日本のハロウィン論争にみる商業嫌いな潔癖症
2017-10-17 Tue 00:34
日本で毎年輪が大きくなっていくハロウィン祭ですが、この季節の論争のお決まりが、ハロウィン祭の是非論です。騒ぎやゴミちらかしとは別の、由緒など根底的な問題。北欧ケルト文化なんぞを極東の温帯地域の国に持ってきて、何なのだ?という反対意見が多いのです。

これはクリスマスやバレンタインデーなどが摩擦を受けた過去が、再来したといえるものです。よその宗教由来の文化を模倣して、原意と違う趣向に改変し、商業主義に乗せることへの否定感情があります。

批判対象になっている四つの項目、異文化、模倣、改変、商業はいずれも、日本で洋画と呼んできた絵画たちがたどった道に一致します。日本の印象派とか、日本の野獣派とか、日本のポップアートとかが、日本のハロウィン祭に相当しています。

四つで気になるのは商業です。「みんなついて行くな、宣伝に乗せられるな」「巧妙な商売だ」「菓子もカボチャも買うな」「祭のイベント化をやめさせろ」「業者のワナだ」「儲けるやつを止めろ」「日本を金で汚させるな」。不潔な商業を排除する気持ちでいっぱい。特に若い世代は、商業主義への生理的な拒絶反応が真っ先に噴出。

しかし日本古来の神事のおまつりや伝統的な村祭りや収穫祭も、とっくに商業に組み込まれています。ハッピに商工会議所の刺繍があったり、みこしやだんじりに企業名が書き込まれています。金で興行した祭りで金を回収する経済回転は、日本固有の祭りの数々が現にやっている。

「文化を商業に乗せるのは許さない」の部分。これが日本の芸術活動にもみられます。売る目的のアートフェアはまるで未発達です。圧倒的に多い公募審査コンテスト展は、会場で売らない規則がほとんど。美術展覧会の形式が、ハロウィン反対派の意向と一致します。美術品や写真類を換金させまいとした、国民の潔癖症が根にあるようで。
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鑑賞する時に作品のどこにまず注目すべきか
2017-10-14 Sat 00:10
どこかと問われるなら、作品ですと答えます。作品のどこなのかに対して変な答ですが、要は作品以外に注目しての鑑賞は失敗になるという、最大の注意点です。たとえば作品近くに金賞ラベルがあると、自由に見ることは人間には不可能です。人は情報にいちいち左右されるから。

ならば金賞ラベルはじゃまだからなくせという意見は、音楽や映画ではよくあります。優れた作品かどうかは視聴者の僕らが決めるから、称賛を並べて飾ってあると逆に目ざわりだという。音楽や映画では。

ところが美術だと、金賞ラベルは引っ込めの声はあまり出ません。たぶん大勢が頼るからでしょう。手がかりが何もないと鑑賞しにくいのが、美術の事情だから。ネットにアート作品評サイトが少ないのは、優れた作品かどうかを僕らが決めきれない、美術鑑賞の事情でしょう。価値がわからないから上が貼ったラベルを頼ることになって。

このように美術に生じやすい特殊化は、日本で目立つ現象です。ヨーロッパでは、絵に金賞ラベルをつける必要性はずっと下がります。自分で直接作品を見れば早く、美術鑑賞も音楽鑑賞や映画鑑賞に近いという。

では作品以外の評価情報カンニングをやめたとして、次に絵のどの部分に注目すべきか。もちろん全体です。重要なのは作品との距離です。作品の全体像を把握できる距離は、そう近くではないからです。目の視野角の生理的な限界があり、パッと全部見えるのはやや遠め。

試しにパソコン画面いっぱいに画像を映すと、目を画面から十分に離すことで全体がつかめます。一メートル以上とか。逆に顔を近づけて画面をのぞき込むと、職人芸モードの観察に転じ、勉学に近づきもします。遠くから見る方が、芸術性の把握は容易になります。意外なことに。
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アート作品はいつになれば完成するのか
2017-10-11 Wed 00:43
手塚治虫の漫画は、生前からレジェンド扱いでした。漫画雑誌に連載された後で、別の雑誌にまた連載されることがたびたび。特徴的なのは、掲載するたびに中味が改変されたことでした。手塚治虫自身がひんぱんに作り変えたからです。

なぜ漫画家が発表後の作品に手を入れるのかは、たぶん週間連載の締め切りに追われたバタバタの大忙しで、初版に不備が多いからでしょう。別の漫画家ですが、ネーム間違いや意味が通らないコマや、似た髪型の人物を描き間違えたアシスタントのミスもみました。

1980年代からか、不適切なセリフを改めるいわゆる言葉狩りが盛んになり、コミック単行本化で書き直すケースが続発しました。秋本治の『こち亀』で、中川の「天皇陛下バンザーイ」が早めに絶版になったのも、情報化時代に警戒したリスク管理だったのでしょう。

しかし手塚治虫の場合、絵やストーリーの変更も多いのです。手直しでなく改変。似た改変は画家にもあります。よく知られるのがピカソで、完成から時間がたって描き足すなどはざらだったと、側近たちの自伝に書かれています。ピカソは、実は一枚に時間をかけていた事実。

完成後に描き足したくなることと、芸術作品の実現が難しいことは、根が同じです。描いている最中の画家は、画面から押し返されます。時間がたって絵を見直せば、押しの弱い部分を容易に見つけ出せます。萎縮ぎみに引いた作品に、ほとぼりが冷めて気づきます。

しかし逆は起きにくいのです。後で見直して、絵の押しを弱く変えたくなる確率は低い。不足は感じても、過剰を感じることはまれ。ただし皆無ではありません。作品の力を下げる改変に、著者はたびたび遭遇しています。その心理の微妙なゆれを止めるには他人の助言が必要です。
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芸術は若いと有利なのか不利なのか
2017-10-08 Sun 01:42
若さの最大の武器が体力なのは、サッカー試合で痛感します。世界的なビッグスター選手が、徐々にレギュラーから外れサブに回り、久々の話題は下位リーグへの移籍。衰えたなあと人は言いますが、歳に勝てないのは万人共通の自然現象。

若い頃に戻りたい願いも多いから、医学も若返りを一大テーマとして進歩しています。しかしもし若返ることができても、脳の中味は今のまま変えないのが、多くの第一志望ではないでしょうか。脳まで若い頃に戻るのはちょっと、というのが本心では。

自分の若い時を振り返ると、照れくさくて恥ずかしいものです。当時の未熟な知識と思考に戻りたくない人も多いでしょう。若い心と体はアンバランスです。その若者によくみられる思考に、「絶対的に正しい永遠の正解はある」という信念があります。

「正しいものを残し、間違ったものを除去すれば、世の中は良くなる」式の思いは、年輩に少なく若者に多い。主観にまさる客観があるとの思いも。絶対的正義への一途な信心。相対的思考と逆の硬質で筋を通し、自ら正義の側にいる前提で。この自然現象的な高い意識がゆるみ始めた時、もう若くはないということでしょうか。

恒久的に正しいものは実はないのですが、どこかにきっとあると信じる間が青春でしょう。世界を相対的にながめ始めると、そんな青春の思考に戻りたくないと感じるものなのでしょう。若返りは体だけにとどめ、頭脳は昔に戻したくない気持ち。あの日に帰りたくない。

絶対的一択の猪突猛進は創造の突破力ですが、創造を抜擢する立場に回れば支障です。だから若者が創造して、年輩が拾う役割分担が、文化創造育成の成功方程式になる理屈です。この役割分担は音楽界では一般化済みで、美術界では今後の課題というところ。意外にできていない。
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政府が芸術活動を指導したジダーノフ批判を批判しにくい理由
2017-10-05 Thu 00:40
『ジダーノフ批判』なる語を聞きます。ソヴィエト連邦政府が1948年に始めた、芸術の検閲と指導です。国内アーティストたちの20世紀アヴァンギャルド芸術をやめさせ、社会主義リアリズムへ転向させたプロパガンダ。このジダーノフ批判への批判が珍しいのはなぜか。

クラシック音楽界のいきさつが記録され、ショスタコーヴィチの作風をソ連政府がヘイトしたプラウダ批判の、続編と考えられます。民族的で伝統的な作風へ戻させ、改心しないアーティストに国が悪のレッテルを貼り、食えなくするわけです。当然、西側国へ亡命する作曲家が続出しました。フランスやアメリカへ。

これとよく似たのが、ナチスドイツが開催した『退廃芸術展』でした。作風が腐敗した絵画を国内で一堂に集めて公開展示し、皆で馬鹿にして最後に焼却して社会を浄化するイベントでした。カンディンスキーやシャガール、ゴッホの絵も含まれたそうで。世界に害毒をまき散らす狂人たちの絵をなくして、美しい社会へと昇華させるために。

ジダーノフ批判は表現の自由をつぶした国家権力の黒歴史ですが、この恐怖政治を批判する声は少なくとも日本ではあまり聞こえません。なぜか。当時バツだった曲とマルの曲を聴きくらべるとわかります。

ソ連のスターリンは「芸術は難しい、現代音楽はわからない、抽象曲はちょっと」の人であり、簡単でわかりやすく親近感のある、明るく楽しい音楽を愛好しました。日本でも大勢の趣味はスターリンと合い、同じ曲に心奪われるでしょう。クリエイトよりノスタルジーに魅了されるのも、世の普遍性のひとつ。

「ヒトラーもスターリンも、アートでポピュリズム行政を実行した」と理解は簡単です。しかし二人が嫌った作品が、今の自分が苦手な作品と一致すれば、ポピュリズム批判もトーンダウン必至。かといって賛同もできず。ちなみに、日本でも総理大臣賞や文化勲章でマルはつけます。マルがつかない作風は一応冷遇の意味です。
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ピカソの抽象がわからないポジショントーク
2017-10-02 Mon 00:13
テレビの討論番組で、視聴者が「この発言には意味がない」と見切る、そのよくあるパターンはポジショントークです。立場に由来する発言。利害関係者の世論工作にすぎず、単なる私見と違い利益誘導だから。

ポジショントークが多くて討論の意味が薄い例に、「中東の紛争の根本原因」「旧日本軍の世界史的意義」「少子化はなぜ起きたか」「死刑の是非」「ダーウィンの進化論の正否」などがあるでしょう。最近よく聞く世界のフェイクニュース問題は、突き詰めれば正論を装ったポジショントークがネタばれした混乱です。

「意見の差は考えの差でなく立場の差だ」を美術に当てはめると、アート作品のわかるわからないが、あたかも立場のような作用を持ちます。個人の人生観まで拘束する、わかる範囲というもの。

アート分野で比較的よく耳にする言い方に、「ピカソの若い頃のデッサンはすごいよ、感動したよ」があります。ちなみに、ピカソの上を行くデッサン達人の若者は、日本の美術大学にも多いのです。日本の美大のレベルは低くないから、ぜひそちらにも感動していただくとして。

若きピカソのデッサンへの称賛は、後日の抽象画はわからない意味?。ピカソの抽象画がわかる人は、あの言い方は絶対にやらないでしょう。具象止まりだと他人から思われたら損だし。自分がわかる限界ぎりぎりを、人は語りたがるものだし。

最新テーマは、写実デッサンが芸術の本質でないなら、何がそれなのか核心に答える内容です。人それぞれなんて肩透かしでなく、いつもどおり突っ込みます。デッサンを芸術性と誤認し、美術と人の関係がまずくなったフェイク芸術問題です。ただし核心があらわでも、新たに損するポジションは意外に生じません。
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ゴッホはゴッホを本当に認めていたのだろうかという問題
2017-09-29 Fri 01:11
日本語の乱れでよくあがる語。悪いと知りつつわざとやる犯行を、過失と区別して確信犯と呼ぶあれ。正しくは故意犯であり、政治家の領収書詐欺は確信犯ではなく故意犯です。確信犯とは信仰などに基づく一途な犯行を指し、養護施設のナイフ襲撃が確信犯でした。正義だと本人が信じているのが特徴で、概して黙秘しない。ドリルで証拠を消さない。

19世紀にゴッホが全く認められなかったのは、人々の過失や故意ではなく確信によるものでした。ゴッホ否定は正義だった。絵とはこういうものだとする信仰から、かけ離れた絵だったから。今も現代アートはこういうものだとする信仰はあるから、終わった話ではなくて。

ゴッホの死後、周囲の親しかった人たちも遺品の絵を欲しがらず、ゴミ扱いしました。当時、確信に満ちた視野が広かった画商ヴォラールは、何と19世紀中にゴッホ展を開催しました。先見の明。が、人々や業界から相手にされず。

ゴッホ事件で注目すべき点は、ゴッホが自分の絵を認めていた点です。そんなの作者だから当たり前だと思われるでしょうが、けっこう危なかったと著者は推測しています。根拠は、現代アートを作る者にしばしば起きる自分カットの実態と似ている、ゴッホの行動。

昨今の画家とて制作中にゴッホ並みに、未だ見ぬ領域に届く瞬間はあります。つまり筆が滑ったり勢い余って、特別なテンションの絵ができるわけです。心境のはずみなど偶発が重なって。故意でも確信でもなく、過失で芸術に届く。「これだ、これこそまれな創造だ」と、誰かが気づく絵ができてしまう。

しかしかいた本人が、奇抜な異次元の迫力に違和感を覚え、削り取って凡画へかき直す対処が起きやすいのです。別に凡が目的ではなく、当人としては感じよく整えているだけ。著者は結論しました。「芸術の芽をつむ犯人は作者だ」と。実はゴッホにも、自分のある突出を削った例が実際にあったと、本書でも触れています。
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「で?」のリアクションは、美術公募コンクールでも起きる?
2017-09-26 Tue 00:55
ネット記事への反応によくある、「で?」という一言。記事に対して、「だから何?」「それがどうしたの?」という不満の投稿です。内訳は「長い記事だが、かんじんの結論がないぞ」「僕らに何をやれと言いたいかが、どこにも書かれていないぞ」。

記事の欠点を僕は見破ったぞと、やや得意そうな「で?」というリアクション。しかしよく考えてみれば、よく考えてみる習慣がない立場からの一言とも言えてしまうのです。

というのは記事の機能は、結論を出したり読者を指導するとも限らないからです。たとえば国家間の戦争は、背景も込み入って不条理や矛盾も多い。事情の複雑さを列記したまとめニュースもあり得ます。「こうあるべき」「あなたはこうしなさい」と結論を出さずに終わる、ト書き型の資料記事も多いでしょう。

「で?」という反発の裏に、「結論だけを僕に伝えよ」「僕がすべきことをはっきりさせよ」という、他力本願が隠れているのです。この心理を美術の分野に無理に当てはめてこじつけると、やはり公募コンクールがその気分に合わせた仕様ではないかと。

美術の大規模展覧会は二つに大別でき、欧米の主流はアートフェアという商談の場です。対して日本の主流は、コンクールという合格発表の場です。欧米では市民が自主判断して買う目的、日本では優秀作を偉い人から教わる目的。教わるだけで買わない前提ですが。

アートフェアを日本にも導入し、作品がト書きのように並べば、観客に「で?」が起きるかも知れません。内訳は「優秀作だけを僕に伝えよ」「僕が見るべき絵をはっきりさせよ」。しかし実際に開催すると、骨董市ふうになったケースがあったそう。欧米のアートフェアは全てが現代美術なので、方式以外にも日欧のギャップがあります。
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自由であることがマイナスにも作用するアートの不思議
2017-09-23 Sat 00:43
一般に芸術性とは、具象画ではデッサンの腕前とされます。抽象画では自由な造形。まるで逆です。インスターレーションは既成の概念超え、ボックス系なら事件性。表現物ごとに芸術の意味はバラバラで、これは多様化なのか芸術を見失った状態なのか。

現代アートのウリのひとつに、自由があります。芸術の本質は自由奔放だとするもの。しかし著者は芸術の本質は自由ではなく、表現の裂け目だと考えました。表現の裂け目なら具象でも抽象でも当てはまるから、具象画の不自由さをみて芸術の意味を変えたりは不要です。

現代アートの自由至上主義は、害も生みました。多い指摘はアートの使い捨てです。一発話題づくりしたら捨てて、はい次、はい次と回していくアイデア競争。自転車操業は人々に虚無感も起こすでしょう。7億円のトラクター展示から受ける感銘は、思ったより小さいし。

軽く使う言葉「自由」は、それ自体が解釈の自由でふらつきます。アートは自由なのだと言う時、作者の振る舞いの自由度なのか、作品を見た人が自由な気分になる話なのか。二つを分けずに、「自由万歳」で終わっているような。

美術で言う自由は、たぶん現代人の間で共有できていません。社会学で言うフリーとリベラル、フリーダムとリバティーの意味違いよりも、もっと混沌としていて。共通認識が失われている言葉のひとつです。

哲学的な話はやめて、そもそも太古のアート類が自由奔放でない点は重要です。むしろ逆に、厳格な秩序(オーダー)に従った物作りが多い。できることが限られた不自由な時代の方が、表現が伸びやかになる結果がみられます。とはいえ制作条件の自由度と、成果がもたらせる自由感が反比例するかも、簡単にはいえないのですが。
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音楽よりも美術の方がファンが少なすぎる意外な理由
2017-09-20 Wed 00:42
音楽ファンの層の厚さは、CDアルバム評を書いたアフィリエイト販売ページでもわかり、論じられる内容も高度です。一方、美術を売るアフィリエイトはまずなく、美術論は概して固い。ネット空間でも、美術はやはり一般化していないみたい。

音楽と美術のこの違いで、著者は最近珍説を考えました。音楽は共同作業で、美術は単独作業で、その違いが魅力の差になっているのではと。要は、音楽にプロデューサーあり、美術にプロデューサーなし。

結果、音楽は商品価値が高く、美術は趣味の世界。人々は音楽作品は本当によくできていると感じ、美術作品は不完全燃焼や生焼けに感じるのかも知れない。音楽は完成品が並び、美術は試作相当が並ぶ違い。最後まで詰めきれていない美術。きれいにていねいに仕上げる話とは違う、作品の充実度の問題。

著者は、美術作品の完成度が下がる原因を、一人で作る限界と考えました。一人の力は知れています。気の迷いでゆらぐし、才人でもアイデアが広がりにくく、チェックも入らず、駄目出しする別の目がない。しかも、チャレンジを無意識に避けているかも知れず。

制度も違います。音楽には印税制度があり、関わった担当者で山分けするルール。映画にもあって、でも美術にはありません。画家Aさんを画家Bさんが手伝って作品を向上させ、より高く売って二人で配分する契約が、美術には存在しません。システムがない。

美術は協力し合わない前提になっています。好きにできる自由と引き換えに、成果は低め。自主トレーニングに変えたスポーツアスリートが、とたんに記録が伸び悩むパターンと同様かも。鬼コーチではなくとも、協力者がいればもっとずっと魅力が出るはず。横のつながりもないこの慣習を破ろうと、著者は行動に移しています。
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白人が和服を着た写真が、日本を差別した事件になった理由
2017-09-17 Sun 00:23
前はヴォーグ誌の表紙で、和服のモデル嬢が日本人差別だとして、アメリカ国内で糾弾されました。最近は誕生祝いで、日本の舞子さんに似たコスチュームの子どもが、同様にアメリカで糾弾されて、また日本人差別が理由。日本ではさっぱり理解できない事件でした。

いずれも、差別の文脈だと理解が難しく、著作権の文脈だと簡単です。唯一の超大国アメリカには、少数民族の伝統文化や風俗を模倣して消費するどん欲さがあります。我がもの顔で振る舞うコマーシャリズムとジャーナリズムの国民動員力は世界最大。

たとえばグァテマラなどの意匠を、欧米ファッションに利用する流行は昔からありました。しかし使われたマイナー民族側から、何度か苦情もあったのです。「我々の伝統文化を手軽に使い捨てされては困る」と。意匠権、著作権、専売特許と似た問題です。

アメリカ側は反省し、マイナー文化を白人がパクッて利益にするのはやめようと決めました。マイノリティーの異文化をヒョイと借りる気持ちに、マイナー軽視の差別意識があるのだという理屈で。白人が和服を着て表紙に写れば、日本国を軽視したとみなすアメリカ流の解釈です。

ではなぜ日本側は差別されたと感じないのか。日本で言う差別と意味が違うからでしょう。他文化を愛でると差別だと、その視点は日本になかった。模倣が侵害になるかが、国の強弱で動く発想がなく。

もっとも、和服の起源は古墳時代より新しく、唐時代に伝わった呉服が起源とされるし。アメリカ起源のTシャツ並みにすでにポピュラーで、保護を要するほど和装はマイナーでもないし。伝統保護の意識が国内に強くないし、縮小している国内市場もあるし。つまり日本からすると、和服はもう一般化済みの感覚でしょう。
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美術作品をつくった作者の気持ちをわかる必要はあるのか
2017-09-14 Thu 01:23
そう改めて問われたら、ノーの回答も多くなりそうです。「作者の気持ちと、僕らの芸術の感動は別だろう」という考え方が国民に広がれば、よい傾向でしょう。著者もいくつかの理由で、制作した時の動機をたどる意味はさしてないと判断しています。

理由のひとつは、たどっても当たらないからです。他人の気持ちは推理がつながらない部分が多くなり、ウソが多くなるから。ピンク・フロイドの名からフロイト博士の名を連想し、誤解釈を広めてしまった音楽誌の事例と同じで。

たとえば友人を亡くした知人がいるとして、その心境を別の人が体感することは困難です。そこで、自分の友人が亡くなった過去を思い出し、置き換えるわけです。関係を当てはめて推理し、自分との距離を調節して近似体験を想像してみる。

「おもてなし」を始め、日本人はこの置き換えの推理に長けていると外国から言われます。そうなった下地は、江戸からの長い社会教育と、学校道徳教育でしょう。日本国は地理や言語が孤立しているから、内部で共同体意識が発達した説も有力です。色々な理由で、他人の気持ちを想像するのが得意であろう日本。

ところがその日本人にも、抽象絵画の制作意図はまず読み取れません。作品がどうしてその造形に至ったかは、抽象どころか具象でさえ不明です。立場の似た美術家が、かろうじて憶測できる程度でしょう。

結論として、作者が何を思って作ったかは、読めないものです。それどころか作者本人も説明できず、だから世に出回る作品解説は実は他人がつくり広めたものがほとんど。制作コンセプトなるものは、娯楽ネタ程度にとどまっています。それはしかし悪くない現象です。
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映画『モンパルナスの灯』の悪徳画商は本当にいるのか?
2017-09-11 Mon 00:46
モンパルナスとモンマルトルは、よく間違います。著者も、あれ、どっちだったっけと、迷うことしょっちゅう。何しろどちらもパリにあり、どちらも芸術家が集まっている地区だったから。『モンパルナスの灯』という、モディリアニの伝記映画のお話です。

映画に出てくるキーマンは、リノ・ヴァンチュラ演じる超悪徳な画商でした。モディリアニの才能を見抜いて、しかし彼の絵を安く仕入れて転売益を高める策略を考えます。飲みすぎで死にかかったモディリアニを病院へ運び、死亡を確認してからモディリアニの妻の元へ。

死亡をまだ伏せておき、アトリエにたまっていた絵を安く買おうとします。妻は夫に支持者がいることを喜び、しかし値打ちがない前提の安価で渡すことに。画商は絵を次々とめくって確認。あの首の長い人物画が次々とスクリーンに浮かぶラストシーン。

ネットでは、あれがモディリアニの最後と心得る人が多いようです。映画評論サイトも、モディリアニの悲惨な事件として執筆されます。画商はしょせんあんな悪質な人種だと、訳知りに語る人も大勢。美術業界に幻滅して批判的に。歴史の記憶として、共有する史実として。

『モンパルナスの灯』は作り話です。モディリアニの最後はああではなく、絵を奪った画商は架空の創作キャラ。あんな人はいない。そもそも絵は安くすれば売れました。ところが日本であの映画を証拠にあげて、現実の画商は悪い奴らだと結論する人が多い。罪な映画です。後世の戦争エンタメ映画を歴史の証言とした、日本ヘイトみたいな感じ。

国内の悪徳画商といえば、贋作を銀座ギャラリーに売り歩くタイプや、契約画家に売れた金額を低く虚偽申告して差額の歩合を着服するタイプがよく言われます。それらもひどいから、フェイク映画を信頼する空気ができているのかも知れませんが。
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音楽のオブリガートの効果を絵画で読み取る
2017-09-08 Fri 01:45
音楽のオブリガートとは何か、ネットでよく質問に出ました。助奏と訳される技術です。ジャズ、ロック、ポピュラーでは簡単な話で、マイケル・ジャクソンの曲でも多用。が、回答は頭が痛くなる固い説明で、質問者が疑問を解消できていない様子です。

実例をあげた方が早い。宮川泰(みやがわひろし)作曲、阿久悠(あくゆう)作詞の『宇宙戦艦ヤマト』のこの部分。「うちゅうーーうせんかん」「ジャジャジャジャジャ」「やーーまーー」「ジャンジャジャーーアーン」「ジャジャジャ」「ジャンジャジャーーアーン」というあれ。「ジャ」で始まる金管楽器の演奏がオブリガートです。

スペースクラフトに生まれ変わった戦艦ヤマトの威容に、乗組員たちの高い志をつけ足します。行く手の困難と危険も予感させ、犠牲多き悲劇の旅を暗示する演奏。このラッパ演奏がないとマヌケに聴こえるから、飲み会で歌えば気の利いた人が大声で加えるほどです。

メロディーに加勢したり同調するに限らず、異なる方向へ広げる効果もあります。世界の映画音楽のオブリガートもトランペットなどが多く、高揚するメロディーに、やるせない気分や残酷な一面を加える小ワザがあります。これもまた、表現の裂け目の技術です。

同じ効果は、美術にも当然あるでしょう。絵画の背景は伴奏に当たるから該当せず、準主役的な描き込みが助奏役です。主役の近くにある引き立て役のパーツや、人物画の周囲の塗り分けなど。絵画のオブリガートも、裂け目の表現技術になるはず。できるはず。

ところが画家は、裂けるのを避ける傾向があります。主役をきれいに保ち、複雑な混濁をなくす意識が強めで。少なめ少なめの筆になりがち。「ジャンジャジャーン」の金管が聴こえない、歌だけの絵にとどまりやすい傾向を感じます。これを何とかする作戦は後で出てきます。
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芸術がわかる人を見分けられるかという一般質問
2017-09-05 Tue 00:39
えぐい質問も来ます。「芸術がわかる人を判別できますか?」の単刀直入とか。質問の意図は、誰の言うことが本当なのかという迷いもあるでしょう。何しろ取ってつけた俗説が幅をきかせ、利害対立の批判合戦が目立つ分野なので。

実は美術業界の人でも、芸術への関心があまりないことも多いのです。芸術性にこだわる人のみ、集まった業界でもなくて。芸術って何なんすか?と、意外な方向からの質問も来るから。雰囲気やカッコが先行する業界という面もあります。「アートって何かカッコいいじゃん」。

で、今の課題は「芸術がわかる人は外から見分けられるか」。わかりやすいのは、作品を見たがらない人はやはり芸術が苦手なタイプです。当たり前といえば、当たり前ですが。そこでカッコをつけきれずに、本心が出てしまう。

芸術論の執筆もやっていると、そちらの関係ができます。活字の打ち合わせの中で、美術をつくる者と相手が知れば、「どんな作品か見せてくれ」となるのが普通で、実際にけっこうそうなります。言い出さないのは、見ても判断できない告白サインと受け取れるのです。

自分にとってどれも同じでよくわからないなら、好奇心は生まれないものです。音楽も料理も違いがわかる人だけが、積極的に聴き回って食べ回りたくなります。コーヒーや紅茶もそうですね。違いを知ると関心は高まります。違いがわからないうちは、どうでもいい。優劣がわかるよりも、違いがわかるかが分岐点です。

美術が一般化した国では、違いを楽しみます。では特殊化した国はといえば、価値情報で盛り上がっていくところがあるような。美術が特殊化しているほど、作品を見る気は相対的に落ちて、値打ちの話題に関心が向かうと推測できます。当たり前すぎて、オチはなし。
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現代アートの主流に今なっている作品は、どちらのタイプ?
2017-09-02 Sat 00:17
ホームセンターで買った砂利を展示して、既成の概念を超えたと訴え、釣られた美術館に数千万円で納入するアートビジネスモデルが流行りました。日本に限らない話。「暗闇の展示室で客に何かが起きたら、それが僕のアート表現です」という方法論もその類例です。

現代アートはその手のとんちばかりだと、軽蔑する人もいるでしょう。あれで現代アートが嫌いになった人たち。しかし今も新作の中心は、とんちではなく物づくりです。キャンバス画や水彩や版画。人物画に抽象画。人数も才覚も、三大画家タイプに集まっていることを再発見。

多数派は創作タイプであり、創作放棄タイプではない。しかもその創作タイプ同士の作風は似ておらず、画一化や行き詰まりは深刻ではありません。とりわけ日本ではイラスト系がアートに進出し、新しいタイプの日本画が生まれています。要するにサブカル似の日本画。

鑑賞者の反応も、昔とあまり変わりません。「橋などやめて、端をつくれ」という一時期の潮流は、21世紀には下火です。今も続く制約は、具象のダリはわかるが、抽象のピカソはわからない傾向でしょう。生身の人間の能力が昔とそれほど違わないことに、逆に納得します。

戦後言われた「絵ではない絵」というのは、絵のことです。「絵ではないのが本物の芸術と聞いて、稲を刈って展示しました」式のダダ運動タイプのとんちは、むしろ昭和の感性です。平成時代終盤の昨今、古来型のリアル作品の巻き返しに、へえー時代はゆり戻すものだと。

暗いホールで体を触られる音楽会は、今では流行らないでしょう。似た流行は昔あったものの、集中実験して卒業しています。とんち競争が今もすたれない美術でさえ、作る楽しさと見る楽しさへの回帰は始まっています。原因は、保守化よりも飽食化でしょう。
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東日本大震災の現場に出る幽霊が次回のテーマ
2017-08-30 Wed 01:36
暑かった夏休みも終盤となり、怪談話も下火です。その幽霊関係の掲示板で、あるパターンの書き込みを目にします。短く一言「それでも幽霊はいる」「幽霊の存在はもう常識だ」。根拠や事情も何もなしに、ポツンと一行だけの書き込み。いったい誰が書いたのでしょう。

業者さんです。除霊や開運の壷ショップなど。海外旅行帰りで体調不良の人向けに、悪霊退治の作業。堕胎後のうつ症は、水子の霊の供養。難病にも対応し超高料金。その事業者が、ネットに書き回るステマ。ステルスマーケティングとは、庶民の声を装ったプロの宣伝活動です。

脳の変調や機能障害を扱う医療分野に参入するには、資格が必要です。そこを手ぶらで自由参入するなら、人に起きる体調不良や不幸が続く原因を、悪霊のたたりへと話をずらす必要があります。悩める人たちを、オカルトへ引き込む洗脳が不可欠。医師法や薬事法での摘発回避で。

インターネット時代には、放送免許なしに何でも宣伝して、全世界に向けて吐露できます。内容が全くのでたらめでも、匿名ゆえに書く気持ちにはウソが全くない特性があります。だからステマは、裏事情を読み取る娯楽の対象にもなっているのです。層の厚さも何となくつかめて。

ステマは美術でもみられます。たとえば盗作の討論で、常習画家は一言こう書きます。「模倣でない作品は存在しない」。丸パクりのひどさを議論する場に、原理主義の一文を投げ込んで、盗作は悪いことだとする気運を下げようとしたステマ活動と思ってよいでしょう。

ところで、ブラックボックス展の次に扱うテーマとして、東日本大震災の幽霊の話題を準備中です。人の心に生じる不思議な部分を、美術作品の不思議な部分と関連づけます。幽霊談義の決定版です。
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東京のコミックマーケットの根本問題はひとつ
2017-08-27 Sun 00:35
固有名詞で『コミケ』と略したコミックマーケットは、42年も前の昭和に始まった漫画同人オタクの祭典です。その2年前に『宇宙戦艦ヤマト』のテレビアニメが放映された気運によるもの。大学の漫画研究サークルやアニメ同好会が集まった、作品発表展示即売会です。

そこに出てくる短編漫画雑誌や劇画イラスト、コスプレは、海外の日本祭でも花形になっています。ジャパン・エキスポ、ジャパン・フェスティバル、ジャパン・デーなど各国の日本特集イベントをも牽引する、コミック系サブカルイメージ。現代日本の顔というもの。それが日本では問題に直面しています。

本家日本のコミックマーケット最大の問題は、会場の狭さです。有志グループに、企業出展が加わるとパンク状態。東京ビッグサイトは世界的にも巨大な催し物会場かと、多くが思われるでしょう。自動車ショーの規模だし、世界を驚かすデカさだと。それが全然違うのです。

世界一大きい催し物会場は、ドイツのハノーヴァー市にあるメッセで、床面積が47万平方メートルです。東京ビッグサイトはその6分の1程度の、8万平方メートル。ならばその東京ビッグサイトは世界で2番かといえば、68番だそうです(2012年資料)。

気づかない国民も多いこの貧弱は、2013年の国会で問題になりました(順位は当時の公開資料)。なぜ日本は国際イベント会場が貧弱かといえば、やはり東京一極集中でしょう。名古屋に土地があっても、東京以外に選べない条件で、土地不足にやられるしペイもしない。

しかしこの4年間にこの話題は消えており、原因は日本がデフレ不況の貧困から脱し損ねた4年だったから。国全体の気分が落ちた倹約ムードが延長され、文化活動も落ち続けました。日本で見本市の気分が失せた一例が先年の自動車ショー中止で、香港だかに流れた記憶が。コミケは逆で、入りきる器が国内にない希望ある困惑。
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プロのアーティストたちはピカソをわかっているのだろうか?
2017-08-24 Thu 03:46
こんなふうに想像しませんか。プロはピカソなどわかりきっていると。現代アートを作る美術家たちは、みんなピカソなんて初歩として心得て楽勝だと。ピカソは素人には難解だけど、プロたちには何でもなくて、とっくに卒業済みだろうと。

それはたぶん甘い見込みで、ピカソは想像以上に現代人の壁です。実際にピカソわからんという人は、美術家と鑑賞者で近い割合ではないかと感じます。その判定にたどりつくヒントは、たとえば日本で広まっている「芸術の本質はデッサンなり」です。

音楽にデッサン技術はないと、簡単に突っ込めますね。映画にも落語にもデッサンは存在せず。美術だけが成り立つ法則は、こじつけを疑うべきでしょう。著者は長年の結論として、表現の裂け目を芸術性だと指摘しました。これは、音楽にも映画にも、落語にも生け花にも通じます。自己矛盾もダブルスタンダードも起きずに、すっきり。

ピカソをわかるとは、表現の裂け目を感じ取ることです。それができるかは、美術大学の入学前にチェックしないはず。だから美術大学の学生は、国民とそこは同じスタートになる計算です。入学した後で、本書のような授業を受けるわけもないし。

美術大学は変人ばかりのイメージが先行しますが、中に入れば普通の人と同様だと強く感じるものです。橋の課題に、ぶっ飛んだ橋を出すのはやはり皆さん苦手です。普通の端を出せる変人は多くても、奇抜な橋を出せる変人は少ない。これ豆知識。

裂け目と親しい作者は、もちろんすぐわかります。しかし、もはや現代的表現の自由とは、非芸術へ外れる自由を意味するも同然。現にリーダーが脇役に徹するブラックボックス展は、動員客数もニュース性も絵画展をかすませるほどで、精根込めた芸術品を軽々と駆逐しています。
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実物を直接見ないと作品の芸術性は伝わらないのか
2017-08-21 Mon 01:00
画集などで絵画を見て、後で実物の絵を見ると印象がかなり違います。差分が芸術性だと思いがちですが、そうではないと著者は考えます。印刷物にしたからといって芸術性は消えたりしない、という考え。写真や印刷で伝わる範囲内に芸術性は宿る、という仮説です。写真もまた芸術の一種だからという、そんな理由ではなくて。

今の人が西洋の名画を見て驚くのは、デカさです。横長どころか縦にも高く、圧倒されます。たとえばレンブラントの『夜景』は面積が100号の7.5倍。周囲が切断される前は9.3倍になる計算。実物の第一印象はデカァ。切断後でもフランス号数で753号相当。一方、人気の印象派の絵は思ったより小さく、少々がっかりという声も。

サイズへの感慨は、芸術的な感動ではないとすぐに理解できます。にもかかわらず大きさで感動の量が左右されるのは、見逃せない事実です。感動の内訳に、芸術性と異なる成分が常に含まれていることが類推できます。芸術以外に感動する現実。

著者の着眼は、小さく印刷してなお一目見てピンとくる説得力が、芸術性だという考え方です。芸術性は、画質の悪い画集でも消えずに残る点がミソ。細かい話ではないという。

つまり印刷物にすれば、芸術性を抽出できます。大きさの衝撃が感動に混じり込むのを、フィルターや遠心分離機みたいに除去できる。芸術性の高い低いは、図版にするとばれる。撮影して見栄えが落ちた絵ほど、芸術性が乏しい事実が発覚した状態といえます。

「でも実物を見れば感動しますよ、全然違いますよ」という声は根強いはず。これは芸術性と違う何かに心を動かされることが、もう当たり前になっているせいでしょう。自覚もなくなって。実物礼賛で多いのは、間近で見たマチエール(絵具のテクスチャー)の感動です。しかし人の魅力と同じで、素肌美人を競うのは本質でないはず。
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