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現代美術はわからない+芸術は難しい【質問と答】

現代美術がわからない原因を解明する世界初の試み。ネットに出回る美術理解のコツは本当か?。作品を難解にした犯人は作者か鑑賞者か。作品の意味とは何の意味か。作品が語るとは何を語るのか。わかるのをじゃまする情報は何か。一番役に立つ情報は何か。日本でのみ誤解されるものと、世界で誤解されるもの。画家は何を考え何を考えないか。芸術は人間に必要か不要か。現代人は芸術が得意なのか苦手なのか。現代アートは本当に創造なのか。人類の文化に何が起きているのか。それが文明とどう関係するのか。

阿波おどりの国際化と地方産業や地場企業の未来

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
阿波おどりに参加したことがあります。著者が小学生の夏に、ご当地の親せき宅に泊まり、地元の一行に加わりました。ハッピ代わりのゆかたまでは用意してもらい、二拍子の要領をまず教わり、周囲の見まねで動いてだんだん調子が出ました。自己採点は10段階で2程度。

笛と鉦(しょう=かね)と太鼓の鳴り物三人組に踊り手が加わり、ドンドン、チャンカチャンカ、ピーヒャラと、口ずさみにくい謎のメロディーで、街灯が少ない夜の町を回ります。途中で一行と別になったのか、最後は駅前と呼ぶ大通りに連れられました。

テレビ局も詰めた左右観客席の谷部分を、各町から集まった大行列がゆっくり進むハイライトです。今の総踊りとは違う場所らしく。夏休みの旅行のはずが、にぎやかな人混みの中。昔の藩主が許したドンチャン騒ぎの由来どおり、大規模な演奏と踊りをひとつのリズムに合わせます。

当時不思議だったのは男女差でした。部外者には何となく荒いイメージがある阿波おどり、女踊りは上品で洗練されていました。キャットウォークを行くファッションモデルを誇張したような動きは、今見ると意外に派手。あれからビジュアルを補強したのかも知れません。

男踊りは泥棒手ぬぐいでウチワや扇子をひらひらさせ、アドリブ名手があちこちにいました。低い姿勢でのけぞったり跳ねたり、酔八拳みたいな奇抜さも当時からあって。70年代ディスコのパフォーマンスみたいな人も目につきました。

阿波おどりは後に日本各地に広まりました。海外公演も行われ、群舞のステージなど輸出文化になっています。一方、大イベントを持つ徳島市ではもめています。産業が乏しい地方で、冠イベント依存の不況業種がまねくパターンだそうで。
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サマータイムにあこがれる日本の西洋ロマン

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
著者の海外美術活動はベルリンが主で、ドイツの時差は日本より8時間遅れです。日本で夕食後20時のテレビタイムは、ドイツではまだ真っ昼間の正午です。そしてEU国はサマータイム制が義務なので、夏期は日本の7時間遅れに時差が縮まります。

そのEU域内で、サマータイム廃止論がまた出ました。今回は、夏冬を切り換えたしばらく後に急死する人が増えるとの、医者の警告だそうです。サマータイムは百年以上前に実施され、万事がシステム時計中心に作動する現代文明と合わなくなり、切り換えがストレスです。

日本では逆にサマータイム願望がまた出て、今回は2020東京五輪の暑さです。前回は原発事故の発電不足でした。あの時は、サマータイムで2時間ずらして、朝涼しいうちに役所や企業が仕事を始めて、真夏の冷房電力を減らし東京の大規模停電を防ぐアイデアでした。

その案はトンデモな勘違いでした。総発電ワット数を総使用ワット数が超えると、大規模停電が起きます。累積値ではなくて、瞬間のピーク値が超えると起きます。もし各職場の朝を2時間早めても、14時だった太陽南中後2時間の猛暑が16時に来て、やっぱり大停電します。

日本の全員をいっせいに前後に2時間ずらしても、大停電する時刻を何時と呼ぶかが2時間ずれるだけで、全く何も解決しません。やるなら、昼働く会社と夜働く会社に分かれて散る制度が必要です。冷房のピークを分散すれば、広域が大停電する理由が消えるからです。

サマータイムをやめたい欧米とは逆に日本があこがれるのは、西洋暮らし体験者の青春ロマンも指摘されます。若い体験がいつしか郷愁になるという、不合理な心理です。美術制作が、過去に見た作品に必ず影響を受けて、やがて引きずられる現象を連想しました。
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素人が首をかしげた素朴な意見を発端とした美術本

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
プロなら誰でも、素人に言われたくないことがあります。サッカーだと「あれなら僕が蹴っても入っていた」「勝っていたのに負けて情けないなあ」など。簡単に言われたくない思いは、たぶん医療や介護業務などでも多いのでしょう。

大物画家が素人に言われて一日くさった話があります。「これは全然わからないから悪い絵だ」。それを美術評論家に言われたのなら、相手の限界が知れてしてやったり。なのに、美術と無縁のおじさんにペラペラ言われた時は、いやーな気分が続いたという。

著者は他人から美術の質問をしばしば受けますが、わからない絵画への不満はやはり多いようです。そう思いませんかと言われても答えるのに困り、後で考えた説明が本書の最も初期の原稿でした。

わからない人自身は、何が問題でそうなっていると見当をつけて、わからなくした犯人は誰だと目星をつけているのかと、こちらもたずねたくなりました。皆は責任をどこに求めているのか。当然ながら現代アート普及推進団体などは、美術家は正義だという前提ですね。

わからない側は、実は隠れた先入観を堅持していて。脳内が特定色に染まって一定の思想が形成済みだったりします。濃い色の紙に色を塗っても変わらないような、そんな感触も確かにあります。

ただその特定色に「わからない抽象画は悪い絵だ」など、業界内戦のスローガンもありました。具象画家が抽象画の台頭を食い止めた、新旧絵画の勢力争い。わかる絵が正しい式のポピュリズムを国民に唱えた頃。そのいきさつにも触れている本書なので、実は敵も多いという。
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著作権は早期教育なしには理解できないという証明

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
著者はかつて、音楽の著作権を全く勘違いしました。歌手がお金を放送局に払い、レコードを置かせてもらっていると思ったのです。小学生の時、リクエスト番組で耳にした言い方。「番組で知った曲をレコード店で探して買いました」でそう思ったのです。

国民はラジオで聴いて曲の存在を知るのだから、放送局が宣伝してくれたその謝礼を、歌手が払うと思ったわけです。「放送局様、曲を流してくれてありがとう」と。実際は逆で「歌手様、曲を流させてくれてありがとう」が正解。

著者の勘違いは、原作者が最強の立場だとする認識不足でしょう。そしてこの素朴な感覚は、後に世間でも起きていると知るのです。たとえば演歌の森進一が、『おふくろさん』を改変して歌った事例。

あの時のバッシングには、「歌手は作曲家に感謝しろ」と同じ程度に、「作曲家は歌手に感謝しろ」の意見がありました。歌手が歌って宣伝したおかげで有名になれた作曲家は、歌手を敬えという意味です。作曲家ごときの分際で、偉い歌手様に意見するなんてひどいと。

ところが現実は、歌の達人より作曲の達人がはるかに少数だから、作曲家の地位が高いのです。歌手は作曲家を生涯の恩人とすることも多く、だから作曲もできるシンガーソングライターは地位が高い。バンドがプロデビューできるかも、コピー力ではなくオリジナル作曲力です。

美術家も作曲家タイプと歌手タイプに分かれるのは、隠れた実態です。絵にもオリジナルがあれば、カバーバージョンもあるという歴史の秘密があるのです。これは盗作の事情へ話が向かうと、諸般の事情で荒れるものなので、深入りせずにここまで。
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カルト教団のテロ事件で解明されない闇はこれだった

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
1995年の地下鉄サリン事件など、世界で唯一日本だけで記録された化学兵器テロに、法務大臣が一区切りつけました。日本国はテロ殺人に譲歩しないとの姿勢を国際社会に宣言して。ネットに関連記事が増加中で、政治との関連づけなど利害関係が多い事件です。

毎度気になるのは、被害側か加害側か一方に入れ込む部外者の排他性です。被害側の味方か、加害側の味方かに国民は分離し、まるで水と油の関係。両側にまたがって味方する部外者はみません。

被害側に同調する者は、普通の会社員に近い位置でしょう。通勤列車の6300人が化学兵器で重い障がいを受けた。やや重かった13人は死んだ。やはり皆さん、自分に近い立場を応援します。類は友を呼ぶように味方が集まる現象です。

加害側に同調する者は、やはり被害者を黙殺する冷淡な言い方になっていました。これは縁故の怖さでもあり、よしみで抱く関心と愛に反比例して、友の敵は敵だとして憎悪を燃やす。犠牲者が多い事件ほど、被害者を痛めつける先鋭的な極論が出やすい傾向です。

「今も解明されない事件の闇がある」とよく聞きます。放送局や政党を抱き込む日本打倒の陰謀論ではなく、毒ガス殺人の遂行に決定的な動機がない不合理の指摘です。とはいえ闇は外部にあるわけではなく。闇とは、関心が片方だけに向くヒトの脳のはたらきを指します。

今みえる現象、部外者が被害側と加害側に分かれて闘う。これがテロの構図と相似形です。自分に近い者を愛し命をかける。これが世界で起きるテロの普遍的な原因です。だから核心的な動機が最後まで解明されないのも当たり前の話で、愛の思慕がテロの動機だったまさかのオチを、誰も自覚するわけがない。愛が闇だったという話。

一番大事な情報がスッカラカンの爪切り事件と美術報道

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事件ニュースの中に、理解できないものが時々あります。近年は爪切り事件がそうでした。介護の現場で、高齢者の足の爪を深く切った虐待があった事件。どういうことかが最後までみえない事件でした。

介護職員の女性が、爪切りで高齢女性の足の爪をうんと深く切り、痛い思いをさせ感染症も起こさせた容疑です。入所者の家族が告発し、職員は否認し続けましたが、ニュース報道はもどかしいばかり。

最大のカギとなる情報「爪を深く切るトラブルはよくあることか」を、誰も言わなかったからです。深爪は前代未聞の珍事なのか、よくあることなのか。現実に多いのなら、これまで何割が虐待で何割が過失だったのか。基礎データが何もなく、視聴者は何も感じようがありません。

容疑者の弁明も「深く切ったが虐待でない」なのか、「深く切った事実がない」なのか。争点もわからないまま繰り返しニュースが出て、その後無罪判決が伝えられておしまい。地球温暖化や飲酒運転死亡事故などと違い、世論工作者が誰一人いない利害の薄さも特徴的。

美術の教訓にもなるでしょう。ジャーナルで紹介する作品は前代未聞の珍作品か、よくある作品かは、最重要の情報です。創造物なのか違うのかの分岐で、最も有用な情報は独自路線か模倣路線かです。そこに触れずに作品だけ持ち上げても、「あっそ」の空回り報道がオチ。

爪切り事件でわかったことは、事実だけ伝えても足りないことです。よく聞く「ニュースは主観をなくし客観事実だけを伝えよ」の客観に含まれる範囲も広い。作品だけ見ればよいのだ式の美術鑑賞は、何も見えずに終わるかもと気づかされます。
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美術という美しい言葉自体が大間違いならどうなるか

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美術館などに税金を使う意味はあるのかと、文化行政コストの無駄がしばしば言われます。芸術やら美術は、そもそも人間に必要なのか。特に今のようなデフレ不況の時代には賛否が分かれるでしょう。

「僕らの収入から税金をまきあげた、不要な箱モノ行政なんかやめろ」「天下り目的だろ」の怒りもみられ。先にやるべきは、保育所の建設や貧しい児童への学資援助だと。それに対して「美しいものを見ることも大事な情操教育です」と、教育論からの応援もあります。

それに対する再反論も。「美の鑑賞は余裕があってこその付加価値であり、余裕が消えた国内貧困時代に、美にうつつを抜かすべきでない」の意見も。美を愛する心は、非優先のオプションだという着眼です。その裏に、美術は婦女子の世界だ式の封建道徳も混じって。

こういう議論をみるにつけ、著者は全てをひっくり返したい気分です。なぜなら、美術イコール美しいとの前提は、人類の歴史とは合わないから。賛否ともに同じ狭さがあるから、両論ともボツ。

あらゆる食べ物から甘いものだけ抜き出し、この甘さは人生に必要なのかと議論する感じ。辛い美術のポロックなどもあります。美女やバラの花のうっとり気分とは違う美術の方が、人類史では多数派。甘美な印象派や野獣派への偏愛的な入れ込みからお互いが離れない限り、アートの全体像はいつまでもみえないでしょう。

美術なる明治時代の訳語が、実はまずかったのです。ルノワールは当てはまり、ポロックは当てはまらない感覚が今も消えません。目の保養にとどまる出発点の言葉定義が、許せる範囲を狭くする心理的な制約になったまま。英語でビューティフル・テクニックなどと呼ばないし。
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ポピュリズムアートとはルノワールやマイヨールなのか

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近年ニュース報道で、ポピュリズムの語をよく聞きます。あの大統領はポピュリズムだ、あの首相が、あの党首が、委員長がと。政治の現場に大衆ウケする人気リーダーが登場した時、よく言われます。

ところが、支持者の多さは民意の反映です。民主主義では数の力を正義とします。支持者数が多いほど、良好だとしてOKをつける主義。だからポピュリズム批判は民主主義の否定だと、常に裏で言われます。

同様に、日本で一番人気のルノワールやマイヨールは、ポピュリズムを代表する理屈です。市場の売り絵も同じ道理で。ポピュリズム糾弾は、誰もがわかる人気作品をけなす話に陥ります。当然ブーメランすぎて、音楽はもとより美術でもあまりやらないポピュリズム批判です。

ピカソ、ミロ、ダリの三大画家で考えると、この逆順にポピュリズムでしょう。わかる人が多い作品ほどポピュリズムというのは、話が合います。抽象画は大衆迎合に遠いから、ポピュリズムから遠いし。

マスコミは、マン・ストッピング・ワードとして、ポピュリズムの語を多用します。思想や利害がぶつかる敵性リーダーへの悪口が多い。今の当面のポピュリズムはナショナリズムを指します。地域文化をシャッフルするのがグローバリズムで、フィーチャーするのがナショナリズム。かつポピュリズム。

ポップアートは大衆向けだったはずなのに、ポピュリズムとは呼びません。難解だからか、ナショナリズムでないからか、はっきりせず。とはいえポップはアメリカンローカルの面が強いから、一貫させにくい語でもあり、あいまい語の一種になっています。『モナリザ』はポップかと問われても、答えにくいし。
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大川小学校の津波大被害とゴッホ裁判

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当時サイテーの画家ゴッホが、後世に最高峰の巨匠となった事件を、今正面から受け止めるのは困難です。場のTPOが異なりすぎて、19世紀の気分になれるわけもないのだし。本ブログもこう感じられるかも。「天才ゴッホをサイテーと呼ぶなんて、最低なやつ」。

宮城県の大川小学校で74名もの生徒が、2011年の大津波でやられた事件も、今になって裁定は困難でしょう。すぐそばに高い裏山の林があるのに、行く行かないで長時間もめた大失敗です。待機を指示された生徒らは校舎とともに水没し、川辺へ連れられた生徒も同じでした。

結果を大勢が知る今になって裁くと、公正かの問題があります。巨匠に転じたゴッホを前提に、当時の美術ファンを裁くに似た話で。未来が読めなかった大失敗を、過去形として知る者が大批判する、そんな悲しい一面がこの裁判にはあります。

だとしても、学内の地位ある立場に創造力が必要でした。パニック映画『ポセイドン・アドベンチャー』で、「船がさかさまになったから船底へ行こう」と、不穏な本質論の強行が小学校にも必要でした。

「海辺の大揺れは、山へ急ごう」が本質論。「生徒が滑って転ぶから、変なことはやめよう」式の思いつきを、蹴飛ばす人物が必要でした。時流に乗った絵を描かない画家のごとく、「永遠の正解はこれ」の本質を外さないタイプ。あの時はあの時さと、場当たりにならないタイプ。

丘陵へ生徒を連れた他校の教師も、「大山鳴動ネズミ一匹」と後で嘲笑される不安はあったはず。その場の空気に染まらずに、永遠のセオリーどおり行動できる指導者が各校に必要でした。実際にはいたから、各地で多くの生徒が助かった、その陰で起きた恐ろしい失敗でした。
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個性と自己中心はどう違うのか

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過去に見た興味深いネット議論に、個性と自己中の違いがありました。自由と勝手の違いや、主張とわがままの違いと似た議論です。多くの意見では、個性と自己中は違う前提で、どう違うのかを言葉で言おうとしていました。

「あの行動は個性だが、この行動は自己中だ」という差を的確に示そうと、違いを明らかにする作文に挑戦していました。その線引きする必死ぶりをみて、こっけいだとの意見までついに出ました。それがまた、納得できる意見です。

それらの作文は、許せるものと許せないものが先に念頭にあります。たとえば茶髪は許せて、金髪は許せないとか。二つを言葉で上手に区切って、差を出そうとしています。許せるものがインとなり、許せないものがアウトとなるよう、言葉巧みに定義を加減して除外する苦心です。

つまり、自分が許せるものと許せないものの告白にすぎません。個性と自己中は相対的だから、要するに同じです。今神扱いのビートルズが、当時どんなに叩かれたか。当時の立派な地位ある識者たちの、おぞましいビートルズ批判。自己中を嫌う国ほど個性が排除されるのは、要するに区別が不可能だからです。

企業が本気で学生に個性を求めても、ユニークな人はやはり排除されるでしょう。「企業戦士」の語は正直。「個性」は「芸術」と似て、変形させて我田引水に使われます。日本で個性とは問題児を暗に示す隠語なのは、はからずも正直な告白になっています。

最近の脳科学では個性と自己中は同じものと、素直に説明しています。他人の好き勝手を許せば、個性も伸びると認定。名案は、周囲の忍耐や迷惑から生成する解釈です。だからかビートルズを生んだイギリスは、世界的に表現のトラブルが多い国に映ります。
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カルト教団の地下鉄サリン事件が残した小さな教訓

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長野松本サリン、東京地下鉄サリンなど一連の事件で、日本は世界記録を残しました。化学兵器で総攻撃した大量殺りくテロは、世界で日本以外では起きていないそうだから。

最近法務大臣が動き始めたので、事件特集がまた報道されるでしょう。多い声は「事件の真相は究明されていない」。他国とのつながりは解明しきれず、しかし主要テロの全体像はつかめています。犯人が言葉表現できる範囲で、新しい話はほぼ出ないでしょう。

古い話のキモは、教団がカルトに転じた発端です。あの国会議員選挙。教祖の落選後に、地方都市の駅でもチラシが配られました。教団による出口調査で当選確実だった教祖が落選したから、開票の不正操作は明らかだと、チラシに書いてありました。

チラシを手にした著者は、とてもいやな予感がしました。そしてやはり教団は「俺たちの憶測が的中したから、誰も反論しないのだ」との解釈を持ったようです。不正まみれの日本を滅ぼし、国民を入れ替える使命に燃えた教団は、ロケット砲や大型ヘリを海外で購入し、生物化学兵器の製造にも着手しました。国政選挙の妄想の放置が発端。

当時、識者たちは空中浮遊術の写真にノーコメントで、超能力を否定せず黙殺しました。すると若い世代は「人間の特別な才能を認めたくない科学者たちが、古い常識を守ろうとした」と、教団の肩を持ちました。後のSTAP細胞への愛護とよく似た部外者の反応でした。

空中浮遊術の写真に感動して参画した男が、26人殺しのナンバー2。教訓があります。愚にもつかない妄想に、愚直に反証するだけでも安全保障になる教訓です。曜変天目茶碗も一例で、否定せずに黙殺した灰色状態だと何かがまた起きる。そんなリスク計算もいるでしょう。
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マンネリズムと芸術はどう関係があるのか

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「マンネリズム」「マンネリ化」は、型にはまって停滞する意味です。芸術の創造とは逆だろうと思えます。マンネリ作品ほど売れているぞと反論は出そうですが、非創造的な印象が先立ちます。

しかしそこに言い方もあります。たとえばピカソとブラックは立体派運動の最中に、似たような絵を続けざまに描いています。それどころか、二人の区別がつかないほど同じ画調でした。ならばそれらの新作はマンネリになっていたのか。

作る側からすれば、新造形はある程度の数量が必要です。一点のみ作っても何も起きないから、似たものを何十枚か作って層の厚さを出したいわけです。特集展示会ができる規模をそろえ、画集も出したいしと。

類似品で弾幕を張って宣伝します。同時に、代表作をものにする目的もあります。傑作は一発ではできないから、数を撃って理想の的に当たる確率を上げる数学的な解決法です。たくさん作った上で、抜粋して顔役にします。

立体派が出た頃に「何じゃこの変な絵は?」と感じた人は、何度か見るうちに「またこれか、マンネリだな」と感じたでしょう。「この絵はたくさん」「もうお腹いっぱい」と、うんざりした気持ちになったでしょう。まだ世に珍しいのに、飽き飽きした反応が早めに出てきて。

ポロックなど伝統破壊型も、この反応を誘ったでしょう。理解できないとマンネリを感じやすいのかも。美空ひばりと安室奈美恵は同じという人は、マンネリのため息が早いでしょう。逆に今さらの印象派ふう絵画をマンネリと呼ばないのは、大勢の今の趣味に合うからでしょう。
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美とはノスタルジーであるという本質論

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「美とはノスタルジーである」は誰かが言った言葉で、著者が感心したひとつです。たとえば著者の絵は、世界中の美術とつながりがありません。「フォーブが好き」「アンフォルメルなら知ってる」「ポップ命」など、学んだ知識の応用はききません。

人々の脳裏になく、連想できるものが存在せず、理解の糸をたぐれないわけです。言語にたとえるなら、英語だと少しはわかるとしても、ロシア語だと断片もつかめない感じ。脳内に暗号カギを持っていない限り、何が何だかわからないでしょう。

ところが、作るこちらは徹底しにくいのです。たとえば制作中に画面内にきれいな色彩が見つかると、よりきれいにしようと追いかけてしまいます。グラデーションが発生すると、「まあきれい」と皆に思ってもらう方向へ何となく寄って行ったり。

きれいな色や目を引くグラデーションは、古風な美学です。決まり文句みたいな定型パターンで、もうとっくに創造でも何でもなく。が、それも見せ場に加えてしまう未練を撲滅できていません。切り捨てたそばから、ノスタルジーが復活しようとします。

印象派の絵画が登場した時、本来はグリーンに塗る樹木が、ブルーとイエローの点々でした。離れると緑に見えるふざけたまねに、当時の美術ファンは腹を立てました。しかしその前衛的な技法は、年月経て保守的な技法に編入して、とっくにノスタルジー化しています。

意味不明の現代アートに接した脳は、凹凸素材の繊細さや厚塗り筆タッチの迫力など、とりあえず古風な美を探し出します。今すぐわかる解釈に駆け込む感じで。この反応のせいで、日本人が見た印象派もフランス人が見た浮世絵も、古風な味わい方に閉じこもりやすいのです。斬新な作品が、古色の部分でウケていることがあります。
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サッカー日本代表が結果を出すために国民がやること

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サッカーワールドカップ2018ロシア大会も、ジンクスどおりです。優勝国は次回は低調となる法則で、最近5回のうち4回、1998年フランス、2006年イタリア、2010年スペイン、2014年ドイツという歴代優勝国は、4年後はグループリーグ敗退に終わりました。

著者は半分冗談で、「勝ちそうな国は負け、負けそうな国は勝つ法則」としました。これは、世界一に輝いた後ですぐに崩れる意味ではありません。その後も世界一らしさを保ちながら、皆から過去最高の出来だねと言われながら、4年後の本番で突然崩れる意味です。

本番前21カ月の予選でゆうゆうと出場権獲得。仕上がり時の評判もよく、名門リーグの実力者ぞろい。偉大な地位で次の本番を迎え、なぜか不発になります。「ふがいない」「期待外れ」「裏切られた」と、国民は大合唱して。

原因は心理面でしょう。期待、自信、不安、責任、意地、夢などの兼ね合いで、ハッスルか低迷かに振り分けられているみたいで。余裕あらば負け、危機あらば勝ち。人間は精神的な生き物だからか。手を使わないボールの挙動も不安定要素となり、予定調和を乱します。

「マスコミも国民も叩いたかと思えば、てのひらを返して節操がない」「上げたり落としたり勝手だ」「批判する者は去れ」の苦情はナンセンスです。祝福していると、本番で機能低下するから。叩いて逆境をつくり出さないと、大舞台で結果が出ないから。

絵画芸術にも、似たところがあります。祝福された制作は時代の売り絵クラスにとどまり、本物になっていません。近世の奇抜な画家エル・グレコのように、「これはないでしょ」「最悪だ」と言われた者が、歴史の本戦で強い。サッカーよりも逆転に年月がかかりますが。
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公文書改ざんをめぐる国会議論の二重構造と芸術

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国会で続いているモリカケ事件。「公文書の改ざんや隠ぺいはあってはならない」の言い方にご注意を。よく聞いてみると「国の厳格な規則」でなく「僕の信念」で議論していますね。他の議員や官僚はこう思っているかも。「今回の改ざんはまずかったと思う」。

次回の改ざんはOKと考えているかも。「公文書の改ざんは基本的にはだめだけど、どうしても必要な場合はやりますよ」「今回はその例外に該当しないから、賛成できませんけど」というつもりかも。

「国の規則だから」「神の冒涜だから」など、堅固なルールでの改ざん禁止ではないような。「僕の正義意識に照らせば」「潔癖な我が趣味」式の個人フィーリングで、今回限りの使い捨て議論にとどまる疑い。

報道記者やニュースキャスターが「改ざんはとんでもない」と口にする時も、自身の哲学にとどまりそう。実際、誰も有罪になっていないし。裁判所によると改ざんOK。多くの国民は、改ざんは法律になじまない道徳問題だと知った。

公文書の偽造や廃棄は、適宜許されていたタネ明かし。将来も改ざんするつもりの上層と、国民は今もすれ違っています。ほとんど罪深そうにしていない役所の雰囲気は、これで一応説明がつくでしょう。

基本原理の空白は、美術創作も同様です。「前例に似ていないから本物の芸術だ」「前例に似ているから本物の芸術だ」と、正反対が並立しています。個人の信念と趣味で、正解が適宜動くという。「芸術はすばらしい」とそこだけは一本化していて、部外者にはわけがわからん。
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リーディング・ミュージアムは先進美術の売買市場?

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抽象画はわからない

5月に出た政府の案。「先進美術館」(リーディング・ミュージアム)という構想。公立や私立美術館が「先進美術館」を名乗り、作品を売り買いするディーラー役となる思い切った案です。背景は、デフレ日本国で続く美術館のマネー不足です。GDP横ばいで文化が縮んだツケ。

異常に小さい日本の美術市場をでっかくする、という政府の理念はマルです。ただし美術館の収蔵品を金額査定し、アート市場に流す策は微妙だと感じます。著者は建築計画の美術館研究者でした。政府案にバツをつける理由は、著者のCG絵画を売る話でないから。「ええっ、そんな私的な理由で?」と思われるでしょう。

著者は東京へ出ずに地方都市に残留した抽象画家で、欧米へ手を伸ばす一群の代表です。絵はドイツでは売れ、日本では全敗し市場に居場所がなく。こんな権威に遠い美術作家は、権威ある美術館のお墨付き作品で市場をリードする話に、未来を感じません。

美術に似ていない美術の出る幕は、政府案にないようです。日本の芸術が埋もれた場所は、由緒ある美術館の中だという前提が政府案。在野が美術館をリードする発想がない。犬を飼うなら血統書つきで決まり、が政府流。

日本の美術市場が小さい原因は、血統書なしに作品だけを見て、芸術性を読み取る人の少なさです。苦手な人が多いから、流行らないわけで。苦手だから、由緒ありに関心が殺到する。先進美術館では、民間の画商が美術館員より格下の話になっていて。

あるいはもう美術館は泥舟で、資産を切り崩す末期状態なのか。ならば背伸びした自助より寄付が先決。ちなみにドイツの美術市場は、町内の通学路でアートフェアを開く「美術の一般化」がまぶしい。普通の家庭に現代美術がある。近代絵画タイプでない新時代の現代絵画が。そうなる原因は、国民が美術が苦手でないから。
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サッカーワールドカップとルミ子二千試合観戦効果

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
著者はサッカーに関してプロの視点は持たず、素人から出ていません。テレビがないので中継放送とは無縁で、年間二千試合を見るルミ子先生にはるか及ばず、動画サイトでチェックする程度です。

だから試合の見え方が異なります。よくある不思議体験は、日本代表が負けた試合です。試合後にサポーターが「全く動けていない」「ボールが入る気がしない」「最悪」「こいつら全員いらない」と、日本チームをけなします。アンチは「日本人にサッカーは向かず無理だ」。

しかし録画では、それなりに善戦してみえます。攻撃もしかけ、適度に前を向き、よく走りボレーも打つ。決定力がないのは、相手も同じようなもの。だから選手が答えた「負けた気はしなかった」は、著者の印象に近い。いや雲泥の差だったと、ベテラン観戦者は叩きますが。

この見え方の違いは心構えで生じます。マイナス情報が満ちた反動で、プラス補正されるだけではありません。日常的によく見て知って詳しい人ほど、小さい差が大差に拡大されて見える心理効果があります。地球がジャガイモになるほどの、脳内デフォルメが起きて。

年間二千作品を見ての「攻めていない」「日本人には無理」という美術とて、素人なら許せるでしょう。たまに鑑賞するだけなら、どのアート作品もそれなりの善戦に感じます。欠点が目立たない。曜変天目茶碗で起きた混乱も、陶芸がどれも似たものに見えるせいでした。

芸術性も「僕にはわかりません」「いや雲泥の差だ」という、脳内での拡大率の違いにすぎないのかも。表現物の亀裂や断層を感じ取る力は、単純にたくさん見たら自然に得られそうで。ルミ子大王がメッシ以外への愛を語り出すのを、とりあえず待つ6月。
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パワーポイント的な見せ方が見せ場の現代アート?

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1995年にWindows95が発売された時、オフィス95というアプリスイートも発売されました。そのパッケージの気になるソフトがパワーポイントでした。プレゼンテーションソフトという、日本にとっては目新しいジャンルでした。

企業で使う会議用資料は、従来はプレゼンボードという大型パネルに紙を貼り込んで立てかけるか、または部屋を暗くしてスライド映写機や、オーバーヘッドプロジェクターで壁に映したものです。

パワーポイントはパソコン画面に用意した仮想の白紙に文を書き、写真やさし絵やグラフを貼り、音声を貼った状態で一個にデータ化します。その紙芝居タイプの図版を当初はブラウン管に映し、後に液晶プロジェクターで壁に映しました。

「すごーい」「斬新だ」と尊敬を受け、企業に新風を吹き込み、しかし間もなく問題になりました。見せ方に熱中する点。写真のフェイドインとアウトが派手で、タイトル文字が踊る。グラデーションの背景。それらのエフェクトで目を引いても、かんじんの本文は手貼りボードの時代より希薄な内容になったという。

似た現象はアートにも起きます。たとえばレーザー・ホログラムで立体を描くアート。空中に浮かぶバーチャルな立体アート展に「すごーい」「斬新だ」。一息してみると、どこが創造か、何を指して芸術なのかが希薄と気づく人々。空中の立体は、ロダンの『考える人』。

既存の造形で見せ方を一新するのは、現代美術らしいひとつです。背景には、造形の新開発が負担になった時代性もあるでしょう。20世紀半ばからアートが行き詰まった課題です。「斬新こそが芸術なのだ」ときて「斬新とはそこかよ?」で落とす、ダダ運動タイプの時代でした。
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スポーツとアートのドーピング冤罪ロジック

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
刑事裁判の場で、裁判官に対して黙秘した容疑者を、冤罪だと思う人はいないのではありませんか。第三者からみると、「この人は真犯人か、または犯人を知って隠している」とわかるからです。

黙秘は事実を伏せる行為なので、発覚すると困る立場である道理です。濡れ衣で黙秘はあり得ない対偶のロジックです。法曹界の弁「黙秘は罪に問われない」とは、全く関係がない話です。真犯人がまんまと逃走中と思いきや、その犯人は自分なのだとよく知る立場ゆえに、調査妨害を始める脳のはたらきの話をしています。

心証と呼ぶあやふやな情緒と別次元に横たわる、この怖い一択ロジックに基づくひとつの応用が、スポーツのドーピング検査です。「この日までに検査に来てください」という五輪委員の要請に対し、重ねて拒否すると五輪メダルが剥奪されます。拒否した理由を問わずに没収。

「優勝者に対する無礼な命令で応じる気が失せた」「人種を理由にメダルを奪う差別に断固反対する」など、疑惑選手がマスコミを味方にする弁論を工夫しても、五輪委員は機械的に剥奪します。前もってロジックを勉強しているから、いちいちぶれない。

やっていない違反を疑われた者は、自分をよく調べてくれと言い出します。調査が詳しいほど、シロがばれると知っているから。逆に調べさせまいとすれば、クロがばれると知っている。第三者が首をかしげる必要もなく、証拠なしにわかる一択ロジックの妙は、まるで手品です。

似た道理は芸術にもあります。たとえば、わからない作品を称賛しないメカニズムです。音楽でベートーベンどまりの理解で、バルトークへの理解を演じてみせる者はいないという。人が作品を語る時は、見栄張りなしに等身大を演じると、本書で一択ロジックを明かしています。
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ゴッホを買わなかった19世紀の人は何を買ったのか

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
133年前のゴッホは引きこもらずに、作品をがんがん市場に出しました。公募コンテスト展やアンダパンダン展で、存在は知られていた説もあり。例のあいつを今度も笑おうと、市民に変な話題性ができて。

ゴッホの生前に絵を買った人は、知人であった詩人の姉だけでした。縁故であれ売れたゴッホの成績は、作品を市場に出さずにいた著者よりは高い。しかし二作目が出ず、奇行に走り早死にすることに。

そこで気になる謎があります。当時の人はゴッホを買わずに、何を買ったのか。ゴッホを笑った美術ファンたちは、どの絵なら感動したのか。答は簡単で、普通に当時の売り絵を買っています。どの国でも、圧倒的に売れるのは売り絵です。その名のとおり売れる。

「売り絵」は商用の普及作品を指し、売れ線の絵に一致するでしょう。画商が売り絵と言えば創造性を保証しない意味で、しかし蔑称に聞こえてもB級ではなく立派なA級です。当代ユーザーが愛する好作品です。大勢がピンときてなじめる、絵らしい絵。苦情が出ない、心のこもったアカデミズムが売り絵の内訳です。

ゴッホの時代にも、市民の趣味のど真ん中にストライクを入れる器用で達者な流行画家がいて、何百枚もヒットを飛ばしています。オリコンなら名匠ですが美術は例外なのか、売り絵にボロ負けして詰んだゴッホのみ歴史に残り、巨匠に上がりました。

著者が他人の作品を外国で売る時は、売り絵でない実験的創造者の切り出し方をとります。そこに食指が動く層がいるはずだと見込むと、結果が出たからです。狭いゾーンですが、国内とは違う方法をとります。
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