現代美術はわからない+芸術は難しい【質問と答】

現代美術がわからない原因を解明する世界初の試み。ネットに出回る美術理解のコツは本当か?。作品を難解にした犯人は作者か鑑賞者か。作品の意味とは何の意味か。作品が語るとは何を語るのか。わかるのをじゃまする情報は何か。一番役に立つ情報は何か。日本でのみ誤解されるものと、世界で誤解されるもの。画家は何を考え何を考えないか。芸術は人間に必要か不要か。現代人は芸術が得意なのか苦手なのか。現代アートは本当に創造なのか。人類の文化に何が起きているのか。それが文明とどう関係するのか。

パワーポイント的な見せ方が見せ場の現代アート?

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
1995年にWindows95が発売された時、オフィス95というアプリスイートも発売されました。そのパッケージの気になるソフトがパワーポイントでした。プレゼンテーションソフトという、日本にとっては目新しいジャンルでした。

企業で使う会議用資料は、従来はプレゼンボードという大型パネルに紙を貼り込んで立てかけるか、または部屋を暗くしてスライド映写機や、オーバーヘッドプロジェクターで壁に映したものです。

パワーポイントはパソコン画面に用意した仮想の白紙に文を書き、写真やさし絵やグラフを貼り、音声を貼った状態で一個にデータ化します。その紙芝居タイプの図版を当初はブラウン管に映し、後に液晶プロジェクターで壁に映しました。

「すごーい」「斬新だ」と尊敬を受け、企業に新風を吹き込み、しかし間もなく問題になりました。見せ方に熱中する点。写真のフェイドインとアウトが派手で、タイトル文字が踊る。グラデーションの背景。それらのエフェクトで目を引いても、かんじんの本文は手貼りボードの時代より希薄な内容になったという。

似た現象はアートにも起きます。たとえばレーザー・ホログラムで立体を描くアート。空中に浮かぶバーチャルな立体アート展に「すごーい」「斬新だ」。一息してみると、どこが創造か、何を指して芸術なのかが希薄と気づく人々。空中の立体は、ロダンの『考える人』。

既存の造形で見せ方を一新するのは、現代美術らしいひとつです。背景には、造形の新開発が負担になった時代性もあるでしょう。アートの行き詰まりという、20世紀半ばからの課題です。「斬新こそが芸術なのだ」ときて「そこかよ?」で落とす、ダダ運動タイプの時代でした。
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スポーツとアートのドーピング冤罪ロジック

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刑事裁判の場で、裁判官に対して黙秘した容疑者を、冤罪だと思う人はいないのではありませんか。第三者からみると、「この人は真犯人か、または犯人を知って隠している」とわかるからです。

わかる理由は簡単で、黙秘は事実を発覚させない行為なので、発覚すれば困る立場である道理です。法曹界の弁「黙秘が理由で罪に問われはしない」とは、全く関係がない話です。真犯人が逃走中ではないと知っているから、調査妨害を始める脳のはたらきの話をしています。

この怖い一択ロジックに基づくひとつの応用が、スポーツのドーピング検査です。「この日までに検査に来てください」という五輪委員の要請に対し、重ねて拒否すると五輪メダルが剥奪されます。拒否した理由を問わずに没収。

「優勝者に対する無礼な命令で応じる気が失せた」「人種を理由にメダルを奪う差別に断固反対する」など、疑惑選手がマスコミを味方にする弁論を工夫しても、五輪委員は機械的に剥奪します。前もってロジックを勉強しているから、いちいちぶれない。

やっていない違反を疑われた者は、自分をよく調べてくれと言い出します。調査が詳しいほど、シロがばれると知っているから。逆に調べさせまいとすれば、クロがばれると知っている。果たしてどちらかと第三者が首をかしげる必要のない、一択ロジックの妙です。手品みたい。

似た道理は芸術にもあります。たとえば、わからない作品を称賛しないメカニズムです。音楽でベートーベンどまりの理解で、バルトークへの理解を演じてみせる者はいないという。人が作品を語る時は、見栄張りなしに等身大を演じると、本書で一択ロジックを明かしています。
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ゴッホを買わなかった19世紀の人は何を買ったのか

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133年前のゴッホは引きこもらずに、作品をがんがん市場に出しました。公募コンテスト展やアンダパンダン展で、存在は知られていた説もあり。例のあいつを今度も笑おうと、市民に変な話題性ができて。

ゴッホの生前に絵を買った人は、知人であった詩人の姉だけでした。縁故であれ売れたゴッホの成績は、作品を市場に出さずにいた著者よりは高い。しかし二作目が出ず、奇行に走り早死にすることに。

そこで気になる謎があります。当時の人はゴッホを買わずに、何を買ったのか。ゴッホを笑った美術ファンたちは、どの絵なら感動したのか。答は簡単で、普通に当時の売り絵を買っています。どの国でも、圧倒的に売れるのは売り絵です。その名のとおり売れる。

「売り絵」は商用の普及作品を指し、売れ線の絵に一致するでしょう。画商が売り絵と言えば創造性を保証しない意味で、しかし蔑称に聞こえてもB級ではなく立派なA級です。当代ユーザーが愛する好作品です。大勢がピンときてなじめる、絵らしい絵。苦情が出ない、心のこもったアカデミズムが売り絵の内訳です。

ゴッホの時代にも、市民の趣味のど真ん中にストライクを入れる器用で達者な流行画家がいて、何百枚もヒットを飛ばしています。オリコンなら名匠ですが美術は例外なのか、売り絵にボロ負けして詰んだゴッホのみ歴史に残り、巨匠に上がりました。

著者が他人の作品を外国で売る時は、売り絵でない実験的創造者の切り出し方をとります。そこに食指が動く層がいるはずだと見込むと、結果が出たからです。狭いゾーンですが、国内とは違う方法をとります。
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続・地球の本当の姿は本当はどちらなのか(後編)

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地球の本当の姿形

「従来の丸い地球はウソで、本当はこのように歪んだ形である」と科学のウソを暴露した警告。その警告こそがウソだと指摘する科学関係者の反証はこうでした。「その歪んだ形はジオイドだから」。この短い一言は最悪でした。カタカナで煙に巻いたから。

ジオイド面とは、地球の各部の重力強度と向きだけで決めた、重力地図です。いわば仮想海面。実際の地球は山あり海ありと変化に富み、ヒマラヤ山脈のように著しく出っ張る局地もあります。当然、ジオイド面は深い海底よりはるか上にあり、高い山頂よりはるか下にあります。ジオイド面は地形の凹凸を吸収して、ならしてしまう理屈です。

だからジオイドモデルは、現実の地球より起伏が100分の1と平らです。写真の左より、右のジオイドはつるんとしてなめらか。それなら、なぜゴツゴツと歪んだジャガイモ形か。答は簡単ですね。凹凸を誇張してあるからです。高さのみ変倍して、高低差を強調しています。

写真左が地球の本当の姿です。右はESAのGOCE衛星データで計算した、最も正確な重力地図です。限りなく楕円体に近いから、高低のみ2メートルを4万メートルなど、何万倍にも拡大してボコボコに見せています。人の身長がエベレスト山4つ分ほどの拡大率。

つまりジオイド、ジオイドと唱えても、ジャガイモぶりとは関係ない話です。デマを覆す一言は、「ジオイド」ではなく「縦倍率」です。なのに一年以上も、適切な日本語反証はひとつもなし。このジオイド立体図を発表したのは、NASAですらなく欧州宇宙機関で、日本語のフェイクニュースが次々と作られ、信じる人が続出しました。

ウソを訂正し損じる罪。連想したのは曜変天目茶碗です。業界が適切に説明すれば、国民は国宝級発見のデマに染まらず、陶芸のおもしろさを知ることもできた。本物と偽物の違いぐらいは、即座に説明できる心得があった方が、その分野は国民に信頼されるでしょう。
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地球の本当の姿は本当はどちらなのか(前編)

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地球の本当の姿形

「誰もが知る地球の形はウソであり、本当の地球の姿はこれだった」というニュースが、2017年の正月から出回りました。長年だまされていたことを大勢が知り、正しい情報に会えた感激を分かち合いました。「丸い地球はでたらめだった」「僕らの地球は右だった」。

情強を誇る声が続きました。「地球が青くて丸い常識は、あるべき理想として美化したつくり話だった」。「地球が完全な球形でないことは、以前に聞いていたから納得できる」。「大気と海水があるから丸く見えるだけで、それらを抜いたら右の形なんでしょ」。

青いボール形に白い雲がかかった地球の美しい画像はダマシ絵であり、本当はこのように歪んだ形だと暴露された新しい真実。NASAの発表だと言うから、庶民は信じないわけにもいかないでしょう。

信じる伏線に、「専門家は真実を隠して僕らをだます」という被害意識もありました。誰も本当のことを言わない不信です。一例は、日本はアジア一悪い国だとするプロパガンダだったでしょう。僕らの民族はそんなに悪党なのかという疑問が、若者に蓄積していたのです。

この「ウソ暴露ニュース」こそが、ウソだろとの指摘も出ました。しかしジャガイモ形で目から鱗の人たちは、「実物を見もしないで、新情報がウソとなぜわかる?」「従来の常識にしがみつくあわれな高齢者どもよ」「丸いと言うなら証拠を出してみろ」と、足蹴にしました。

ところで、この話題に科学リテラシーはどう関わるのでしょうか。実はこの新しく登場した地球ジャガイモ説こそが真っ赤なウソだと指摘する者は、必ず説明でコケます。的に当たらない説明が、フェイクに味方する構図なのです。(つづく)
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芸術と宇宙の関係を探りながら宇宙人を考える

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本書では、芸術の成り立ちを宇宙の成り立ちと関連づけ、ルネッサンスや印象派ではなかなか体感しにくい芸術の不思議な核心を考察しています。芸術の不思議は、次のようにいくつもあります。

太古のアート類は、きれいさが目的でないのはなぜか。近世に、なぜ関心がきれいさに著しく片寄ったのか。人はなぜ既成の概念を超えたがるのか。反対されるものをなぜ作るのか。作品が芸術創造に至る瞬間は、どの瞬間か。今の傑作と未来の傑作が、別の作品なのはなぜか。

いくつかの答は、地球にヒトが誕生したプロセスに関係すると想像しました。そこから、他の天体でもヒトは生まれるかを考察します。多くの現代人は、ヒト型の宇宙人を前提で考えますが、今のところ厳密に調べると実例がありません。

気になるのは、宇宙人はいない説に怒りをぶつける声が多い点です。生涯会えないねと言うだけで不機嫌な人が目立ちます。人類は宇宙での孤立を恐れ、これは孤独が苦手な個人の性格だけが理由なのか。

一方で、知的生命体は地球だけにいる意見は、孤独に強い者のロマンだけでもなく。数学計算では、ヒトをもう一セット生むには宇宙は狭く、広大な宇宙という常識も非科学的な印象論のようです。宇宙人は絶対いるとの強い意志は、意外に情緒面に支えられているのです。

そこでアミノ酸なしの生命体など、定義を広げた主張があります。かくも生き物に存在して欲しい願望は、宇宙に備わっている意志ではというトンデモ説を考えてみました。しかしカギをにぎる謎の力は、伝達する媒体にあたる粒子が唯一みつからない重力です。
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ベーシックインカムの議論と芸術の定義づけ

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この10年、ベーシックインカムの語をよく聞きます。最低所得保証。その議論には各人の視界が反映します。広く遠くまで見るとベーシックインカムに賛成し、狭く近くを見ると反対する構図です。

失業しても生存できる程度のベーシックなら、支給額だけでは最低限の生活がやっとで裕福になれません。働かないと車もパソコンも買えず、海外旅行も無理。この制度に賛成する人には共通点があります。それは頭脳労働、知的業務が今後激減する証拠をあげている点です。

チェス、将棋、碁の全てで人工知能AIが人間に勝ったこと。銀行融資なる高給専門職をプログラムソフトに替えて、技能者の解雇が始まったこと。全分野で自動化。レジ係に運転士、相談員やすし職人に済まず、普通の店員や診断士や弁護士や教師も、無人ロボット化で大きく削減される職種です。働く場自体が消える未来が予約されています。

対して反対者は、制度を変えるつらさと利害、財源、働く意欲を理由に不可能との結論です。賛成者の視界に人類の進歩が生む社会崩壊があるのと対照的に、反対者には私情の吐露も多い。問題が大きいから手に負えないし、僕は銀行員やすし職人ではないからねと言いたげ。

両者の違いは、芸術の定義と似ています。人類の各時代の仕事を分析して、悠久の芸術を定義する者もいます。一方、今自分に描ける絵画が、芸術と呼ぶ範囲に入るように定義する者もいます。

人工知能の発達でしぼむ職業に、実は画家も含まれます。資本主義が人類排除の段階に来たシンギュラリティー以前に、世界一の高齢化社会なのだから日本は早い助走が賢明でしょう。フルタイムまでは無理な高齢者の自立も、飢え死にの確率をゼロにすれば再出発しやすいはず。
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スメタナとチャイコフスキーのハッピーエンドの違い

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スメタナ作曲の『わが祖国』の一曲で知られる『モルダウ』は、チェコ(かつてスロヴァキアと一体)のモルダウ川をモチーフとした管弦楽曲です。さだまさしが歌詞をつけて歌ったことがありました。

『モルダウ』は短調の悲しげなメロディーから、途中で何度か長調に変えて、幸福感で締める展開です。マイナー曲をラストにメジャーに転調し、ハッピーエンドで終わらせるクラシック曲は多くあります。

ポピュラーソングやロックにも多く、昭和歌謡でも最後に鳴らす一和音だけ長調で明るくした曲が意外にあります。短調イコール悲劇とも限りませんが、ガクッと長調に変えると突然晴れた気分になります。人生の後年に報われるイメージだとか。

『モルダウ』は短調から長調に変わると、曲全体がやや軽くなり粘着度も下がります。メソメソ感が消えると軽快になる。軽快にならずに重いままの転調といえば、大御所のチャイコフスキーです。

『白鳥の湖』50数曲中3曲目の『ワルツ』は、悲劇的な中間部が一気に希望へ転じます。つなぎの盛り上げと最後のはじけ方は、人類史上最も徹底した曲で、7分間が全150分の縮図になったかたち。

『くるみ割り人形』の『花のワルツ』も、かげらせ十分下げておいて、一転どーんと威勢よくひっくり返します。悲喜の落差を極大化させて、とどめのハッピーをもう一発、楽器を替えて炸裂させる。こうした一連の表現が、一枚の絵で完結できないか考えたりもします。
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大学アメリカンフットボール傷害事件の憂うつの正体

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大学アメリカンフットボール試合の傷害事件。加害者は「相手を壊せ」「つぶせ」の指令を受け、故意に負傷させたと認めています。上司は、「壊せ」「つぶせ」は思い切り当たる積極性の意味だと反論しました。「比喩なのに、まさか言葉どおりに受け取るとは」と。

その釈明は、実はロジックに難があります。「壊す」「つぶす」は隠語だからです。隠語は言葉どおりとは異なる意味を持つから、隠語を言葉どおり受け取るドジは意味不明。隠語をどう受け取るかの争点は存在しないのが本質論ということに。

たとえば「キセル乗車」は車内での喫煙ではなく、運賃の中抜き不払いを指す隠語です。キセルで行けと言われた部下は、中抜き不払いの指令以外に受け取りません。喫煙乗車と不払い乗車を取り違えたりしない。隠語で話す間柄に、解釈の相違は生じない道理です。

ところで、小学生の世界でこういう問答がありました。「お前の父さんおんな?」。「うん」と答えると「へえー父さんは女か?」。「いや」だと「へえー父さんはいないのか?」。どちらに答えてもからむ。少年グループの万引きで、ボスが強要した自主的窃盗もこの路線か。

アメフトでも、どちらへ転んでも犠牲が2学生へ向かい、指令者が免れる避難路が仕組まれていました。冗談を真に受けた学生がアホすぎると嘆いてみせ、被害者を演じるのがたやすい指令側。事件のキモは強者が言葉の多義性で弱者を追い込む、巧妙なトラップ・システムでした。

こうした多義性は、アートでもつくられます。一例はわいせつか、芸術かで報道される作品。ポルノ系のアダルトビデオに限らず、アート表現と又掛けして合法と擁護する場面をみかけます。ものによっては、大学アメフト報道の国民の憂うつと共通するかも。
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イスラエルでの首相晩餐会は靴に入ったチョコレート

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イスラエルの首相夫妻と日本の首相夫妻の晩餐会で、食後のスイーツにチョコレートが出た話題。一粒ずつ包まれたチョコを盛った4名分4個の器が、何と黒い紳士靴を模した金属オブジェだったという。

欧米からの意見がネットにも出たようです。世界一礼儀正しい日本から訪れたトップに、何てひどいことをと。食卓に靴を置くなんてあり得ないとして、つくったシェフを批判する声もあるほど。家の中で靴を脱ぐ文化を知るからでしょう。

しかし日本国内は、不機嫌な声もあったにせよ概して冷静でした。他人に靴を贈るのは親友の証しだろう、古いことわざにちなんだのであろうと。旧約聖書から引用した文脈かなという意見もあるようで。

過去と異なる新展開を誓う、景気づけも深読みできます。現代アート感覚で驚き笑うための、大人のいたずらとか。クリスマスプレゼントは赤い長靴で定着しているので、驚きはしない。

サプライズ系ジョークの一種だね、という意見も寄せられました。特別に印象に残る雰囲気づくりで、未来指向のチャレンジ精神を示すなど。単なる極論大好きのはずみかもとか。日本文化はこういう行動をいやがらせと受け取ることはなく、考察して受け流すのが一般的。

日本でこんな声も。靴もチョコレートなら理想的、奥さんにはガラス製の女性靴で。さらに国内で商品化できないかとアイデアマンたち。便器似のカレー皿みたいに。ならば、趣味の悪い現代アートが国内でもっと売れてよい気も。趣味がよいだけなら、デザイン止まりだから。
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景気回復と美術鑑賞はともに入口に壁がある?

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「日本の不況は、みんなが節約するせいで続いています」と言ったとします。たぶんかなりの国民は半信半疑でしょう。その突飛な説を信じてよいのか、ウソなのかと。言った人が無名ならまず信じないはず。

というのは、常識的な国民には次の感覚があるからです。出費を節約すればお金が減るのを防げる。減らなければたまるので、日本国内にお金が増える。だから節約を長年続けると、日本は裕福になるのだと。

逆にお金を無駄に使ってしまうと、減っていくから貧しくなる。みんな同時に使えば、みんな同時に貧しくなる。そこでみんなで力を合わせて無駄な出費をなくせば、国内の貧困を食い止められ、世界第二位の経済大国へ返り咲けると。節約すれば国が富むと。

この感覚を心得た人に対して、その理屈は完全に間違っていると忠告したとします。「節約すれば国は傾く」と言ったとします。多くは、何の話なのか理解できないでしょう。入口でいきなり壁です。

入口の壁はアートにも存在します。抽象美術がわからない人に、ピカソはこういうふうな話をしています。鳥のさえずりを聞いた人は、意味を理解できなくて悩んだりはしない。同様に鳥の声を聞くように絵画を見れば、何も難しくはない。

しかし声を聞くように絵を見るとは、いったい何の話なのか。そんな曲芸まがいが可能なのか、音が鳴る絵画とはスピーカーを仕込んだアートの話題かと疑問が生じ、結局絵の見方に変化は起きていません。ピカソの助言では人々は開眼せず。このように、正解より誤解の方がよく通る構造は至るところにあります。
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宇佐美圭司の絵画はなぜあっさり捨てられたのか

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宇佐美圭司の4メートル四方の絵が、東大の食堂改築でじゃまになり、捨てられた事件を再び。ネットに集まった意見は、宇佐美の教え子や美術関係者であり、広く国民の意見が集まったわけでもなく。

関係者の反応は活発でも、国民の反応はごく小さく、人々は気にとめていないのが全般的な情況です。この内輪と部外の落差について、美術関係者が深刻度を過小にみている印象があります。

事件の最大のポイントは、公共絵画の廃棄が抽象で起きた点です。しかし事件批判に「抽象だから」という話の振り方はなく、的を射ることなく悔恨も空回りぎみ。一般国民が現代アートに何を思うかが、顧みられないふうでもあり。曜変天目茶碗とやや似た展開です。

話を進めると、1980年代の日本で「アートのまちづくり」が大流行しました。ひとつは駅前広場に彫刻を置く運動です。建築家や土木設計者たちが、市内の各スポットにシンボル彫刻を置く設計が一大ブーム。今の現代アート・フェスティバルより、はるかにオープンでした。

その完成予想図には抽象彫刻が描かれました。しかし地方議会で却下されたのです。「市民は抽象など難しくてわからないから、税金で公共の敷地には置けません」と。人々が理解しないモダンアートを地元に見せるのはまずいとして、誰でもわかる母子銅像などに差し替えました。

当時、具象画にせり勝った宇佐美圭司の抽象画に、東大側も違和感があったはず。「こんな前衛を置いて許されるの?」と。抽象美術ヘイトも盛んな時代に、国民の敵だとの忖度も受けて。こうして全国各地で抽象を遠ざけ続け、現代美術アレルギーが大流行。この大事な背景を、もう誰かが言っても許されるでしょう。今の誰にも罪はないことも。
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芸術の特徴は表現の裂け目であるという新説で増補

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本書の第8巻は二度増補し、三度目の題名です。最初は『芸術は手で作らず目で作る』(9編)。『東日本大震災の幽霊と芸術の霊的なもの』(13編)から、『芸術の特徴は表現の裂け目である』(15編)と変えました。

この8巻には美術の入門的な説明は減り、比較的新しい事件に芸術の論理を引っかけた読み物ふう問答が増えています。テレビ番組がつまらない、一夜で白髪になる、STAP細胞はあるのか、ブラックボックス展は問題か、東北タクシー幽霊、ビットコインなど。

伝えたいのは、美術ジャンル外の日常に広く芸術が転がっている事実です。芸術の片鱗は遠い雲の上ではなく普通の暮らしの中に現にあり、普通に皆が接している事実です。美術を見る時にだけ、芸術との関わりが生じるわけではなくて。

日本の大きい問題として、「芸術は凡人が届かない高尚なものである」という気分を、美術関係者が打ち砕かずに、むしろ逆に促進した失敗があります。威光をあおって庶民に見上げさせ、頭を下げさせようと努めてきたのでした。高尚さの保護に皆で力を注いだ。

その結果、多くの国民は「僕は芸術と縁がない人間であり、生涯関わる必要もない」という思いを固めたのです。結果が東京大学関係施設内で起きた、昭和の抽象絵画を何となく捨てた事件でしょう。一人の失敗ではなく、大勢の無関心ですっぽ抜けたかたちです。

譲渡を考えなかった犯人を捜す声もありますが、そこじゃない。国民が芸術との関係を切った我関せずの空気を、業界側が温存させた反省を業界がやらないと。外国は「僕は芸術と縁があり、作品が家に何個もあります」の割合が高く、その差を縮める責務はアート業界側でしょう。
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本物の芸術作品が気持ち悪いのはどういうことか

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芸術作品の特徴に、気持ち悪さがあります。違和感があり、かすかに不快で、少し気味が悪い。強い不快ではなく、軽い不快。現代人が本物の芸術にイマイチなじめない大きい理由は、作品の独特の感じ悪さです。たぶん贈り物には使えないでしょう。

「芸術は気持ちがよくて快適感があり、心すっきり気分ウキウキ、明るく陽気で、よどみなくハッピー」と期待した人は、本当の芸術に接してがくんとマイナス方向にショックを受けます。こんなのやだー。

美術家もこの逆説の真理を、学校などで知らされないままです。「あなたの作品には気持ち悪さがありますね」などと言われたら、悪口と受け取り傷つき反発します。本物の芸術作品を現に作れている者に向けて、そのどこが芸術かを言葉にする他人は苦心するのです。

芸術の不気味さの原点は、太古のアート類にある嫌悪成分が顕著です。わざと狙った誇張や目立つためのやらせ感とは違う、ささやかなグロい何かが全てにあります。凛々しい中に何か魔界の闇と通じているみたいな、怪しい妖気がただよって。

世界最高の絵画『モナリザ』も例にもれず。「じっと見ると意外に気味悪いぞ」「ちょっとだけ怖いと感じるのは僕だけ?」の声がすぐ出てきます。今ではいやし系の印象派ドガの『踊り子』などにも、その不穏な画調はみられます。デザイン画とは異なるダークな世界。一般に愛好される絵とは正反対な、暗い怨念が芸術の現れ方です。

そんな気持ち悪さもダダ運動タイプにかかれば、すがすがしいほど活字どおりです。「グロいのが芸術ならグロサイトのテロ被害写真がある」「違和感は変顔で足りる」「暗い会場にしたければ電気を消そう」と。額面どおりだから、かえって話がからまりますが。
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宇佐美圭司の絵画が東京大学で廃棄されていたらしく

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宇佐美圭司の大作絵画が、東京大学の本郷キャンパス中央食堂に長く飾ってあったそうで、最近改築の支障になるとして廃棄処分したニュースがありました。捨てられかけたゴッホと似た事件。見落としやすいポイントは、抽象画の受難だったこと。具象画なら違う展開のはず。

宇佐美圭司のあの作風は地下鉄の路線図を連想させるデザインふうで、1980年代の雑誌記事では、液状の絵具を淡く塗り重ねて乾燥時間がかかるというインタビューでした。油絵具は塗って何日も濡れた状態なので、アクリル絵具より日数がかかります。

宇佐美圭司の絵は数百万円ともあり、独自画風でその程度なのも驚き。古典洋画の暴落を訴える相続者もいて、日本美術全体が低調です。芸能人の絵より割安なのは、国内に美術の一般市場が今もない上に、26年目のデフレ不況の最中だからでしょう。

著名な画家名を周知徹底すれば廃棄を免れた式の反省は、新作を見る目は日本にないと公約しているも同然です。「無名画家なら捨ててもOKという話ではないぞ」と、文化保護寄りの良識も目に入りました。これで名が売れて価格高騰したら、ホント話題頼みの値づけです。

町おこしの現代アート・フェスティバルがテレビで話題でも、現代美術が国民の関心事にはなっていません。現代アートファンが結束し、高い城を築いて盛り上がっても、外界は巻き込んでいない点には注意がいります。離反は続いています。

現代アート推進派は離反を認めず、具象と抽象に壁はないと考えます。それは内輪の話です。世間に壁があるのにないみたいにふるまえば、このようにツケが大きい。美術を普通に目に入れ気にする人が多数いる国に、日本を戻す必要があります。本書もそれが目的です。
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日本人は個性が乏しいという常識は実はウソなのかも

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本書の問題意識に、日本人は没個性だとする常識への疑問があります。常識がウソではないかと。日本人は世界でも個性的なのに、逆に個性がないという間違った定義を広めたせいで、調子が悪くなった疑いです。

何かを宣告されると、人々の心は固まり現実を曲げて解釈するように変わる。このアナウンス効果の心理作用が注目点です。それは時には悪用され、組織運営の作戦にもなっているほどです。

スポーツ団体で不祥事が指摘されると、団体は「その事実は一切ない」と宣言します。次に「事実はこれから調べます」と言います。調べる前に結論を言うのは不手際ではなく、「今後の調査はこの結論へ落とせ」の指令です。これから調査する人へ圧力をかけたつもり。

この圧力効果と同じことが起きます。「日本人は没個性だ」と先に宣言すると、それが国民への指示となり、個性的な美術が本当に排除され、新人美術家が本当に個性を引っ込める作風傾向が強まるでしょう。

公募コンテスト展の審査員も、宣言に影響されて個性が濃い作品を落選させ、日本本来の姿を守ろうと努力するわけです。定義に反した事態を生じさせたら、文化を壊した罪悪感にさいなまれる一種の忠誠心です。頭に入っている定義を守ろうと尽力する。

ならば、その定義は誰のしわざか。大正と昭和に出された欧米人の日本人論で、来日前の先入観で書いた本がそうです。結果的に血液型性格占いのように、該当者が定義に沿うよう行動を変えました。後世に日米で科学調査が行われ、日本人はアメリカ人より個人主義的だと集計され、個が埋没して没個性だという嫌疑は晴れています。
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芸術と個性の関係をうまく解釈できないものか

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芸術は個性、の言い方は日本では好まれません。個性の語を悪い面に使うからです。個性と言えば困りものの評価が含まれ、明るい好人物を個性とは呼びません。問題行動や心身の障がいを、個性と言い換えようと呼びかける人もいるほど。

美術の芸術成分は個性なのだと言うと、皆さん不安になります。誰かが調子に乗り、悪い作品を世に増やすかも知れなくて。自由奔放に走った自分勝手な表現で、世界がしっちゃかめっちゃかになる不安です。

こうした往年のアンチ個性主義に対し、強い反発も起きます。STAP細胞擁護は、不正行為を個性と呼び絶賛したムーブメントでした。不正はだめと戒めた日本科学界に対し、日本特有の個性排除はよせと知識人が怒った現象が後半でした。本書第8巻に詳しく書いています。

美術の個性とは何か。どれを指して個性と呼ぶのか。考えすぎてもわからなくなります。単純に、他と異なるキャラだと解釈して足りるでしょう。違うことが大事であり、良し悪しの評価まで含めないのが正解。

ゴッホ事件が示したのは、ビフォーに個性を排除し、アフターに個性を求める、人類の行動特性でした。「個性はちょっと」と「個性は永遠」の間で人はゆれ続けます。もうそういう前提。当代の個性は違和感になるから、困りもの説は美術ではいえるでしょう。

ところで、関係があるのは作者の個性ではなく、作品の個性です。主役は作品。物に個性があるという発想です。作者の人物像をたどるのは、おもしろいけれど間違いも増えます。作品だけ見るべしの言い方が一応正解です。
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画家や彫刻家はシンデレラになれるのか

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外国の美術展に参加するアーティストに、大事な注意事項があります。美術にシンデレラ現象はないというのも、そのひとつです。一晩で出世はできません。

シンデレラ現象は、他のジャンルでは実際に起きています。ジャズ音楽ではキャノンボール・アダレイ、ロックではオールマン・ブラザーズ・バンドやサンタナ。ミュージカルでも、一夜でスターというアメリカンドリームがたまにありました。

しかし絵画や彫刻では起きません。世間の関心度が低いからです。鉄道模型に画期的なアイデアが生まれても、狭い盛り上がりなのと似ています。だから絵画や彫刻では、作品で弾幕を張る必要があるのです。射撃場のえり好みは損なだけ。

そして考えてみると、音楽家も俳優もやはり数は撃っています。音楽ならクラシックでも年間50回以上はコンサートに出て、ジャズで100回、ロックで年に200回なんてことも。

画家や彫刻家で、年に100回展示するケースはまれでしょう。たぶん大多数は年1回きり。まさに露出度どおりの目立ち方です。だから、外国で一回展示して反応がなくても、絶対にひるんではいけません。何度でもこりずに挑戦するが勝ち。美術にシンデレラなし。

現実には一度試して不発だと悲観し、成長の機会を自分で消した撤退が目につきます。だめ画家ゴッホでさえ、しつこく何度も挑戦し、没後に弟の妻が執念で社会に認知させました。著者は他人の好作品にスキを見つけると、修整して何度も舞台に上げることを考えます。
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考える人になることで美術は逆にわからなくなる

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
美術鑑賞する脳のはたらきは、思考とは違うと疑ってきました。今日よく聞く言い方「考える力が大事だ」が、アート鑑賞には通用しない問題です。現実はどうか、理想はどうあるべきか、という二つの点で。

疑うひとつの根拠は、天才的な頭脳を持つ人でも、芸術に言及する時は凡庸な認識にとどまる傾向です。頭脳優秀だと自他ともに認める人が、芸術がわからないままなのは不思議です。

芸術鑑賞は思考では解決しないということでしょう。思考力では歯が立たないところに芸術性が表れるなら、鑑賞のテクニックも全く変わってくるでしょう。「よく考えました」では鑑賞に失敗します。

「感じるな、考えろ」へと美術鑑賞が向かう原因で、あることを思い出しました。近代具象の彫刻家ロダンのブロンズ像『考える人』です。日本人が彫刻の原点と心得た、彫刻界の『モナリザ』相当です。図工や美術の教科書に見るこの名作は、「考える」とあります。

この題名が、考え込む鑑賞法を刷り込んできた疑いです。『考える人』が原点となり思考力重視へと引っ張っていて、国民が分析的にパズルを解く流れができている疑いです。

彫刻界のピカソは、ヘンリー・ムーアが知られます。ただし同じブロンズ像でも抽象造形だから、分析しても内容に迫れません。「考えるな、感じろ」の作品です。その題名が『感じる人』かせめて『考えない人』なら、別の鑑賞法へ引っ張ってくれるかも。
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落語は芸術の本質がわかりやすい代表

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現代美術はインチキの詐欺ってホント?
芸術とはこういうものだという代表に、落語があります。芸術の模範です。ただし落語家が言うには、そんな大それたものでなくて末席の大衆芸能だという。演じる人も別に立派でなく、高尚ではないからねと。

このように落語を低く位置づける傾向は、芸術を高くみる庶民感覚への配慮もあるでしょう。一部の人が芸術を社会の上層へ位置づけた、それに対するカウンター的な棲み分け意識もあるでしょう。落語を芸術と呼ぶと、庶民との関係が切れてしまう心配です。

絵や彫刻がハイソな世界にあるひとつの理由は、作品の値段です。値上がりした一品絵画などは、金持ち層にしか買えません。だから社会的地位に比例したイメージになっています。安く楽しめる落語は、やはり芸術でない印象になりやすい。

落語には表現の裂け目が豊富です。笑いの中に悲哀の亀裂だとか、人情話の途中にトンデモギャグが一発とか、最初の無駄話が最後のオチに結びつく驚きとか。まさかのどんでん返しや、常識と非常識のひっくり返しなど裂け目だらけ。落語は芸術作品だと容易に判定できます。

落語の世界には、師匠や兄弟子が絶対の徒弟制もあります。好き勝手がしにくい封建道徳です。和服姿だから保守的にみえます。しかし、型にはまったり個性が引っ込むのを嫌う体質で、芸道とはほとんど逆の世界です。他人と同じことをやるなと戒めた、珍しい分野です。

ただそんな落語家も絵や彫刻を前にすると、横つながりの応用がきいていないように感じます。普段から表現の裂け目を実現している立場なのに、型にはまった絵のデッサンをほめて終わったりして。美術以外の分野の芸術家たちが、美術を語る時には芸術的になれないのは不思議な現象です。
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