に言えば?」と白い目を向けて。橋の案が行き詰まると、端に飛びつく心理を見透かした瞬間。

一方で、逆の信念の美術家も当然多いのです。改良大好き、趣向を変えるのも平気。実験好き。それで芸術性もプラスされ、結果は売れ始めていて、「作品の主張」は本来はこちらの意味だろうと考えます。

ピカソ絵画の特徴は、形と色の主張です。そして多くの後進は造形で勝負しても、天才ピカソに歯が立たない苦難に陥ります。そこで「この白紙に気持ちが込められている」式の、カラ主張に流れたいきさつもあります。作る方も見る方も、後年ほど形と色のメッセージが苦手になり、とんちで代用して切り抜けた流れが疑われるのです。
関連記事
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
UFOの謎を知る知らないで、世界の見え方が変わる?
2017-08-09 Wed 01:37
謎の円盤UFOが飛び回り、僕らの暮らしを監視しているという訴えが世界中にみられます。外国には宇宙人に体を触られた女性がかなり多いという。空飛ぶ円盤の中に連れ込まれて、脳内にチップを埋め込まれて解放された訴えも山のよう。宇宙からリモコン電波であやつられる話。

日本でもUFOを見た通報は、気象庁に何度もありました。「UFOが飛んでいました」「確かにUFOをこの目で確認しました」と、市民から電話が次々とかかったことも。UFOの目撃体験が日本でも多いことは、最近もまたニュースになっていました。

気象庁へ通報が殺到したてんまつで、ものを知るか知らないかでギャップが大きく広がったことがありました。当局が調べた上で、結果が報告されていたケース。

「UFOを初めて見て、宇宙人が来ていることを知りました。今まで半信半疑でしたが、今後は信じます。宇宙で何が起きているのか、全てがわかった気がします。地球外の知的生命体が、地方の市にも出入りしている現実を僕は目の当たりにしました」。知らない人の見解はこう。

知る人の見解はどうか。「今回の見た場所は、三重県のあそこでしょ、山の上あたりの、やや南寄りの、光が点滅する物体が飛翔したという、夕方5時過ぎですよね」。「それ全日空の旅客機466X便です。操縦した田中さんは僕の先輩です。若い頃よく飲み会でいっしょで」。

何かを知るか知らないかで認知の差が目立つことは、美術でもよくあります。たとえば、絵は画家の思うままに描かれているとの認識。歴史的画家は偉い人だから、超人的な頭脳と手の精度で語られる。しかし実際は、たまたまの思いつきや、はずみとまぐれが傑作につきもので、だから持続しない方が多いのです。一例はムンクの『叫び』。
関連記事
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
京都の文化財を保護するために米軍が空襲を避けたのは本当か
2017-08-06 Sun 02:17
むろん嘘で、京都は大戦中に4度か5度空襲を受け、意外に大勢が亡くなりました。著者が知ったのは、たぶん1990年頃です。新聞トップコラムの「米軍は古都京都の文化財の価値を知り、空襲の対象から外した」と記された記事を、先に読みました。

直後に京都の読者からの指摘で、何年何月何日と4度の具体的な爆撃日が後日新聞に記載されました。京都の郷土史に記録されていたそう。今ネットに出ている爆撃回避説は、空襲の直前に終戦がきた根拠ですが、これはネット時代の新型デマです。逆に空襲何十回説は誇張デマ。

間違い解釈が続いた原因は、原子爆弾の初期ターゲットに京都がなかった情報が混線したからでしょう。が、その情報さえも嘘で、原爆投下に最適の都市に京都はリストされていました。原爆対象ゆえ焼夷弾空襲から外された順序ではなく、空襲被害がまだ少なかったから原爆で壊滅させるに適すると、あちらの当局は順当に判断したのでしょう。

東京は大空襲ですでに建物が灰だから、そこに原爆を落としても打撃はないと軍人は考えるはず。当時の米軍が、京都の文化財を心配した確かな証拠はありません。古都の保全を唱える学者肌の米軍人がいた事実があったとしても、存在感が後世にふくらまされています。

米軍京都保護説が日本で長く信じられた理由は、戦後の宣伝戦が疑われますが、軍事大国は文化大国だとの見込みもひとつ。さらには、文明と文化が比例する先入観でしょう。文明国は文化意識も高いイメージ。しかし現実は、文明は文化をつぶす主犯格です。両者は対立する。

二次大戦中にドイツにある美術品を、連合国が奪う映画がありました。金目への欲がらみと思われ、しかし建造物は絵のように運べないから関心もなく砲撃で壊し放題。だから今のアメリカでは、歴史建造物の見学は予約制です。敵国文化を消したい者なら汚損も平気だろうと、あちらの当局は順当に判断したのでしょう。
関連記事
別窓 | 美術つまらな話 | トラックバック:0 |
芸術論に客観性や主観性はあるのか
2017-08-03 Thu 00:44
ネットに限らず、主観を悪とする言い方を目にしませんか。たとえば、「それは単に君の主観にすぎない」「その意見は主観的すぎて許されない」という言い方。他者の主張を退ける時に、内容が主観的だとして失格にする。日本に特有の感覚で、いわゆる事大主義と表裏一体。

主観と客観に触れた章が本書にあります。芸術の価値で最大のツボは、価値が固定しない点だから。「客観的にみて正しい」は論理学的に不正です。「主観的な考え」が間違いなのではなく、「主観的な考えは間違いだ」の考えが間違い。また出ましたよ、難しい話が。

実はかつて人類は、客観的にみて正しい価値を発見しています。それは絶対的に正しい価値として、長い年月続いてきました。人生の全てを、その客観的に正しい価値に捧げた人も大勢います。その客観的に正しい価値は、永続する約束でした。優れた人たちが出した、理想的な最終回答だったのです。何しろ客観的に正しい本物の正解だから。

客観的に正しいと決められた本物の価値とは、共産主義です。ほぼ等しいのが社会主義。今も世界に残っていて、過去形ではありません。客観なるものは、このあたりが正体です。芸術的価値もまた、主観のみ存在します。マラソンのタイムみたいな客観性は芸術にありません。

「芸術の本質は写実デッサンである」という意見と「芸術の本質は表現の裂け目である」という意見で、どちらが客観的に正しいかは永久に決まりません。主観客観の区別は非芸術的です。ありもしない客観性を振り回す側に、むしろ柔軟性はなく。赤よりも青い発想。

客観的な正しさを誇る共産主義に、自由主義社会のアメリカは何と言ったか。「共産主義は主観的な思想だ」「客観的に正しいのはこちら」とは言わず、「国益のために共産主義と戦う」と言いました。客観を頼る者は、きっと弾圧に向かうとの予見。だからアメリカが最も共産主義化させたくなかった国は、事大主義的に映った日本でした。
関連記事
別窓 | 美術ワンポイント知識 | トラックバック:0 |
現代アートのアカデミズム化とカルト化
2017-07-31 Mon 01:06
本書は美術の見方を習得する教科書ではなく、美術がわからない原因を解き明かすミステリー本です。焦点のひとつは、現代美術が日本で特殊化している事態です。現代美術が一般化せず、敬遠の敬意を受ける点。一般化していないから、一般には売れない作品たち。

現代美術の見方を教える本や説明記事は、次のような論調です。「現代美術がわからない人は、頭が古くて固くて価値観が後向きなのである」「だから新しい現代感覚について行けずにいる」「新しいものの見方や現代的センスを身につけさせて、わかる人へと変身させてあげる」。

それらは、現代アートを「正」として中心に置いています。わからない人は「誤」にとどまる遅れた人、劣った人の扱い。時代遅れの古くさい劣った人に手を焼く雰囲気が、「現代アートをわかろう」サイトにただよっています。

本書はその考えとは違い、現代アート作品への懐疑派です。「中味のない表現がやたら増えた時代」の視点がミソで、現代アートの欠点もたくさん書いています。ブラックボックス展は芸術とは別ものと示唆したのも、おそらく世界で唯一。現代アート万歳でない点が、現代アート愛好本との違い。アートエリート層にとって、挑戦的な話題も多い本書。

「正」の顔をし始めた現代アート側に、アカデミズム化の面が出始めています。アカデミズムの特徴は、権威性、正統性、保守性、閉鎖性。だがしかし、実際の日本で現代アートは特殊化、サブアート化しているのだから、何かが無理しているのです。

舞台の幕間(まくあい)の色物芸的な役割に、日本の現代アートが置かれている自覚も必要かも知れません。「わからん」という者に、「それはあなたが古い人間だからです」と改心を促すばかりでは、一般化には向かわず逆にカルト化するでしょう。
関連記事
別窓 | 鑑賞者は悪くない | トラックバック:0 |
売り絵という名のちょっとおもしろい世界
2017-07-28 Fri 00:15
美術ギャラリーの展示の合間や空きスペースで、キャンバス画の小品を在庫販売していることがあります。そこで見た同じ絵が、よそのギャラリーにも置いてあることがあります。同じ絵があちこちにある。

画家が同じ絵を2枚以上まとめてかいて、複数のギャラリーで委託販売しています。これがいわゆる「売り絵」です。『ヨットが浮かぶ海』や『草原に立つ小屋と大木』など、日本人好みの風景画が多いようです。手作業なので、同じ絵でも少しずつ違うのですが。

手慣れた人力版画のようなものですが、量を売るために使い古された作風がほとんどで、入魂の創造性はないものとみなされています。きちんとした仕事ですが、アーティスティックな面でいえばチープでもあり、飾り物のインテリア小物にとどまるでしょう。

著者は銀行の内装工務店の作業経験があり、銀行ロビーに飾る大きい絵を、美術学生バイトを集めてかいてもらったことがありました。埋め草的な役目なので、型にはまった絵です。店舗の雰囲気づくり用の装飾物として、絵画類の需要は意外にあるのです。

その需要で要求されるのは、脇役俳優です。場の主役に躍り出るとアウトで、気になる特異性や事件性、心に引っかかる裂け目があってはまずいはず。引っかからず印象に残らない、芸術性のない作品が求められます。これも売り絵の論理のひとつです。

売り絵は欧米にもあるみたいで、現地通販でも低価格なプリントアートが多くあります。画学生ふうスケッチ画が目立つ日本とは違い、全てが現代アートで抽象も多い。売り絵は当地の平均的な作風になっていると想像できます。その地でどんなアートが一般化しているかを、売り絵で知ることができます。
関連記事
別窓 | 美術ワンポイント知識 | トラックバック:0 |
ブラックボックス展批判とアート無罪批判が失敗する理由
2017-07-25 Tue 00:36
キーワードは、「ブラックボックス展」「アート無罪」「自由主義」。ブラックボックス展とは、真っ暗な密室のお化け屋敷型イベント。中で起きた出来事がアートだという主張です。女性客が暗い室内に入ると、中で男性らしきに体に触られるなどした事件だそう。

オピニオンリーダーたちはブラックボックス展を批判し、アートなら何をやっても許される「アート無罪」も批判しました。しかし批判論は、ほとんどが不発。その原因は、表現の自由奔放ぶりを危険視し、過剰を戒めた点です。それだと、人の表現はアートだとした自由主義の尊さにかき消され、何度やっても後知恵です。常識人の負け。

事件の下地は、三大画家タイプとダダ運動タイプを混ぜて語る、非芸術的脱線にあります。芸術抜きのアート論は、ロジックが散乱します。善人が安全策を持ち出しても、「芸術は危険な冒険である」式の三大画家タイプの特徴を盾にして、首謀者は逆に胸を張れる空気あり。

特に日本では、国民は芸術が苦手のまま放置されています。一般化せずに特殊化している。だから何者かが「これも現代アートだ」と言えば、国民は「それはアートとは違う」と言い返す力がありません。

近く、抽象ヘイトとSTAP細胞ファイナルと、ブラックボックス展の各章を追加予定です(第8集購入客は増分無料)。ブラックボックス展をうまく叩けない現代アートの構造を解いた内容で、ブラックボックス展批判とは全く違う話です。大勢が魅了され集まった大ヒットがカギ。美術と自由の強迫メカニズムは、世界初の解説です。

ブラックボックス展は、三大画家タイプではなく、ダダ運動タイプの表現物です。ピカソ系ではなくトラクター系。そこを分けないまま、現代アートに、自由の抑制、節度、モラルを説教しても、無駄な抵抗です。「非常識なトンデモこそが最高の芸術」式のピカソの成果を盾にして、首謀者は逆に胸を張れる空気あり。常識人の負け。
関連記事
別窓 | 三大画家vsダダ運動 | トラックバック:0 |
具象と抽象のどちらともいえてしまう素材質感絵画
2017-07-22 Sat 01:15
前に「具象画の正体は、実は抽象画でした」という、達観したような結論を出しました。話を一般常識に戻すと、具象画と抽象画の両方にまたがる絵もあります。具象ともいえて、抽象ともいえる、両論が成り立つ絵が現実に存在します。

代表例は、素材質感絵画です。これは土壁みたいな絵。たとえば古い家があるとします。その家の外壁が風雨で傷んで、ガサガサ荒れて崩れ始めている、その質感や肌触り感を再現したような絵です。画材は絵具だけで、壁土は別に使われていませんが。

元はといえば、土壁を模写したスケッチ画ではなく、抽象画として描かれています。絵具をいじっていて、風化した壁に似ていると途中で気づいたわけで、スケッチ作業とは逆の順序で進んでいます。

架空の具象画とは、たとえばマンガの顔がそうですね。モデルがなくても一応は人物画です。同様に、素材質感絵画も静物画に一応できます。ただし、成り立ちは新感覚の抽象図案なので、「具象画の正体は、実は抽象画でした」という真理にやはり適合はします。

ところで日本で、素材質感絵画は支持を得やすいようです。マチエール(絵具を盛った肌触り感)は、昔から油彩画のチャームポイントです。質感や風合いには容易になじめる。そうしたテクスチャー情緒のひとつに、陶芸の素焼き作品がありました。素材感は、日本では最も感情移入しやすい鑑賞のツボになっています。

ところが、ドイツでは苦戦しました。一因は空き家プロジェクトです。古建築は日本ではリフォーム(仕上げ直し)され、ドイツではリユース(再利用)されます。ドイツでは、ガサガサ荒れた素材質感が壁全体に残っています。壁自体がまるでアート。そのホンモノの素材質感壁に、日本から送った素材質感絵画を飾ると埋没して引き立ちません。
関連記事
別窓 | 美術ワンポイント知識 | トラックバック:0 |
仮想通貨ビットコインと仮想アート作品のネズミ講エフェクト
2017-07-19 Wed 00:14
ビットコインは矛盾した存在です。誰もが自由に送金できるなら、テロ組織やテロ国家へも自由に送金できるから。ゲームや放送番組のガード解除プログラムと似たような反社会性があります。爆弾テロなどと闘う各国政府は、慎重になり制限もかけます。

そのビットコインがユーザーへの信用で決め手を欠くのは、ある焦点が常にぼけるからです。それは理論値の性能と、実質の性能の差です。たとえば、現金に戻す手続きの情報がなぜか少ない。戻させまいとするかのように。社長が横領したとされるマウントゴックス事件でも、関係者の説明はこうでした。「個人の悪事は、全体の安全とは別問題」。

しかし、マウントゴックスなる取引所は「いらない子」だったのか。その役目が全体の維持に貢献していたのなら、別問題に切り離せません。盗賊が取引係になれる制度は欠陥です。社長一人の持ち逃げが大手銀行一行の消滅に等しく、弁済は完全にゼロ。それを安全な仕組みとは呼ばないのが、普通の感覚でしょう。

実測値をたずねても理論値が回答され前に進まないやりとりとくれば、アートを連想します。机上の理想や願望のお題目は、アートに多い。ゴッホとポロックとも芸術だと言ったそばから、「芸術はデッサン」とは何のこっちゃと。話のわからない分野の横綱がアート。

アートもビットコインも、大きく値上がりするとニュースになります。ここで、仮想美術のビットアートを考えてみます。パソコンやスマートフォンで電子美術を鑑賞するヴァーチャルな世界。各端末のウォレットが不正防止装置で、一ビットアートの価値が変動する仕組み。

ビットコインと同様に、ビットアート購入者は他人にもすすめるはず。コイン数や作品数の上限があり、早期購入者は待てばネズミ講の効果があるからです。実はリアル絵画にもその構造があるので、絵の所有者が世に宣伝して資産増を図ってよいはず。そうしないのは、美術の価値は市民が決めず天が決めるつもりだからか。
関連記事
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
ピカソの絵のここがこうすごいと言葉で説明するとどうなるか
2017-07-16 Sun 00:40
「子どもの絵に見えるピカソの絵の、どこがどうすごいかを僕に教えてください」という問いに、きちんと答えて説明したとします。でも質問者自身は、特に変化しない可能性も高いのです。

たとえば、このブログには、本書にはないフレーズがいくつも出てきます。そのひとつが「芸術は裂け目である」です。そこで「子どもの絵にない裂け目が、ピカソの絵にはある」と説明し、児戯と区別する根拠にあげたとしましょう。

ところが、裂け目の存在は国会で決めた法律や、裁判所の判決ではないし、授業で習う哲人の名言でもありません。世界で一人だけが言っています。他に言う人はいません。各人が支持するかだけの話。子どもがピカソの『泣く女』みたいに描けるかは、国民が感じ取る部分です。実際にそう感じる、という体験がないと進みません。

詩的といえるセンシティヴな部分で、現代人がいかに感受し得るかは、やはりばらつくでしょう。価値の多様化以上に、文明の進歩で文化面が後退する流れもある前提で。子どもとピカソの差を感じられない人の輪は、年々大きくなるでしょう。

大きい刺激が許容に収まりきらない変化とは別に、小さい刺激を感じない変化です。たとえばコピー食品をめぐって、本物と偽物を食べて区別できない悲しい事態が話題になります。「何だってかまわないよ」という一見リベラルな太っ腹の裏に、感覚の鈍化が隠れていることも。

芸術は裂け目だ、裂け目だと大勢で言い続けたら、ピンとくる人も増えるかも知れません。しかし日本で芸術の本質は、「デッサンの確かさ」「手の器用さ」「人徳」が通念です。三つともない太古の作品は今の人は苦手。理屈と体感の壁を、どう越えるかという課題があります。
関連記事
別窓 | ココが大事な焦点 | トラックバック:0 |
公募コンテスト展覧会が主流なのは議論が苦手な国民性?
2017-07-13 Thu 00:13
日本人は議論がへただという指摘は、昔からありました。あげくの果てが、1970年前後の連続企業爆破や、社会革命闘争テロ事件だったのかも。正義は正しいとする当時の世直し行動。最近また容疑者が摘発されたニュースに、昔を思い出した方もいるでしょう。

国際社会で期待される行動は、グローバルへの同化ではなく、ローカルの主張です。この「主張」をめぐり、「議論を知らない日本人」という指摘が昔から根強いのです。欧米では討論の技術を義務教育の授業で学ぶのに、日本には何もないから議論が苦手な人に育つと言う声です。

結果の一面なのか、国内の有名コメンテーターたちも非議論的です。例として、テレビの討論番組がよく言われます。一方がとことん主張し、もう一方もとことん主張し、最後に司会者が両論を対比させ、後で視聴者が考えるという、当然の流れが生まれにくいのです。

放送局からみた味方と敵が、最初に決めてあります。敵が発言すると、味方が途中で割り込んだり大声をあげ、放送局側の司会者が話をずらしたり、打ち切ります。フェイントでCMを入れたりとか。敵に発言させないよう圧迫して流れからはじき出し、圧勝するいじめ方式が普通。

これを茶番と嘆く世間の声は少なく、国民も納得しているフシがあります。根底にあるのは、正邪が固定している前提です。正が邪を切り捨ててくれたら、リスナーは頭を使わずに済む。何が正しいかは上に決めてもらい、正しい結論だけを国民が知りたがる風潮というか。

正しい意見を通し、間違った意見をさえぎる手法は、政府もとります。マスコミの偏向実態を国民に説明すれば拍手なのに、マスコミに言わせない制限を選んでしまう。ならば日本に多い美術公募コンテスト展も、やはり同じ国内だからなのか。作品の正邪を上に決めてもらい、正しい作品だけを国民が知りたがる風潮というか。
関連記事
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
どこからどこまでを現代美術と呼ぶかは範囲が二つある
2017-07-10 Mon 01:12
現代美術という語は、範囲が二とおりあります。日本ではモダンアートは近代美術、コンテンポラリーアートは現代美術です。1960年前後のポップアート以降を、現代カテゴリーとするのが日本での一般論。

ところが、英語でモダンアートは現代美術、コンテンポラリーアートは今の美術です。整理すると、モダンは日本で近代、英語では現代。コンテンポラリーは日本では現代、英語で現今。完全一致しないから、日英の翻訳で調整が必要になります。

日英を合計すれば、1900年代のピカソも現代美術に含まれるから、「現代美術はわからない」という国内事情にうまく合います。それと符合するように、難解で理解及ばぬ特性まで含めるのが日本的な「現代」感覚です。わけがわからんから気をつけろという、警戒マーキングまで込めた言葉が「現代」。

この用法とよく似ているのは、クラシック音楽界の「現代音楽」です。「ギギギー」と弦楽器のきしみ音。静まったとたんに、「ガンガラ・ガッチャーン」と打楽器が鳴り響いて、「バーン・バーン・ババーン」とピアノの鍵盤を足で踏む音。唐突で衝動的で観念的で、近寄りがたいのが現代音楽というイメージ。現代美術と似た使い方です。

現代音楽とアナウンスがあれば、急いでラジオのチャンネルを変えたくなる。が、アメリカではオーケストラ公演ポスターに曲名を書かず、演奏が始まって現代曲と知ってもお客は平気だそう。アメリカで現代音楽は、ずいぶん前から一般化済みとされます。ならば現代美術も同様?。

日本ではコンテンポラリーバレエも含めて、理解不能なのが「現代」。そういうレッテル。だから具象画壇や油絵サークルの画家は、奇抜だと思われるのがいやで現代を名乗らないお約束です。そして、アニメ系のイラストふう人物画などジャパンコンテンポラリーは、古典系と現代系のはざまで居場所がゆらぎます。外国ではそのゾーンが売れるのに。
関連記事
別窓 | 美術ワンポイント知識 | トラックバック:0 |
1970年代の日本車にみるカースタイリングと芸術
2017-07-07 Fri 00:08
昔の車を今見ると、時代の変化を強く感じます。たとえば1960年代末からの日本車。ベレG、セリカリフトバック、ハコスカ、ケンメリ、117クーペ、GTO、SSS。過去のカー雑誌では花形扱いで、最近アメリカで人気のジャパニーズ・ヴィンテージ・カーもこの時代です。

実はそれらと似たスタイリングのクーペ車が先にアメリカにあったのですが、コンパクトにまとめられた日本のスタイリングが好評です。双方の目立つ特徴はヘッドライトで、高級型は丸型4個でした。ファニーやキュートという雰囲気がまだ残っていた顔つきの車です。

やがてマイナーチェンジし、ヘッドライトが角形4個に変わりました。丸形4個より角形4個ライトの方が、冷めた顔つきです。固く無表情になったよそよそしい時代の空気に、見た目を一致させたかのように。

次に起きた変化は、角形4個を合体させた角形2個ライトです。一体化したライトは横長になり、車の顔つきはいっそう無表情になりました。その次は高さを縮めた細目で、一段と無機質で機能的。ヒューマニズムがいよいよ消えて、非人間的な雰囲気が強調されました。

次のフロント角を丸めたエルゴノミクスボディの時代には、三角形2個ライトが急増しました。キツネ目の時代の到来です。世界中のあらゆる乗用車がキツネ顔。2010年代には目がもっと細く吊り上がり、無表情どころか不機嫌や憤怒をも感じさせる顔。ヒステリックな新自由主義世界のブラックムードに引っかけたかのように。

デザインは時代を映す鏡です。車では国際的な同調と相互模倣が起き、集団行動的です。一方のアートにも集団化する面はありますが、実際の制作現場は個人のマイブームで動いています。だからデザインでは審査が有意義ですが、アートでは審査員のマイブーム披露になっていて意義が薄れています。
関連記事
別窓 | 芸術アラウンドトーク | トラックバック:0 |
現代アートの巨大彫刻にキャンプ場の夜を連想した
2017-07-04 Tue 01:07
美術は難しいと国民に言われたり敬遠される境遇に、現代美術家も悩んでいたり、打開しようと頭を使っています。現代アート敬遠対策をがんばってほどこした、ある彫刻群があります。

クワガタムシ、ショウリョウバッタ、エンマコウロギなど、昆虫の姿をした彫刻です。鑑賞者はびっくり。何にびっくりかといえば、大きさ。長さ10メートルなど巨大で、どーんとそびえて目立つ。「芸術だけにスケールが大きいですね」と報道記者たち。子どもも大喜び。

しかし以前から羅列作品と巨大作品は、現代アート批判にさらされてきました。羅列作品は、肥桶も千個並べりゃ美しい式のいにしえの皮肉。巨大作品は、奈良東大寺の大仏のように信心を高める手法。アメリカンサイズのステーキ肉のように、ビッグな規模で感動させる近道。

作る側の言い分があります。造形にこっても反響がなく、オリジナルは虚しい。そこで皆が知る物を巨大化する。思い起こすのは、キャンプの夜にテント内で始まる怪談話です。物語を聞かせても誰も怖がらない。脚本ではもう通用しない。そこでふいに「ギャアッ」と大声で叫んで、「ぞっとするお話でした」と締めくくる持って行き方。

どんなものも、極端に大きくすると刺激が強まります。サイズがデカいは七難隠す。宗教などで、百メートルを超える巨大立像もありますね。ギネスブック。一方で手ごろな作品規模で、こった物語を静かに聞かせる脚本重視の彫刻家もまだ多いのです。造形をわかる人がいるはずだというロマンなのか、少数相手のライフワーク。

作品コンセプトといえば、高遠で深長なものを想像しますが、どの層をターゲットに狙うか、誰にわかって欲しいかもコンセプトの一種です。羅列作品と巨大作品が多く出てくるイベントは、俗な言い方で大衆向けといえるでしょう。
関連記事
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
児戯のごときピカソ絵画を僕は理解できないと訴える質問
2017-07-01 Sat 00:07
過去にネットでみた質問です。「まるで子どもの絵みたいなピカソは、何がすごいのか僕に教えてください」。この質問に親切な有志が次々と回答を寄せますが、質問者は納得しません。「それは話がずれている」「それは知りたい核心とは違う」と。

そのネット質問は、本書の切り口と似ていました。しかもその頃こちらは、「ピカソはここがこう違うから世界一だ」の章を書いていました。だからその直球勝負の質問に、親近感を持ちました。そういえば、本書は美術の評論とはかなり違い、「なぜ」の質問に答えた本です。

そのネット質問に寄せられたいくつもの回答は、現代美術がわかる美術本によくあることで、すれ違いを始めていました。ピカソの少年時代のデッサン力、『青の時代』の抒情性と繊細、『アヴィニョンの娘たち』で抽象の先駆け、『キュービズム』の多次元的な構成力。『ゲルニカ』での祖国を思う反戦と反ナチスの気概。

そうしたピカソの美学的価値や存在意義、業界に与えた多大な影響や、注目点などが回答に並んでいました。それに対して質問者は、「自分が知りたいのは書類上の裏づけ根拠ではなく、先人がピカソ絵画をどうすごいと感じて支持したのかだ」と。でも、答える人は現れません。

本書はその答も書いていました。だから宣伝文句に「世界唯一」を入れたほど。ではなぜそこを述べる人が現れないかは、現代人の美術への接し方どおりです。体感より周辺情報で測り、知識レベルで巨匠の価値に合点する。現代人の鑑賞法がそうだからです。だから瞬間風速がピカソを超えた作品も、無名とあらば相手にしない。できない。

人は自分の体感があって、核心を語るものです。ところで・・・、そもそも「子どもの絵のごとき」という疑問の発端もまた、知識レベルの分析です。やはり体感とは違う理屈上の比較。双方とも「僕はしびれた」「複製画を買いに走った」の情熱はなし。
関連記事
別窓 | ココが大事な焦点 | トラックバック:0 |
芸術は人類のロストテクノロジーといえそうな状態
2017-06-28 Wed 00:24
本書は「現代美術がわかる」系に多い「視野を広げなさい」という説教をやりません。理由は文明の大進歩と並行して、文化がやせ衰えていく背景を感じているからです。芸術の衰弱が、ヒトという種に起きている疑いです。誰も免れないし、著者も含まれるであろうから。

時間とともに、よりゆるい作品を作る作者と、よりゆるい作品に好感を持つ鑑賞者が、同時に増えている疑いです。というのは、大昔の作品ほどビシッとキレて彫りが深く、きつい感じがあるから。新しい作品ほど彫りが浅く、ゆるんだ感じ。作業用刃物の、鋭利の差ではなくて。

古代アート展を見て、「すごい、昔はガチなんだ」と多くが驚きます。しかしそのガチな遺物にインスパイアされた現代作品は、甘いいやし系に寄った作風に必ずなります。キレキレ感は、結局は、古代アートだけの専売特許のまま。しかも今、キレた新作があれば敬遠する自分がいるはず。ぬるいものがしっくりくる自分が中心にいるはず。

それを指して「芸術は変わった」とは結論しないで、「衰えた」の視点で考え直しました。自分たちの時代を中心にすえて昔を見下ろすのを、やめてみるわけです。そうして、芸術がロストテクノロジーになりつつある疑いに、本書で繰り返し触れました。

そこに着眼した発端は、ガラクタ集積作品でした。アートの迫力を手で生み出せない現実が、ダブルで読み取れます。調べてみると、古代にはあったキレが中世にはすでに消えていました。造形バリエーションを広げてきた歴史にみえても、実はキレを失う歴史だったのです。薄れゆくガチ感イコール薄れゆく芸術性だとすれば、事態が説明できます。

現代人は芸術の語にはあこがれても、その実体には気おくれしやすい。キレた濃さに目を見張りはしても、新たに作ってみれば鈍く希薄な作風になりがち。切れず、さく裂せず、ゆるい現代。証拠として、後年ほどのっぺらぼうに向かい続けたある伝統アートを解説しています。
関連記事
別窓 | 鑑賞者は悪くない | トラックバック:0 |
アーティストを枯らさないために互いの支えも必要
2017-06-25 Sun 01:23
おそらく世界で誰もやらない分析は、アーティストが行き詰まる過程です。当初は調子がよかった作品が、作り続けるうちにつまらないものが増え、アイデアが枯れていく変化を分析したことがありました。

そのプロセスは音楽でよくわかります。80年代終盤の、あるブラジル人のエレクトリックギター演奏が例。デビューアルバムは、作曲アイデアも演奏もみずみずしいものでした。すき間狙いが多い時代にしては、いかすメロディーの曲が次々と続きます。新しい才能が登場。

音の空間の飛躍にトリッキーなところが多く、和音展開もダイナミックで、楽器はよく歌って気が利く。演奏法も高く飛んだり低空飛行やキリもみしたりと多彩。曲と演奏がよくマッチし、やりたいことがうまく盛り込まれて、引き出しが多い。

ところが、3枚目のアルバムでわずかに衰えのきざしが出たと思えば、4枚目で信じられないほど落ちました。メロディーはメソメソ、歌のない歌謡曲ふう浪花節調に変わり、和音の回し方に飛躍が消え、どの曲もだらだら単調で動きが鈍い。聴きごたえのある仕掛けが出てこない。

かつてキマっていたかっこいいサビが消え、聴かせどころもなく足踏みする曲調。全曲スカばかりで一度も盛り上がらず、何度聴いても取りえがなく、印象に残らず。やはりというか、5枚目が出ない。ネット時代に海外サイトで見ると、4枚目のみ紹介されるかわいそうさ。

演奏力が上がり、創造力が下がるケースも多いのです。そこでグループメンバーやプロデューサーの組み替えでリフレッシュしたり、アルバムリーダーを代えたセッションで支え合います。独りで黙々と続ける限界は才人も同じで、解決策を美術にも応用できます。著者も他の美術家を外国でアシストする珍しい企画の準備中です。
関連記事
別窓 | 制作インサイダー情報 | トラックバック:0 |
 >◆以前の記事◆>>