芸術は人類のロストテクノロジーといえそうな状態
2017-06-28 Wed 00:24
本書は「現代美術がわかる」系に多い「視野を広げなさい」という説教をやりません。理由は文明の大進歩と並行して、文化がやせ衰えていく背景を感じているからです。芸術の衰弱が、ヒトという種に起きている疑いです。誰も免れないし、著者も含まれるであろうから。

時間とともに、よりゆるい作品を作る作者と、よりゆるい作品に好感を持つ鑑賞者が、同時に増えている疑いです。というのは、大昔の作品ほどビシッとキレて彫りが深く、きつい感じがあるから。新しい作品ほど彫りが浅く、ゆるんだ感じ。作業用刃物の、鋭利の差ではなくて。

古代アート展を見て、「すごい、昔はガチなんだ」と多くが驚きます。しかしそのガチな遺物にインパイアされた現代作品は、甘いいやし系に寄った作風に必ずなります。キレキレ感は、結局は、古代アートだけの専売特許のまま。しかも今、キレた新作があれば敬遠する自分がいるはず。ぬるいものがしっくりくる自分が中心にいるはず。

それを指して「芸術は変わった」とは結論しないで、「衰えた」の視点で考え直しました。自分たちの時代を中心にすえて昔を見下ろすのを、やめてみるわけです。そうして、芸術がロストテクノロジーになりつつある疑いに、本書で繰り返し触れました。

そこに着眼した発端は、ガラクタ集積作品でした。アートの迫力を手で生み出せない現実が、ダブルで読み取れます。調べてみると、古代にはあったキレが中世にはすでに消えていました。造形バリエーションを広げてきた歴史にみえても、実はキレを失う歴史だったのです。薄れゆくガチ感イコール薄れゆく芸術性だとすれば、事態が説明できます。

現代人は芸術の語にはあこがれても、その実体には気おくれしやすい。キレた濃さに目を見張りはしても、新たに作ってみれば鈍く希薄な作風になりがち。切れず、さく裂せず、ゆるい現代。証拠として、後年ほどのっぺらぼうに向かい続けたある伝統アートを解説しています。
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アーティストを枯らさないために互いの支えも必要
2017-06-25 Sun 01:23
おそらく世界で誰もやらない分析は、アーティストが行き詰まる過程です。当初は調子がよかった作品が、作り続けるうちにつまらないものが増え、アイデアが枯れていく変化を分析したことがありました。

そのプロセスは音楽でよくわかります。80年代終盤の、あるブラジル人のエレクトリックギター演奏が例。デビューアルバムは、作曲アイデアも演奏もみずみずしいものでした。すき間狙いが多い時代にしては、いかすメロディーの曲が次々と続きます。新しい才能が登場。

音の空間の飛躍にトリッキーなところが多く、和音展開もダイナミックで、楽器はよく歌って気が利く。演奏法も高く飛んだり低空飛行やキリもみしたりと多彩。曲と演奏がよくマッチし、やりたいことがうまく盛り込まれて、引き出しが多い。

ところが、3枚目のアルバムでわずかに衰えのきざしが出たと思えば、4枚目で信じられないほど落ちました。メロディーはメソメソ、歌のない歌謡曲ふう浪花節調に変わり、和音の回し方に飛躍が消え、どの曲もだらだら単調で動きが鈍い。聴きごたえのある仕掛けが出てこない。

かつてキマっていたかっこいいサビが消え、聴かせどころもなく足踏みする曲調。全曲スカばかりで一度も盛り上がらず、何度聴いても取りえがなく、印象に残らず。やはりというか、5枚目が出ない。ネット時代に海外サイトで見ると、4枚目のみ紹介されるかわいそうさ。

演奏力が上がり、創造力が下がるケースも多いのです。そこでグループメンバーやプロデューサーの組み替えでリフレッシュしたり、アルバムリーダーを代えたセッションで支え合います。独りで黙々と続ける限界は才人も同じで、解決策を美術にも応用できます。著者も他の美術家を外国でアシストする珍しい企画の準備中です。
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身近にあるアートを見て回れば、アートは身近な存在になる!
2017-06-22 Thu 01:09
ダリほどの超大物でも、盛大な展覧会で大勢があれれっと拍子抜けすることもある美術の不思議。美術館の不思議。企画の不思議。これは美術のよくある現象です。では、世に知られない作品だとどうなるか。そのおもしろさに気づいた人がいました。

ある高齢者から、現代美術展示巡りの趣味を聞きました。街中で小さな現代美術展を見かけると、必ず入ってみるという。わからないからおもしろい、どういうつもりで作ったかを考えるのが楽しいという話。謎に翻弄されるのが魅力で、古典美術よりも謎が多い現代ものを狙うと。

とりあえず東京や地方都市で、街中の小さい現代アート発表会や片隅のギャラリー展に、片っ端から全部入ってみると・・・。ローラー作戦のように。すると、意表をつくおもしろいものが意外に見られるのです。これはどういうことでしょう。

鑑賞者は普通、名作を原点にすえて考えます。お墨付きを頼り、受け身の鑑賞で済ませがち。最高級の優れモノだけ相手にしたいビギナー心理もあろうし。ところが街のギャラリー数十軒に入ってみると、美術館では起きなかった別の体験が開けます。

「美術館という晴れ舞台に期待しすぎたせいで、心理の落差が生じた」という話とは少し違います。武道館コンサートとくらべようのない小さいクラブのギグにも、人の力量は費やされている点に注目です。小クラブの出演も、内容は特に劣らないこともしょっちゅう。ネームバリューと出来が比例しない、能力分布の実態といえます。

音楽で、教科書の曲だけでは感慨がない状態も似ているかも。たまたま知らない盤を間違って買うと当たりだった、それが美術でも起きます。「現代の代表的画家は誰?」と問われると、とっさに耳なじみの美術家と芸能人が浮かびませんか。受け売りの境遇から出る方法として、近場のミニ美術展を視察するのは安上りの近道です。
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ダリ展がつまらないという声が集まった昔
2017-06-19 Mon 00:16
シュールレアリスムで知られるサルヴァドール・ダリが生きて、大やけどもなく現役の頃、ダリ回顧展が繰り返されました。知人の学生たちも会場に来ていて、感想を聞きました。「意外につまらないと感じた」という声が集まり、皆さん表情がやや曇りぎみ。

何室も使って大量の作品を並べた大回顧展なのに、拍子抜けした印象を持ったという。原因はむろん回顧展にありがちな大量ゆえの薄まりと、また代表的な傑作が出ていなかった点も。しかしもうひとつが大事で、芸術性が低下しつつあった当人の事情もありました。

ダリのコンセプトは、「超現実主義」と「偏執狂的」。彼は学生時代から他人と協調できる幅が狭くて対立しがちな不良性で学校は退学、芸術運動の親分からも破門されたり、仲間との関係もムラがあったのです。インタビューで、「女性に芸術は不可能」と言ったりも。超現実主義的なヒゲと同様に、話題づくりと思えるトーク。

ダリの1930年代の作品は傑出し、明確な敵がある時に濃い作品ができています。が、定評ができ人気が出ると、セルフパロディー化の傾向が出ました。曲がった時計や燃えるキリンなど、型の反復。悪意を迫真性に持って行くタイプで、愛されると作品がゆるむ人でした。

当時のダリ回顧展に、油絵具によるデザインを感じました。この先どうなるのだろうねと言い合っていたら、やがてあの事件です。本書でも触れている、日本でも警察が動いたスキャンダル。

ダリの絵が教えたのは、アイデアは芸術と関係がない点でした。日本人はとかく「この絵は命が宿っている」などと言いますが、その方が核心に近いでしょう。ただし精神論や宗教的説法にそれやすいから、言い方が難しいのですが。ともあれ、モチーフや意匠操作は具現化の処理法であって、一応は芸術から少し離れた話です。
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絵を二度見るとおもしろい物語ができる
2017-06-16 Fri 01:55
昔見た絵を時間をおいてまた見ると、案外おもしろいのです。絵の事情から、自分の事情がつくられるから。自分の物語ができます。過去に見た絵の元へもう一度駆けつけると、きっと何かがわかるはず。

映画で経験はありませんか。映画館で観たずっと後でテレビ放映で改めて見て、印象が違うことが。縦横比の違いで画面の左右は切れますが、たとえば色なども。あるシーンで赤い服だった記憶が、後で見ると黄色だったりなど。こんな映画だったっけと。

ある映画。列車の座席に立てたアタッシェケースを殺し屋が両手で無理にこじあけると、ガスが噴出してひるみ、格闘になるシーン。しかし年月経て著者がDVDを買うと、アタッシェケースは床に平置きで、殺し屋はしゃがみ、片手でロック解除してあけるとガスが噴出。細部が全然違います。別の映画と記憶が混じっていたようです。

絵に再会すると、映画などと同様に細部の記憶違いに気づき、特に反動がよく起きます。つまり最初とは逆のことを、二度目に感じます。最初にガーンと強い絵だったら、次回はずいぶん繊細に感じたり。あたかも歴史的審判を短縮したような、振幅の大きいぶれが生じます。

ある面を初見で強く受け取って、作品は脳に片寄ってストックされるのでしょう。これは公募展の審査が、後世の目とかけ離れる理由といえそうです。審査時間によっては、細かく描き込まれた絵が優位なことも。微細な光景に快が生じる、ヒトの視力の問題もありそう。

そうした初見の印象の凹凸をならすように、多人数が何度もチェックした結果が歴史名作です。一人が一作品を一度だけ見て終わりでは、確かに何もわからなくて当然といえるでしょう。音楽も一度聴いて二度聴かないなら、難しくてピンとこない曲ばかりになります。同一作品を複数回見るだけで、アートにぐっと近づけます。
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特殊化した現代アートを一般化させるために
2017-06-13 Tue 00:47
この本の目的は、日本全体が現代美術に関心を持つことです。目標とする成果は、作品が普段から売れること。「スペシャル」から「カジュアル」へ。欧米がすでにそうなっているように。特殊化から一般化へ。それも全国各地で。

方法は、二とおりあります。ひとつは現代美術の素晴らしさを訴えること。しかしそれは日本では限界で、現代アートは普及の壁に当たっています。1960年代や80年代の方が売れたのだから、前進していません。好景気のたびにニワカ投資が増えただけ。現代アート愛好家向けの活動は、国民の分断を深めただけ。それらを特殊化と言います。

現代アートが関わる街づくりイベントが報道されても、勝利宣言は早計です。そのイベントの主役は街であり、アートではない。アートが主役を張るイベントはアートフェアであり、美術品の流通増大が成功です。動員数の伸びは寄せては返すブームの再来であり、昔もあった特殊化。

日本中の美術画廊やイベントギャラリーで、新旧の美術品が日常的に売れている安定状態まで行かないとだめ。一過性アートバブルではだめ。ワンタイムの複合イベントでは、アートは毎日の糧でなくオマケ。

ネット時代の現代美術ヘイトを解決しようと、本書は再編されました。「巨匠の絵を見ても何も感じない、画商と評論家が価値をねつ造して、国民を洗脳してきたのか?」など、日本人のよくある質問に詳しく答えています。アート界がアートファンだけに優しい顔を向けた結果、むしろ理解し合えない壁が高くなった従来の反省に立って。

しかし答は、人類の芸術力が下がってきた文明の宿命に触れています。「現代アートがわからない人は時代遅れ」と上からな現代アートファンの感覚に対して、現代美術懐疑論を提言して半分は反論しています。
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ゴッホに無理解な19世紀の人々は情けない面々だったのか
2017-06-10 Sat 01:45
ゴッホの絵に感動した人に、よくある声。「これほど美しく素晴らしい絵を、なぜ同時代の人たちが評価しなかったのかが、僕には理解できません」「ゴッホの時代の人たちは情けない」。もっと昔には、「ゴッホと同時代の人を憎みます」と語り出す舞台演劇もありました。

しかし、今はそれほど違うのかという視点もあります。百年以上過ぎた現代にも新作展は盛んで、絵画や彫刻や環境作品が並びます。今の新作をリアルタイムに見る現代人は、ゴッホの頃の人々と似た反応ではと。僕らからみた昔の彼らは、子孫らからみた今の僕ら。

現代でもこう言うでしょう。「斬新なアートが集まった」「現代の新鮮な空気を感じました」。それと同じように、昔の人も斬新で新鮮な当時のトレンド作品に感激したはず。「じきに忘れられる作品ばかり一堂に集めてどうする気かね?」なんて思う人は、昔も今もいないわけで。

昔も良い作品を称賛して、悪い作品を却下しただけでしょう。最先端の優れた審美眼で、適切に公正に、厳正に選んでいたはず。なのに昔と今で名作が入れ替わる、それは「歴史的審判」という現象です。その理解を抜きにしては芸術に迫れない、最重要語句になっています。

歳月が流れると、感覚も価値観も変わります。変わった後を事前に想像できず、変わる前を事後に想像できません。洋式トイレやAT車どころではなくて。だからゴッホやゴーギャンが大物扱いされている今日は、当時の人にすれば全く驚きです。当時の人はもういないから、現代の選択眼を批判できないだけで。

歴史的審判は一人一人の心変わりではなく、世代交代で起きます。歴史名作は未来人が決めます。『モナリザ』や『浮世絵』も、歴史的審判の番狂わせでした。当時の人にすれば、「なぜ今はそんなのが国宝の座にあるの?」「俺たちの時代のカリスマたちの、あれほど美しく素晴らしい絵はどこへ消えたの?」。これはしかし、明日は我が身。
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海外へ逃げていく日本美術の今昔
2017-06-07 Wed 01:05
「日本では現代美術に関心が低い」と言うと、すぐに反論が出るでしょう。「現代アートフェスティバルは大入りだぞ」「テレビや新聞で話題だぞ」と。しかしそれは一般化ではなく特殊化です。交流パーティーや飲み会とバーベキューにプラス、都市の喧噪からの一時脱出。日常的に現代アート作品を買い、家に飾る欧米との差は開いています。

一般化したアート市場がないから、美術作品は外国へ脱出しています。実は今は、海外進出志望者が日本に増えていて、しかし思うように出られません。脱出資金がつくれない、国内不況問題があるから。台所事情で、美術からフェイドアウトする美術家がむしろ増えている危機。

昔に目を向けます。その技法をマネやゴッホが学び、印象派が生まれるきっかけになったと虚偽通説があるほど誇らしい日本の浮世絵。筆描きと木版画があり内容もピンキリで、明治の浮世絵は今でも日本の美術館に箱いっぱい保管され、大量在庫があります。

一方で、記念切手の図柄に見るような、写楽、歌麿、北斎、広重などの名作もあります。それらにも版画タイプは多く、原版の版木がどこかにあるはず。版木は「打ち出の小槌」でもあり、たいへん貴重な文化財ですが、それら名作の版木は誰が持っているのでしょうか。

実はアメリカにあったりします。明治の日本で浮世絵は無価値で、どうでもよかった。西洋の写実画より稚拙で粗末な、ガッカリ絵画でした。そのすきを突いて、欧米から来日中のエンジニアや学者が「コノエハグッド」と集めて、本国へ持ち帰りました。決定的な国宝級の版木を、アメリカの美術館が所蔵しているのはそのためです。

エジプトやギリシャや中国の美術品もまた、イギリスやアメリカに収蔵されています。ただ、日本は文明の勢いを持ちながらも、文明開化で洋ものに入れ込み、自国の絵に関心が低かったのです。明治に逃げて行った分と、戦後の名家没落による物納の流出分が主だとされます。
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血液型の性格占いが当たる理由÷美術が苦手な理由
2017-06-04 Sun 01:27
意外ですが、著者は血液型の占いは日本では当たると説明したことがあります。科学では法則を確かめるために、相関関係と因果関係の両方を証明します。ABO式では相関もなく、デマと結論されています。

一般人は当たり分だけに注目し、法則をすぐ見つけます。科学者は外れ分も統計処理して、法則を見つけません。たとえば、かつての交通事故犠牲者の霊があの世へ引き込んだバス事故などで、一般人が根拠とする怨念的印象論と、科学者が根拠とする数学的確率論が衝突します。

著者は、人間の被暗示性に着目しました。「O型はおおらかな性格」と子ども時代から言われたら、該当者は大ざっぱな行動が許された気になり、細かいことは気にしまいと心がけるでしょう。同様にAA型の人は自分の珍しさを自覚し、言われた特徴を表に出す傾向がありそう。

元々強い片寄りのない常識人は、あなたはこういうタイプだと言われると、それを演じる変化を起こす可能性です。期待を裏切るより、期待に沿う確率の高さ。これは教育心理学や、メンタルトレーニングで応用されます。言われた特徴と逆の人になるよりも、言われた特徴の人になる割合が多いとする推論です。

「抽象画はわけがわからない」が耳タコの人は、元々強い片寄りのない常識人なら、わからない大前提で鑑賞する習慣がつくと考えられます。「抽象がわかったらおかしい」と聞けば、「おかしくはなりたくない」「みんなと同じがいい」と。日本なら同調圧力もやや強め。

ABO式占いの性格配分は、人数が多い型の順に凡人に設定してある点が巧みです。多数派ほど平凡であろうとイメージする、人の心理にうまく引っかかります。国民の実感どおり法則性があるなら、暗示するだけで国民の性格改造に成功した珍しい事例にもなります。
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展覧会にちょうどよい作品の個数は何点か
2017-06-01 Thu 00:24
展覧会の作品は、何個置くのが理想かという問題です。日本の展覧会は特殊で、公募コンテスト展が主流です。先進国の主流はアートフェア方式で、目的はコンテストとは全く異なり作品販売です。欧米は商戦で、日本は賞選。商戦のアートフェアでの売れ方を考えてみます。

展示作品数が多いほど、よりたくさん売れそうな気がします。が、実はそう簡単ではないのです。今こちらでわかっている結論は、適正規模があることと、それが展覧会ごとに異なっていること。

まず展示数と売れた数は比例しません。絵を20枚展示して4枚売れたとします。6倍の120枚展示すれば、6倍の24枚が売れる計算ですが、やってみると同じ4枚だけ売れたりします。総数を増やしても売れ数はあまり増えない結果は、実はよくあるのです。

しかも時には120枚展示で3枚きり、20枚展示よりも逆転したり。質の条件は同じでなく厳密でありませんが、結果的に「あれれ」となります。なぜそうなるのかは、おそらく作品が多いほど鑑賞者の脳の神経がマヒするからでしょう。頭が疲れて一個ずつに集中できない。あまり多いと、どうでもよくなっちゃう。

音楽でもアルバムを1枚聴くうち、だんだん疲れてきて集中力が薄れる体験がよくあります。レコードよりも時間の長いCDで顕著です。だからある時1曲だけを抜き出して聴くと、これはすごいぞと新発見したりします。疲れていない感度のよい脳内に、作品がきれいに入ってくるからでしょう。ビールの最初の一杯みたいに。

だから、鑑賞に適した理想の作品数は1点です。注目が一点に向かう例は、ルーヴル美術館の『モナリザ』の部屋がそんな感じですね。次善は2点で、次が3点。実は高級アートフェアほど作品が少なく、会場写真も簡素です。しかしお客の体験は濃く、全点が売れることもあります。
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ゴッホとピカソの話題が多い芸術的な理由
2017-05-29 Mon 01:35
本書に、ゴッホとピカソの話題が多くあります。近代画家である二人の出番が多い割には、最近の現代画家の話が少なめである理由に、二人の知名度があります。ネットで「わからない」「価値が理解できない」の意見は、この二人に集中しているのです。第三位以下を引き離して。

二人の作風は独立峰で、典型的な創造作品として芸術の説明にのせやすい点もあります。二人の画期的な作品は、当時はサイテー評価でした。美術誌が推薦したり、日刊新聞がほめあげたりもせず。無視のゴッホと違い、ピカソへの悪口はすさまじかった。権威あるアカデミズムの立場でなく、在野のアヴァンギャルドアート出身も共通。

名前を聞けば、たいていの人は絵を思い浮かべられます。わざわざ知られない画家の紹介から始めて、それを題材に美術のツボの話を始めるのでは、読む方はおもしろくないでしょう。

ゴッホもピカソも、オークションの最高額を競いました。二人より古いルネサンスなどの作品はもっと高いものの、オークションに出ないから話題にあまりならないのが難点。二人は新しい割に非常に高額で知名度抜群だから、世間の話題にもあがりやすい。

そしてまた、二人の作品に決定的な違いがあって、その違いが西洋美術史の大きい変革を説明する題材になります。つまり二人の時間が、実の詰まった前衛芸術の時代だったわけです。今日のように、事前に資本を用意して投機計画を立て、国際スターアーティストを故意につくり出す陰謀まがいの方式は、二人よりも後の時代に始まったものです。

本書では、現代はデザインの時代かと仮説を立てました。一人が許容できる芸術作品は、昔より範囲が狭いと推測しています。何でも知りながら、ほとんどピンとこない現代人。かくして、芸術が現代人の手に余るようになった人類の運命にこそ、謎解きの字数を多く当てたのです。
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現代画家の悩みは多品種になりやすいこと
2017-05-26 Fri 02:01
現代日本の画家の作品を扱っていると、過去にはなかったある問題が広がっていることがわかります。多品種化です。マルチ作風がとても多いのです。一人のやりたいことが多く、気が多い。

作風というものは一人に一つだけあるのが従来は普通で、人の顔でも森の風景でも、描けば雰囲気が共通するものです。デッサンのゆがみや、色彩の選び方、塗る筆タッチなどに個人のクセが出ます。しゃべり方みたいなもの。だから新作を見るとあの作者だとわかり、その特徴が個人ブランドにもなるわけです。

ゴッホもそうです。ミケランジェロのようなゴッホ作品はありません。絵を始めた当初は別にして、ゴッホらしさから遠くない範囲に全作品が収まっています。意外にわかりやすいのはピカソで、趣向が大変化してもピカソらしさが一貫します。生涯、自分ふうを外していません。どこで切ってもピカソ風なのが、ピカソ作品の最大の特徴。

日本の新しい現代画家は、作風系列が2種から5種もあったりします。しかも互いに共通する雰囲気がないほどで。具象と抽象を両方作る場合も、別人に思えるほど根底から違うことも多い。なぜそうなるのかは、世に既成品が多くそろっているからでしょう。作風見本がいっぱい。

作品のお手本や成功例に囲まれた恵まれた条件で、焦点が定まりにくい現象です。あれもいいな、これもいいなと感化され渡り歩きやすい。印象派以降のヨーロッパは、「今の時代はこれ」のメインストリームがなく、一人の中でも複数様式が同時並立できるし、やりたくなります。

そうしたマルチ画家を売り出すには、同一性を出すために顔となる作風を決めます。しかし才が発揮できている作風と、今やりたい作風が一致しないと、絞り込みは難航します。だからこそ美術にもプロデュースが必要だと考えたのですが、欧米でもチーム戦略が増えています。
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カレンダーフォトなら芸術を逆体感しやすい
2017-05-23 Tue 01:00
音楽でこんな経験はありませんか。「とてもきれいな曲だけど、ぐっと来ないんだなあ」。芸術の秘密を示す重要ポイントです。きれいであることが、まんま芸術性なのかという根源的な問題だから。明らかに違っても、違いの説明は難しいのです。

実は昔から「きれいなことと美しいことは違う」という言い方で、先人たちが提示してきました。とはいえ普通の国民の感覚としては、きれいイコール美しいイコール芸術性と、簡単に割り切りやすいところはあるでしょう。きれいは誰でもわかりやすいし。

たとえば油彩の具象画では、きれいさの程度に比例して目を引き心を打つものです。だから、この絵はきれいだけれど芸術性は低いのさという理解のしかたは、へそ曲がり的でやりにくかったでしょう。

ところが写真作品では、きれいなだけの空虚をよく体験します。代表がカレンダーフォトです。主にプロカメラマンが撮った思いっきりきれいな写真で、ある種のカレンダーでよく見ます。この語はかつて写真界ではよく言われましたが、ネットに情報はありません。

桜やもみじや渓流、気球が浮かぶ空だとか、高層ビルの重なり。たいへんにきれいでありながら、重みや深みがなく表面的なのです。素人には撮れない抜群にきれいな写真が、なぜ心に来ないのか。きれいだからそうなのか、きれいなのにそうなった失敗か。

ところが、芸術は裂け目です。カレンダーフォトには裂け目がありません。平穏無事で健康的だから、芸術的創造性を感じさせないのではと。文学作品も似ています。小説の多くに殺人や濡れ場があり、モラル破りやショッキング描写があるのはなぜか。きれいごとは芸術にあらずという真理は、平面アート以外では定着しています。
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血液型性格占いとモンスター的な言葉の芸術
2017-05-20 Sat 01:59
血液型で性格が決まる説は、大正時代の女性誌の占い付録で広まったそうです。信じるのは世界に二国のみ、大流行した日本と模倣した韓国だそうで、中国では信じていません。東西の欧州や中東、西と南アジア、南北アメリカ、アフリカ諸国、オセアニアでも信じないらしく。

著者が子どもの頃にその占い本が家にあり、性格の分け方に関心を持ちました。A型とO型の違いです。A型はどの解説でも善人が多い話になっており、性格は概して細かいとされます。一方のO型は細かいことを気にせず、むしろ神経が太いような解説になっていました。

当時の著者は、差の設け方で浮かんだのです。A型は「ええ方」からきて、O型は「大型」からきたのではないかと。発音に引っ張られてA型はええ人柄の善人となり、O型は大きくゆったりしたイメージでまとめたのだと推測したのです。タイプエーやオータイプと発音する国では、日本のようには語呂がなじまない道理です。

A型は人がよくて繊細で、O型はよく言えばおおらか、悪く言えば大まか。大様で太っ腹な性格だと割り振ったのではと。O型は何となく体格も大きかったり、多少でも太めに思えませんか。O型よりはA型の方がスリムな感じ。O型の方が体重が重い。ちなみにヒトラーはA型。

著者は似たことを「季節風」でも思いました。英語なら「モンスーン」で、モンスーン気候などと言います。モンスーンは季節風だと聞くと、さわやかなそよ風ではなく、強い風、暴風を思い浮かべる人が多めではありませんか。ビュービュー吹き荒れる激しさを想像して。これは発音が似たモンスターと、脳内でだぶるからではないかと。

発音と意味が合う好例に、昆虫のハエとカがあります。ハエより体が小さいカに、少ない字数を当てるのが日本語です。だからしっくりくる。英語だとフライとモスキートで、文字数も音も規模が逆転してしっくりきません。詩や歌など言葉芸術に通じる音の効用ですが、美術でも音と関連する表現があります。
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日本庭園を抽象絵画に変えるセンス
2017-05-17 Wed 00:09
「抽象絵画はちょっと」と敬遠する日本人も、旅先で日本庭園を目にすると普通に「いいね」「美しい」と感じることでしょう。実物ではない写真だとしても。その日本庭園の造園レイアウトとは別に、それを絵のように見せるビジュアルの工夫が、実は抽象絵画に似ています。

外国の人が驚く日本庭園の見せ方に、旅館やホテルの和室2階に大きくガラス窓をとった借景があります。窓から何メートルか離れた向こうに広葉樹が並び、枝葉を横から眺めます。立面図のように、水平方向の視線で見る仕組みです。庭園の色彩を、室内から絵画的に見せます。

夏には鮮やかな緑色で一面の壁、秋には赤と黄色で一面の壁。樹種により、緑の壁に赤がポツンとあったり、葉のすき間が黒いとか、赤と黄色の壁に白が点々と混じっていたり。

絵のような光景ですが、その絵とは洋画であれ日本画であれ、抽象画の体裁です。色を塗り分けたような構図。窓枠は額縁となり、窓の区切りは屏風の継ぎ目のよう。地面はトリミングされて見えないレイアウト。その絵のような美しさの正体は、抽象絵画の構成美でした。

美術と銘打たない分野では、日本でも大昔から抽象画的なイメージが得意でした。抽象図の美観が、和の伝統として一般化しています。錦鯉の模様の感覚。欧米で20世紀に抽象画が生まれ、ショックで動転したり賛否の騒動が尾を引いたのとは違い、日本ではよくあるし普通。

ところがその日本で本物の抽象絵画に対しては、「抽象はちょっと」となりやすい問題です。美術と銘打った時の条件反射なのか。著者が思ったのは、明治以降に流布した情報が発端で、社会教育効果によって苦手意識が国民に広まった疑いです。最近その線で一話ができました。
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ゴッホは斬新な画家だったという視点は何が問題なのか
2017-05-14 Sun 00:08
これは絶対正しいぞという発想に、こういう考えがあります。「芸術は斬新である」。「先進的」「時代の先取り」。皆の何歩も先を行くと。これは芸術分野で多い誤解釈のひとつです。

19世紀の人々はゴッホの絵を見て、どう思ったか。「この画家は斬新すぎる。20世紀にも通用するほど先進的で、僕らはついて行けない」と思ったわけではありません。そんな理由で買わなかったのではなく、むしろ逆です。「この画家は遅れている」と思ったのです。

「立派な画家たちに追いつく日は、当分来ないだろう」と周囲の人たちは感じました。先進ではなく後進。この部分で、世のゴッホ論は的を外しています。あるいは言葉表現しきれていません。「ゴッホは時代よりも先行し、当時の人の理解を超えた」は、まずい解釈です。

何がまずいかといえば、当時の人にそういう体験の覚えがない点です。人は、ゴッホを天才とも狂気とも思わなかった。だめ凡人。だから今、天から地を見下ろすようにして「当時の人々の先を行くゴッホ」とまとめたのでは、当時の人々の実感とかけ離れて支障になります。

何が支障かといえば、現代人が今の芸術を拾う時の参考になりません。斬新でぶっ飛んでいたゴッホという結論を引用すれば、今見て斬新でぶっ飛んでいる者が現代版ゴッホだという話になります。破天荒アーティストを、現代のゴッホだと誤認するでしょう。

当時の人はゴッホを逆に古くさいとも感じず、素直につまらないと感じました。理解不能の宇宙人ではなく、ミエミエのへたくそ画家。突飛ではなく、低いと。わかりきった駄作に見えた。その他大勢の一人。対価を払うような絵ではないと。だから払ったのは一人、知人の家族だけ。現代の非凡な中からゴッホを探すのは、いきなり支障です。
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棟方志功の版画とすり替わったカラーコピーは実は本物?
2017-05-11 Thu 00:06
棟方志功の版画がカラーコピーにすり替わって、3年以上前の盗難だとされる件。どうでもよいことではなく、業務上横領が広まっている兆候かもと疑う余地があるでしょう。過去にも、博物館入りの郷土出土品が自宅展示されていたケースがあったし。

1972年に初登場したカラーコピー機の最大サイズA3よりも大きいから、いわゆるゼロックスカラーコピーサービスを使った疑いがあります。ならば外注。その機械は棟方志功の生前にはありません。ニュース写真の後壁が白いのにコピーが黄色いのはそのせいかと思わせますが、元から黄色い絵かも知れません。周辺情報が少ないようです。

今のオフィスでカラープリンターを使う人なら、コピー紙であることに早めに気づくでしょう。版画の紙とは違うツヤとテカり。淡い部分や鉛筆の字はまだら状にかすれるなど、転写式コピーは低画質です。

話は横へそれますが、あのカラーコピーはただのゴミではありません。真贋でいえば、れっきとした真物の美術作品になります。こっそり取り替えた不正の意味で偽物だとしても、贋作ではないから本物ですと言うことも実はできるのです。

粗いドットプリンターで出しても、真物の美術品です。呼称は、作者が指示した印刷なら「版画」です。版画の定義は、印刷した作品であり、電気やボタン操作は関係ありません。作者の指示がないと「複製画」となり、あのカラーコピーは真物の複製画と定義できます。

ジクレーでの複写なら、高い再現性で永久にばれなかったかも知れません。6原色以上のジクレープリンターは1997年以降で、この時から水彩画を複製すると目視の判別は困難になりました。外からのドロボウ以外に、対内的な収蔵品セキュリティーの見直しが迫られたのです。
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日本は流れをひっくり返すことができる珍しい国
2017-05-08 Mon 00:19
日本に、昔から続いてきたがんこな常識があります。変革なんてとうてい無理そうで、今後も永遠に続くからと、あきらめの声が多いもの。しかし、後年にひっくり返ったものがあります。今とは逆だった当時を、今は想像しにくくなった例を二つあげます。

ひとつは洋式トイレです。1960年代に洋式トイレが広まり始めた最大の理由は、市営や県営などのコンクリート造4、5階アパート、いわゆる公営団地で採用したからです。床を大きくくり抜いたり二重にする作業が不要で、施工コストが安いから。

当時の一戸建てや木賃アパートは、ほぼ全てが和式トイレでした。洋式なんてわけわからん、どう使うかもわからんし、嫌だから使いませんと言う人がたいへん多かったのです。誰も彼もが、敬遠して避けた過去。40年過ぎた21世紀に、完全に逆転しています。和式こそ嫌だと。

もうひとつはAT車です。1970年代からのマイカーブームと免許取得ブームの頃、日本はMT車が9割ほどで、アメリカはAT車が8割ほどでした。自動車評論家たちは、日本はMTばかりでアメリカはATばかりだと指摘し、両極端に分かれた二国は異常だと論じました。

今の日本は世界一のAT国になっていて、新型の小型乗用車の95から98パーセントがATだそうです。「ミッション」も「ノークラ」も死語。世界で日本だけがあまりに極端にひっくり返って、一色に染まって怖いほど。ドイツのAT車はまだ3割だそうで、フランスもそのあたりで、アメリカはやはり8割あたり。日本だけが極端すぎ。

「芸術は難しい、現代美術はわからない、抽象はちょっと」と固定している芸術観も、将来ひっくり返るかも知れません。美術留学なら日本へ行くべきだと、欧米の常識になったりして。思い出したら、フィギュアスケート男子も過去と正反対です。今は国際競技で優勝争いの連続で、隔世の感あり。逆転するまでの年月が短いのも日本らしさでしょう。
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廃墟の美は失楽園への郷愁なのか
2017-05-05 Fri 01:15
長崎県の『軍艦島』も世界遺産となりました。今は廃墟の顔役ですが、稼働時はモダンで暮らし向きのよいコンパクト都市でした。新しい廃墟ブームは、70年代末のポストモダンで始まった記憶があります。荒れて朽ちゆく身近な廃屋から、解体中のビルへと関心が広がり、ゴーストタウンを探検する楽しみも加わりました。

廃墟の美は過去にもよく論じられました。「バラの花」や「裸婦」などのアカデミックな美ではなく、アヴァンギャルドな美です。学問として習得する高尚な美とは逆の、くだけてかっこよくて、迫力とスリルを含むハプニング系。新鮮さと解放感もあって。

人がなぜ廃墟に美を感じるかは、「栄華と没落の対比」がよく言われます。失楽園の、諸行無常の響き。しかしどちらかといえば、ぶっ壊れた状態が絶対的な美だという気がします。過ぎし年月への郷愁は文学的な読み方で、普通はそんな詩人の目では見ないような気が。

ちょっとわきへそれますが、「絶対的に美しい」と「絶対に美しい」は意味が全く違います。前者は普遍性を込めた評価であり、後者は当人の実感です。廃墟は普遍的な、民族を超えた美であろうと考えます。その普遍性とは、故意性のないリアル感でしょうか。

奇岩景勝は廃墟とは違います。廃墟は元が人工物です。故意の造形が、自然崩壊した偶発的なアレンジです。容赦ないダーティーぶりが廃墟の特質。整理とは逆の複雑化したカオスで、視覚情報量が増えています。教科書で教えにくい、ルールのない美です。

廃墟には気づかいやさじ加減の跡がないから、迫真的でおもしろいのでしょう。人がブレーキをかけないから、アート作品によく見るグズグズ感が一掃され、きっぱりして鋭い。ヤラセでなくガチ。人の手が入ると丸まっていき、人の手を離れるととんがっていく。作ると死んで、壊すと生きる。こうした芸術の普遍性です。
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ジャズ音楽の明るい暗いを絵画に当てはめてみる
2017-05-02 Tue 01:35
「ジャズといえば暗い音楽だと思われやすいのですが、このアルバムは暗さが全くない明るいジャズです」。こういう言い方が、ラジオ番組で聞こえてきました。この区切り方は、わかりにくいと感じています。

音楽の明るい曲は、要するに和音が長調です。逆に暗い曲は短調です。コードがメジャーかマイナーか。滝廉太郎でいえば、「春のうららの」と歌う『春』が長調で、「春こうろうの」と歌う『荒城の月』が短調です。しかし前者は明るく後者は暗いという分け方では、ジャズの曲はうまく切り分けられません。

なぜなら、ジャズの特徴は影差す和音だからです。明るくてしかも暗いのがジャズなので、明るいか暗いかで分けるのは無理です。そこで明るい暗いではなく、楽しげか悲しげかで分けます。長調は楽しげ、短調は悲しげと分けた方がうまくいきます。

番組のアルバムもやはり、ところどころ暗くかげる曲調にちゃんとなっていました。カラリと晴れ渡った、こうこうと明るい童謡みたいなジャズは世に存在しません。短調から長調に転調する意味ではなく、和音に含む音階成分です。しかも実はクラシック音楽も、共通する構造です。明暗の一方だけならイージーリスニング。

音楽のこの構造を美術にも当てはめて、芸術表現の妙を説明する一章を用意しました。明るい絵が好きで、暗い絵が嫌いという、実際に一般に多く行われている割り切り方では、芸術の核心にまでは届かないという話題です。日本で流行ったネアカとネクラの区別は簡略すぎて、芸術とは相性が悪いのです。

「ジャズは大人の音楽」の理由は、長調とも短調ともいえない割り切れない和音です。セブンス・コードに始まり、ナインス・オーグメンテッド・イレブンス・コードなど。美術の絵画で明るい暗いで割り切れない例として、意外な隠れ名画をあげています。
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